第2話 睡眠記録係、小公爵様の安眠に奔走する
「小公爵様、おはようございます。朝ですよ」
アリシアは天蓋の内側から聞こえる寝息の変化に、テーブルに並べたカップふたつにハーブティーを注ぎ、ランプを灯した。
一か月前の運命の日。あの後、ドレスの採寸と新しい部屋の用意がされ、諸々の書類の記入と瞬く間に婚約、結婚と話が進んだ。数日後には仮の妻になって今に至る。
「ふぁ……おはようアリシア」
欠伸交じりの声と共に天蓋が細い指で開かれる。
純白のふかふかから体を起こしたフィルが微笑み、カップに口を付ける姿は妖精のよう。
数年ぶりの再会にアリシアも当初こそどう接すればと戸惑ったが、穏やかな様子は変わらず、程なく緊張は解けていった。
アリシアは早速、クマの濃さ、布団のずれ具合、額に手を当て体温チェックして記録用ノートに書きこむ。
天気は晴れ、室温22度、湿度そこそこ、睡眠時間……朝3時から7時まで。昨夜の寝言……「なし」。顔色、昨日よりは良さそう。
「今日もよく寝れたよ、ありがとう」
成長につれ落ち着いていた不眠はここ3カ月で急激に悪化し、2時間続けて寝られたら幸運という状態。アリシアとの再会時も疲労の限界だったそうだ。
それが見守りを始めてから少し長くなった。呻き声が時折天蓋から漏れるものの、今日は何事もなく4時間も寝られた。ものすごい進展と言っていい。
「そろそろ窓のある部屋に移りませんか? 朝日を浴びてお散歩をして」
「……君が言うなら、そうしようかな」
「良かった。落ち着かなければすぐ戻しましょうね」
匿われている、夢見が悪いせい、呻きや予言を聞かれないため。どれが理由でも、四六時中、この暗い部屋で臥せっているのは心にも不健康だ。
「でも、寝ようと焦らないでいいですよ。弟妹なんてあらゆる手を使っても起きていたがって――そもそも布団で大人しくしてないんです。ベッドにいらっしゃるだけで偉いですよ。……あの、大丈夫ですか?」
頬が少し赤くなったかなと顔を窺うと、ついと視線でベッドの隣を示された。
「……お茶、ここで一緒に飲まない? 奥さんなんだから」
「いえっ、これが正しい距離ですっ。奥様に託されたのは、妻とは名ばかりの睡眠記録係ですから!」
つまり夫人の結婚の提案は、「寝室にいて不自然でない」が一番の理由で結婚は手段でしかない。添い寝係でなくて良かった、とは心底思ったが。
アリシアは急いで、彼にとっては目覚めの、自身にとっては仮眠前の一杯を飲み干した。
「そうだね……巻き込んでごめんね。『奥さん』が予言だと母が勘違いをして」
夫人が結婚を勧めた、二番目の理由がそれだ。
「すぐに誤解は解けますよ」
「でも昔から、君が側にいると安心してよく眠れるのは本当なんだ。この羊も留学に持って行った」
枕元の、くたくたの羊のぬいぐるみをひと撫でする。
5歳くらいの頃、怖い夢を見て眠れないと言うのでプレゼントしたものだ。実際、伯爵家でうたたねの最中に叫んで起きる姿を何度も見たことがある。
「悪い夢を食べてくれるんだったね」
「子供の思い付きです」
指を針で刺しながら作ったそれは、今見ると縫い目がガタガタで恥ずかしい。「ずっとお守りにしてたからね」と言われれば肩をすぼめる。
お茶を飲み終えたフィルは公爵夫妻から頼まれている、わずかな仕事に取り掛かった。
サイドテーブルに積み上がった手紙に目を通していけば、みるみるうちに表情が曇っていく。
「いくつかは王太子の側近の名前だ。留学先から姿を消せば露見するのも時間の問題だったね。
ここ数年彼らの興味は専ら、王太子の子がどちらに産まれるか――自分で何とかできるものを視て欲しいだなんておかしいね」
王太子には妃の他に愛妾がいるとの噂は、アリシアも耳にしたことがある。
「予言を夢で視るのは家族の秘密ですよね?」
「お祖母様は起きて視ていたから。間違いでも、そう思わせておいた方が危険が少ないかなと。
困ったね。後で伺うとだけ伝えておこう」
手紙を除け、別の手紙を手にする。
「母の友人からの相談は――うん、きっと失せ物は彼女の、無断借用が好きな甥の手元にある。確か趣味のクリケットで賭け負けていたし。
