第3話 小公爵様は、巻き毛の黒羊の夢を見る

 息を切らして扉を開ければ、フィルが客間の長椅子に横たわる姿が目に入った。布と毛糸に半身を埋めている。

 早足で近づけば寝息が聞こえてくる。アリシアは急いで床に膝をつき、異変はないかと唇に耳を寄せ、そこでやっとローテーブルを挟んで座る若い紳士の存在に気付いた。

 例の王太子の側近だ。コートを着てすっかり帰り支度を整えている。


「小公爵夫人におかれましてはご機嫌麗しく」

「ご挨拶が遅れました。おもてなしできず……旦那様も眠ってしまい失礼を」

「いえいえ、予言でお疲れなのでしょう」


 アリシアが紳士の満足げな笑みに曖昧な微笑で応じた時、フィルがゆっくりと体を起こした。瞼を開けば公爵夫人と同じ空の青が現れる。


「……確かに。後はお二人でごゆっくりお過ごしください。もう邪魔は入らないでしょう」


 紳士はそれでは、と帽子を上げて部屋を出ていく。

 扉が閉められると、アリシアは眉根を下げてフィルを見つめた。


「眠ったふりをされましたね」

「君は大丈夫だった? ……良く分かったね」

「私は平気です。それにひと月、いえもっと長く傍にいれば寝息の変化くらい分かります」

「寝たふりは相手が安心して、何でも話してくれるから便利だよ。ほらここに座って、説明するよ」


 アリシアはフィルの横に座り、用意された紅茶で乾いた喉を潤すと、一番気になっていたことを尋ねる。


「予言はどうなりましたか」

「予言どころか、僕でなくても解決できる問題だよ。あれは初歩的なバトン状スキュタレー暗号……知ってる? 見る方が早いね」


 フィルは一枚の紙とハサミを取り出すと縦に細く切り、細長い棒に巻き付けた。そして文字を縦に、一行、二行と書いていく――ひつじがいっぴき、ひつじがひにき。

 最後まで書き終わってから棒から外せば、紙紐に意味不明な文字の羅列が現れる。


「手紙には署名はなく『子供ができたかもしれない』という内容が書いてあった。これは殿下も工夫して解読したはずだね。

 だからね、問題は送り主が何を使って文字を復元

「というと?」

「同じ太さの棒でしか再現できないからだよ。

 初めは、殿下が二人の一方にだけ贈った、自身とお揃いの何かかなって考えた。でも女性二人に同じものを贈ることもあるし、先の男性は心当たりがないというし。

 それで後半の字間が妙に空くのを手掛かりに、何をバトン代わりに使ったのか考えてみたんだ」


 フィルはもう一枚紙紐を作り、今度はテーブルに置かれたままの、空の花瓶にくるくる巻き付ける。安定のため下部に行くにつれ直径が太くなる。


「こんな風に徐々に太くなる、個人を特定できそうなもの。長さと太さが丁度腕と同じで――ね、僕の予想はここまで。

 それで理屈は伏せて、こんな腕の持ち主だと教えたんだ。予言っぽくね」


 お茶のお代わりを注ぐ執事が、一世一代の演技でしたよと苦笑している。


「二人の腕の判別が付くか、そして分かったと送り主に告げるかどうかは殿下次第。腕を覚えている方を愛している確率は高いかなと思うけど、手紙自体狂言かもしれない。

 何にせよ、殿下が自分を見つめ選択するきっかけなだけだね。

 ……まあ、僕が何を言っても父がうまくやってくれるらしいから、きっと大丈夫だよ」


 そこでフィルはふわ、と小さな欠伸をする。今度は本物だ。


「寝たふりで疲れたから、今から寝室に行ってもいい? それでもし予言の寝言を言えたら、こっそり教えてくれるかな」


 彼が瞼をぱちぱち瞬き指を近付けると、半透明の青い花弁が指先に乗って、瞳には再びもとの薄い紫が現れた。


「……えっ、あのっ」

「お祖母様が作り方を残してくれていたんだ。それに君のもこもこのおかげで、気付かれずに付けられた。

 ――殿下がアリシアに危害を加えようとしたから、こっちも最後の予言だって思わせるために利用させてもらったんだよ」

「あれ、でも予言が、って?」

「良く気付いたね。視たくないものを視てしまうことは沢山あるけど、視たいものを全く視れないと言ったことはないよ?」


 穏やかにアリシアを見つめるフィルに、彼女は騙されたと呆然とする。


「僕は昔からこの力が嫌で仕方なかった。だから自分で力を使い切れるかどうか、随分試したんだ。一人の夜が怖かったから、将来一緒に寝てくれる人の夢を見たいって願った」

「あの、それって」

「ただアリシアが見れたのは予言じゃなくて、ただの夢見がいい日だったんだけどね」


 平然と好意を告げられてアリシアは固まり、落としかけたティーカップを横から伸びた白い指が支えた。



***



「小公爵様、就寝のお時間です」


 あの日寝言で「黒い羊」とだけ言ったフィルは、翌日には本来の青い瞳を取り戻した。

 それから窓のある部屋で寝るようになり、朝に起き、昼間は散歩をして食事をしてと、少しずつ健康的な生活を取り戻している。

 アリシアの記録係の役目も終了して、今は寝る前に様子を見に来るだけだ――時折、羊は数えているけれど。だから寝言を記録せずに済んでほっとしている。寝つきがいい日に、彼女の名前が混じり始めたから。


「今後他の方に聞かれると問題が。別の寝言になりませんか」


 ある日決意してベッドサイドで尋ねれば、半身を起こし寝支度をしていたフィルは首を傾げた。


「大丈夫だよ。寝室に奥さん以外を入れる気はないからね。……奥さんは続けてもらえるの?」

「心配ですし、望まれる限りは」

「アリシアにとって僕は夫じゃなく、ずっと世話の焼ける幼馴染なのかな」


 フィルの両手が伸びたかと思った瞬間、二人横向きにベッドに転がる。冗談には大胆な、でも昔に戻ったような行動にアリシアは狼狽える。


「嫌? 変なことはしないよ」

「嫌では、ないけど」

「良かった。僕の子供の頃の夢はね、大きくなったら君を寝かしつけることだったんだよ。いつだって誰より遅くまで起きて頑張っているから」


 優しい声と眼差しに包まれ、ふわふわと頭を撫でられ――母の葬儀でもそうしてくれたとアリシアは今更思い出す。

 自然と瞼を閉じる。とても居心地がいい。やがて続いた寝不足のせいか強張っていた四肢が次第に緩み、眠気が波のように押し寄せてくる。


「眠い? 寝ていいよ」

「……フィル。ただの契約結婚なのに」

「ただの、って思ってるの、公爵家うちで君だけだけどね。……そうだね、僕の今後が決まったら改めて話そう。まず、予言で視たから好きになった訳じゃないってところから」


 アリシアは問い返そうとしたが、小さな欠伸が漏れるだけ。


「……予言。黒い巻き毛の羊の夢を視ていたんだ」


 ふわふわの白いものに包まれる気配がした――もう限界だ。

 耐えられずに意識が眠りに落ちる直前、アリシアは耳元で優しい声を聴いた気がした。

 

「――おやすみ、僕の優しい羊」

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小公爵様、就寝のお時間です 有沢楓 @fluxio

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