小公爵様、就寝のお時間です

有沢楓

第1話 没落令嬢、小公爵様の睡眠記録係兼契約妻になる

 くるくるの黒い巻き毛が、モーブ色の地味なドレスの肩で跳ねた。

 公爵夫人の侍女たる伯爵令嬢アリシア・コベットの黒い瞳は、何も見逃すまいと絨毯に残る丸い足跡をブーツで踏みながら追う。

 普段大人しい彼女が逃げ出すのはここに来て三年、初めてのことだ。


「待って、いい子だから……っ」


 お屋敷の端から端まで駆けたせいで喉が喘ぐ。

 以前は平気で弟妹きょうだいを掴まえていたのに、と考えた時、最高級の羽箒に似たふかふかの尾が揺れながら、廊下の奥、分厚い扉の中へ消えていくのが見えた。


 行き止まりだ。

 22という年齢には幼く見える顔を輝かせ、アリシアは駆ける。

 主人から「近づかないように」と言われていた部屋だと気付く余裕もなく、窓もない部屋の大半を占めるのが天蓋付きの豪奢なベッドで、客用寝室にしては奇妙だと思うこともなかった。


 四方に降ろされた分厚い天蓋の隙間からするりと内側に入り込む尾を求めて、ゴブラン織りと薄いシフォンを搔き分ける。

 暗がりの中振り返ったペルシャ猫はやっと追いかけっこに飽きたのか、ちょこんと座った。白い毛並みを羽毛布団と同化させながら、灰色の目でじっと見つめてくる。


「さあ、奥様がお待ちかねですよ」


 身を乗り出し両手を伸ばしたアリシアだったが、突然その体が何者かに布団に沈められた――ふわふわに埋もれて気付かなかった、細いけれど筋ばった両腕に背中を抱き寄せられて、暖かい胸板に押し付けられる。

 どこか甘い香りがして、巻き毛をふわふわと撫でられた。

 頭をもたげて目を瞬けば、繊細な金の睫毛に縁どられた薄い菫色の瞳がぼんやりと笑んでいた。


「おはよう、僕の可愛い奥さん」


 女性と見紛う顔立ちに相応しい、細く柔らかな声が響いて――吐息が耳をかすめた瞬間アリシアの右手が唸り、パン! という小気味よい音がそれらをかき消した。



***



 寝間着から白いシャツとベージュのスーツに着替えた線の細い青年が、公爵夫人の隣で硬直するアリシアに、深く頭を下げる。


「先ほどは大変失礼いたしました。言い訳というか説明を申し上げると……寝ぼけていて」


 顔を上げれば朝日を溶かしたような金の髪が揺れた。ばつが悪そうな白皙の頬には赤みが残っている。


「……私も大変ご無礼を」


 冷静さを取り戻したアリシアが何とか返答してソファに腰を下ろすと、華やかな美貌の夫人は膝で撫で回していた愛猫を降ろした。


「こちらこそごめんなさいね。息子は叩かれて当然のことをしたもの。私の親友、あなたの亡きお母様に申し訳が立たないわ」


 アリシアは夫人と真向かいに座った青年を見比べる。印象は違えどよく似た顔立ち。

 記憶よりは薄いけれど穏やかな菫色の瞳と、その下のより黒くなったクマ。

 ――公爵家の長男、隣国に留学中のはずの、同い年で幼馴染のフィルだ。


 アリシアの母とローランド王国有数の名家でもあるドーソン公爵家の夫人は学生時代からの親友で、結婚後も親交があった。その縁で彼が寄宿学校に入るまではよく遊び、以降も長男長女ということもあり母の葬儀や留学前の挨拶など節目には顔を会わせていた。

 懐かしく思うと同時に、今まで屋敷に彼の気配を感じなかったという事実に動揺する。


「奥様、ご令息は留学中と伺ってましたが……」

「息子の友人が、不眠で倒れたと手紙をくれたの。だからひと月前に呼び戻して、密かに療養させていたのよ。最低限の使用人にだけ知らせてね」


 ティーカップを置いたメイド長が心得たように席を外し、応接間に三人だけになると、アリシアは震える唇を開いた。


「療養中だなんて本当に、申し訳ありません。

 それに小公爵様が『奥さん』と。もしご結婚されているなら重ねてお詫びしなければ。それから奥様の目に留まらないうちに、図々しいですが次の就職先の紹介状を……」


 アリシアの実家・コベット伯爵家は、領地の度重なる自然災害のせいで、端的に言って貧乏だ。女学校は出たが、社交界デビューでなく将来の賃金のため。今も仕送りをして弟妹たちの教育費に充てている。

 公爵夫人は好意で雇ってくれた上に何かと気にかけてくれるが、いつまでも甘えてはいられない。

 結婚を知らなかったことは寂しいが、やはり部外者なのだ。今がその機会なのかもしれない。

 

 そんな決意を込めたアリシアの言葉に、公爵夫人は笑い出した。


「まさか、婚約者だって決まってないのよ。でもそうね、そういうことなら――」


 侯爵夫人は何事か得心したように頷くと、青い瞳でひたと彼女を見据えた。


「私はあなたの自立を応援したいと思っていたわ。でも」

「は、はい」

「少々お転婆だけれど、女学校の成績も優秀だし家族思いのいい子だわ。おまけに幼馴染で、息子の秘密を知ってしまった」

?」

「ええそうよ。この子の瞳、昔はもっと濃い紫だったでしょう?

 紫は王族にまれに現れる未来視――王女殿下だったお祖母様譲りの予言の力の証なの」


 予言、と繰り返しつつ戸惑っていると、夫人は微笑んだ。


「そうね……予言の力のせいで悪夢を見て、力を使い切ってしまえば瞳は本来の色に戻る、と言ったら信じてもらえるかしら」


 確かに公爵夫妻も彼の弟も、青い瞳だ。それに出会った頃の彼は分厚い前髪とつば広の帽子で目元を隠していた。子供の素直さでそういうものだと思い込んでいた。


「力を知るのは家族と一部の王族だけ。色々あって不安に思ったから、身の安全も考えて留学させていたの。

 でも今は何より息子の健康が心配。

 ……それでね、今朝のことで確信したわ。昔からあなたがいるとよく寝られたのよ。人助けと思って息子の妻になってくれないかしら?」


 アリシアは思わず見返したが、夫人の眼は真剣そのものだった。


「まさか添い寝を……?」

「その……僕は予言を、夢で視るのです」


 フィルが躊躇いながら口を開けば、アリシアの顔は蒼白になった。

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