こちらの子爵夫人の相談は……その場に鏡があったはず」
絹のように柔らかい雰囲気と声が、こういう時は少しだけぴんと糸を張るようだ。
彼に直接でなくとも、予言をあてにしているのかどうか、しばしば相談事が持ち込まれるらしい。
「本当に予言ではないんですか?」
「お祖母様も似たようなことをしていたそうだよ。僕のは単に記憶力と可能性の検討だけどね」
「私にもよく助言をくれましたね」
アリシアが何かを失くしたり困った時には、いつも的確なアドバイスをくれた、と思い出す。
近所の子供と揉めた時も、言われた通りにしたら相手の態度が柔らかくなった。
母の葬儀でも、弟妹たちの前だと我慢していたら、泣いてもバレない場所に連れて行ってくれた。
「あ、でも誤解しないで。君には義理じゃない」
彼は微笑むと、また手紙に軽く目を通し始める。
「それと予言は、夢は見ても忘れることがあるから、原因を除くために寝言を記録することになったんだろうね。母は力なんてない方がいいって考えている」
彼が手紙を分類し終えたのを見届け、アリシアは立ち上がる。
「朝食とホットミルクをお持ちしますね」
「食事は後にして、昔みたいに羊を数えてよ。声を聞いていたら眠くなってきた」
フィルがまた布団に潜り込むので、アリシアは椅子を寄せて腰かける。
「私で宜しければ。……羊が一匹、羊が二匹……」
かつて亡き母親が語ってくれたように。体力の限界でソファに倒れ込んだ彼にかつてしたように。
ゆっくり羊を数えていくと、細い指がそっと伸びてきて、肩口で揃えたふわふわの巻き毛に触れた。
「……覚えてる? 眠れるまで1万匹も数えてくれたこと。君の声は優しくて、黒毛の羊みたいで……」
うとうとと、フィルの声に眠気が混じり始めて瞼が閉じる。
ほっとしたアリシアが顔を少し近付け、おやすみなさいと呟いた時――突然扉がバン、と開いて侯爵夫妻が雪崩込んできた。
「――起きたかフィル!」
「あなた、静かにしてください」
ぱっちりと目を開いてしまったフィルの顔がいつもより近くて、アリシアはばっと体を起こし、慌てて壁際まで退き礼を取る。
「小公爵様はただいまお休みのお時間です」
お邪魔をしてごめんなさい、と嬉しそうに夫の腕を引っ張る夫人だが、夫たる公爵は手の中の立派な封書を掲げてみせた。
飾らない人柄は知っているものの、きっちり撫でつけた髪と肩書きに違わぬ風格を前にして、羞恥と緊張とで膝が震える。
「王太子殿下の既知から、会いたいとの手紙だ」
「……恐れながら今は小公爵様のご健康に関わります」
「息子への忠義は大したものだが、これは我が
アリシアが目を丸くして固まると、布団が跳ねのけられる。
慌てて駆け寄り、床に降りたフィルのふらつく背を支える。服の上からでも分かるほど頼りなく、勉強一筋のすぐ下の弟より細いくらいだ。
「ありがとう。……お父様、それはつまり殿下から僕への脅迫状でしょうか」
「お前には依頼の手紙が届いているはずだがね」
おっとりとした口調で尋ねるその声は、アリシアが握る封筒の上から添えられた指と同じくらい、冷えていた。
「なるほど」
彼はサイドテーブルの「後処理」の手紙の山から膨らんだ一通を再び手に取り、封を開けた。中から、便箋が一枚と紐状の羊皮紙が現れる。
羊皮紙には意味のない文字の羅列が書かれており、しかも徐々に字間が離れていく奇妙なものだった。
「……どちらの女性からの手紙なのか、予言して欲しいそうですよ」
***
アリシアの、実家で必要に迫られて上がった裁縫や編み物の腕は、フィルをもこもこの白羊にして応接間の長椅子に座らせていた。
目の前のローテーブルには、王太子宛ての手紙である細長い羊皮紙と、空の花瓶。
もうすぐ依頼主――王太子の側近で侯爵家の嫡男が、予言を聞きに訪れる。真の依頼人が来ないなら好都合と、体調不良を名目に招いたのだ。
「手紙の送り主が王太子妃か愛妾のマイヤー伯爵夫人か。筆跡で分からないなら、これは『暗号』の問題だよ」
毛糸のネックウォーマーから顔を覗かせるフィルの顔は真剣だ。アリシアが心配して見やれば、
「大丈夫、父に許可を貰ったよ。もう君を怖い目に遭わせない。今日で終わりにする」
