疑心と純心

幸まる

額の十字架

辺境の小国は、山から流れ込む豊富な水源を活かした農業と産業、緑濃い森の恵みで成り立っていた。


ある年、一本の川に異変が起きた。

川底の小石まで数えられる程に澄んでいた水が、灰褐色に濁ってしまったのだ。


人々は困惑し、原因を探るべく狩人が深い森へ分け入った。

そして、緑濃い山奥、清水が湖を作る場所に、いつの間にか黒い竜が住み着いているのを見つけて仰天したのだった。



報告を受けた王は、頭を悩ませた。

この現象は、どうやら竜が住み着いた為に起こっているようだ。

しかし、何しろ長閑な小国。

竜を相手に出来る戦力は持ち合わせていない。


そこで王は、直ちに竜に供物を捧げることにした。

収穫した多くの実りと、肥えた獲物を。

供物を捧げた数日後には水質が戻り、人々は胸を撫で下ろしたものだった。


しかし、翌年に再び同じことが起こると、人々の心は揺れ始める。

今回も前年と同じように供物を捧げたが、心なしか水質が戻るまでの期間が長かった気がする。

これは毎年起こるのか。

供物を捧げさえすれば鎮まるのか。

年毎に要求が増すことはないか。

もしも、応えられない程の要求に変われば……?



―――我らはこのまま、あの竜を放っておいても良いのか。







ニナは、膝まである雑草を掻き分けながら、灰褐色の川沿いを進む。

緊張と恐怖から、踏み出す度に足は震え、心臓は強く早く動いているが、足を止めはしなかった。



あの現象が始まってから五年目の今年。

一年に二度川が濁り、王と家臣達はとうとう決断した。


あの汚れを垂れ流す邪竜を消さねばならないと。

しかし、真正面から戦うことは出来ない。

そこで取られた策は、供物の中に毒を仕込むことだった。


邪に対する、毒。

聖力十字架”を。


そうして選ばれた乙女のニナは、司祭の聖力で額に白銀の十字架邪を滅する印を刻まれたのであった。




「ここが……」


川下で兵達と別れてから、ニナは初めて足を止めた。

密に生えた木々の間から、小さな湖が見えた。

そしてその縁に座る、小山のような真っ黒な竜も。


ニナはゴクリと喉を鳴らす。


行かなければ。

あの竜に、私を飲み込んでもらわなければ。

この生命に、国の安寧が託されている。


……本当は、国なんて想っていない。

ただ、取るに足らない貧しい孤児ものから、国を救った人間ひととして終わることを選んだだけ。

それが出来るとして、この身を買われた。

それで、共に生きてきた孤児達が救われる。



ニナはギュッと目を閉じて、三度深呼吸をした。

そして目を開ける。


すぐ目の前で、青い鳥がホバリングしていた。


「きゃあっ!」


驚いて大声をあげてしまい、そのまま尻餅をつく。

しまったと思った時には、竜が気付いてこちらに金の瞳を向けていた。


「おや、人間だ」


気の抜けるようなのんびりした口調で言って、黒竜はニナの側までやって来た。

ここまで気丈に歩を進めて来たニナだったが、巨躯を前にして、言うべき言葉が簡単に口から出ない。


「り、竜様、私は……く、供物……」


“供物”と聞いて、一瞬嬉し気に身体を揺らした竜は、怯えるニナに鼻先を寄せて匂いを嗅ぐと、不思議そうにした。


「供物? 美味しい果物も野菜も持ってはなさそうだけど?」

「わ、……私自身が、貴方様に召し上がって頂く為の供物で……」


震える声でなんとかそう言えば、竜はぷるると首を振った。


「いらない、いらない。私は植物しか食べないもの」

「ええ?」

『ねえねえ、聖竜様、この、額に聖十字があるよ』

「何!?」


鳥が不思議な声で喋ったのでニナが更に驚くと、竜はグイとニナを覗き込んで、ブフと鼻息を吐いた。

風圧に目を閉じたニナの額を見ると、竜は急いで彼女の袖を引き、湖に連れて行く。


「君、ちょうど良いところに来た。この子達を洗うの手伝って」

「こ、この子達?」

「そう、四大精霊だよ」


湖には、灰褐色の泥に塗れた鳥が三羽浮かんでいた。


「最近の人間は自然を荒らしすぎるから、精霊この子達がすぐ穢れてしまうのさ。前は水浴びしたら綺麗になったのに、今は私が聖力で洗ってやらなきゃ落ちない。困ったものだよ」

「……では川が汚れるのは、人間が穢した精霊を洗っていたのですか?」

「そうだよ。てっきり浄化のお礼に色々くれるのかと思っていたけど、違うの?」


黒竜に可愛く首を傾げられ、ニナは脱力して再び腰を落とした。

黒竜は、聖なる竜だったのだ。


「大丈夫?」『大丈夫?』


竜と精霊青い鳥に同時に聞かれて、なぜか心底ホッとする。


「はい。……私にお手伝い出来るものですか?」

「出来るよ。君はその身に十字架を持っているもの。知っている? 十字の形は四元素火風水土を表し、天と地のバランスを整える聖力があるんだよ」


黒竜は金の目を細める。


「その印を刻まれた、君の心にしか出来ない」

「私の心にしか……」


それはニナにとって、何ものにも代えられない、救いの言葉だった。


「やります!」


溢れそうになる涙を堪え、ニナは強く立ち上がり、湖に足を踏み入れる。



彼女が、黒竜と共に世界を浄化に導く聖女となるのは、もう少し先の話だ。




《 終 》


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