彼が依頼を引き受けた直接の原因はふたつ。
ひとつは手紙の「予言をせよ、さもなくばアリシア・ドーソンは(無実の罪で)裁かれるだろう」の記載。括弧内はフィルの補足だ。
もうひとつは、マイヤー伯爵夫人がアリシアに会いたいと同時刻を指定してきたこと。
妻を危険に巻き込んだと、罪悪感を抱いたらしい。
「あの、終わったらそのまま寝ていいですからね。暖かいものを飲んで、頭と足先は涼しく……執事さんの言うことをよく聞いてくださいね」
指の冷えを思い出し、薄紫のドレスで着飾らされたアリシアは長椅子の周りをうろうろしていたが、夫人に「時間よ」と声を掛けられて振り向く。
「ありがとうございます、奥様」
「奥様じゃなくてお義母様でしょう。ふふ。娘っていいわね」
嬉しそうな夫人に、フィルは何度目かの念を押す。
「アリシアを一人にさせないで」
「任せて頂戴」
「はい、私も公爵家の名を汚さぬよう頑張ります」
――そう頷いたはずだったが。
十分後、東屋でアリシアは一人、マイヤー伯爵夫人と自分を隔てるテーブルが小さいことを少し恨んでいた。
庭に出た途端、厄介なトラブルが起こったと公爵夫人が呼ばれてしまったのだ。客人を待たせている東屋はすぐ先で、目が合ってしまえば敵前逃亡できない。
伯爵夫人の年齢は十は上。円熟味を増した美しさと品のある仕草は、同じ伯爵家でも何もかも違う。胸元が開いた大人びたドレスを着こなし、豊かな栗色の髪を華やかに結っている。側に控える侍女も彼女に花を添えていた。
「あなた、少し前まで侍女だったそうね。ご実家への援助は十分なのかしら?」
初対面の挨拶と雑談をやり過ごした後、伯爵夫人の艶やかな唇から出た突然の言葉にアリシアは怯む。
「……今まで私には過ぎた給金と教育、愛情を頂きました」
「どれくらい援助すれば離婚してくれる? そもそも公爵家に相応しくないでしょう?」
アリシアは伯爵夫人が王太子の愛妾なのもどうか、と良識で思う。が、権力というものの複雑さと大きさ、国母になれば立場をひっくり返せる可能性も知っている。子が夫でなく王太子の子だと証明できれば。
公爵家にも最初から釣り合うと思っていないし、契約上の妻だ。
だから発言内容には動じなかったが、口を挟むには相応の理由があるはず、と考えれば何と答えれば良いか、心臓が煩い。恩師の教えを辛うじて思い出し、まずは微笑して――、
「我が国の予言の力を絶やさないよう、王家の血筋を入れた方がいいと思うの」
――微笑できなかった。
たぶん弟妹の世話で、駄目なものは駄目と叱ることに馴れ過ぎていた。
そして、幼馴染への親愛の情のために。
アリシアの脳裏に、悪夢に飛び起きる小さな子供の姿が蘇る。若き公爵夫人の目の下にクマがあったことも。
今までフィルに婚約者がいなかったのは、強い予言の力を懸念したせいでもあったのかもしれない。公爵夫人の心配が痛い程に分かる。
――彼と彼の子を、これ以上意図的に苦しめるなんて、できない。
「……望まれない限り、離婚いたしません」
彼女は自分の幼い顔では迫力が不足の自覚はあったが、きっぱり拒絶した。
「それより、今日のご訪問を王太子殿下はご存知でしょうか」
カマをかければ伯爵夫人の喉が上下して、顔がほんの少し強張る。弟妹たちがいたずらを誤魔化すより、ずっと嘘が下手だ。
……これは彼女の勇み足か王太子へのアピールかな、とアリシアは考える。
「殿下は関係ないわ、親切に助言しに来てあげただけよ――失礼な方ね。もういいわ、用件は済んだから。帰ります」
もしや人質ではなく、時間稼ぎだったのかもしれない。
思い付きがたちまち焦燥に変わり、伯爵夫人が立ち上がるよりも早くアリシアは東屋を飛び出した。ここは使用人が何とかしてくれるだろう。
早足に戻って来た公爵夫人が驚く脇を通り抜け、柵に手をかけ飛び越えて。
客間の扉まで、あと少し。
「――フィル!」
次の更新予定
2024年12月5日 19:22
小公爵様、就寝のお時間です 有沢楓 @fluxio
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