Qーあるいは母の愛についてー

@Pasifico

プロローグ 2026年2月アメリカ グラスゴー

 バーレン中学校のクラスルームでは、物理の授業が行われていた。頭頂部が禿げ上がった教師が機械を操作すると、黒板に物理学者の肖像画が映し出された。しっかりと口ひげを蓄え、物憂げな目線をこちらに向けている男の下に、教師がロベルト・マイヤーと書き記した。

 「ロベルト・マイヤーは1814年生まれのドイツの物理学者で、エネルギー保存の法則を見つけ出したことで有名だな。名前は覚えなくていいが、エネルギー保存の法則はしっかりと覚えておくように。」

 教師が言い終わらないうちに、生徒らがノートへ書き写す音が鳴り始める。教師は窓の外を見た。今日はここらでは珍しく雪が積もっており、生徒たちもこの授業が終われば校庭で雪遊びなんかができるかもしれないと思うと、少し表情が緩む。

 そんなことを考えているうちに鉛筆と紙がこすれる音はほとんど消えていた。教師は生徒の方へと向き直ると、授業を続ける。

 「――そんなそんなわけで、永久機関というものが存在できないことが、彼によって証明されたというわけだ。ここまでで何か質問がある人?」

 4限目の生徒達には早く昼食をとりたいという気持ちが、ありありと顔に表れていたていた。腕時計を見ると、あと2分で就業のベルが鳴る。少し早いが、ここで終わりにしてもいいだろう。

 「それじゃあ、少し早いけど今日の授業はここで……」

 「ちょっと待ってください。」

 教師だけでなく、クラス全員が声の方向を向いた。そこには、いつもおとなしいはずの×××が、ひじから先をぴんと伸ばして手を挙げていた。

 「なんだい、×××」

 「質問があります。」

 ×××がいつもとは打って変わってはきはきと喋るのを、教師は不思議に思ったが、質問をすることは良いことなので気にしないようにした。

 「先ほど先生は、永久機関は存在しえないといいましたが、この地球はどうでしょう。絶えず新たな生命を生み出し、何億年も生命のサイクルを止めたことがないじゃないですか。生命を生み出し、進化や繁殖を通じて星全体のエネルギーを増やし続ける地球こそ、永久機関と呼ぶにふさわしいと思いませんか?」

 教師は少し考えこんだ。かなり難しい問題だ。個人的にはガイア理論を熱力学へと繋げるのは恐ろしく拡大解釈だと思うが、それを中学生に分かりやすく伝えるのは並大抵の難易度ではない。

 ×××は質問をするときに立ち上がっており、教師が考えている今も立ちっぱなしだ。教室の二、三か所からくすくすと笑う声が聞こえる。

 「その話の論拠は、少し乏しいかな。星全体のエネルギーという表現は、少し抽象的すぎるんじゃないかい?」

 少しきつい言い方だというのは自覚していたが、教師には他に言いようがなかった。×××の左手が強く握りしめられ、彼はその言葉にむきになって言い返した。少なくとも教師には、考えなしに反論しているだけに聞こえた。

 「証拠?証拠ならあるさ、僕こそが証拠だ!進化の頂点に僕はいるんだ。地球は一つの生物で、それで、僕はきっと……」

 ジリリリリリリリ

 終業のベルが鳴ると同時に彼の言葉は止まり、同時にクラス全体が彼をからかって笑い始めた。

 「みんな、やめなさい!この件は先生の宿題にする。ごめんな×××、答えられなくて。」

 未だ笑い声がが至る所にこだましていた教室を逃げるように抜け出し、教師は一抹の敗北感とともに職員室に戻った。

 「どうしたんですかマイヤーバーグ先生、浮かない顔をしていますよ。」

 隣の席のゲーズ先生が心配して声をかけると、見破られたことに赤面しつつ、生物のゲーズ先生にさっきの授業での出来事を話した。

 「確かにそれは難しい問題ですね、バーグ先生の答え方は間違ってないと思いますよ。」

 「だが、×××に恥をかかせるような形になってしまった。彼がこれをきっかけにいじめられでもしたら、大変なことだ。」

 ゲーズ先生はコーヒーを一気に飲み干し、腑に落ちないように言った。

 「でも×××がねぇ、そんな質問をするようには見えませんよ、彼。」

 マイヤーバーグもうなずき、六時間目に生物の授業が入っていたゲーズ先生に、×××の様子を見ることを頼んだ。


 二時間後、ゲーズ先生は明るい表情をして職員室へ帰ってきた。

 「平気そうでしたよ、彼。それどころかノックやトムと話していました。意外とクラスに打ち解けるきっかけになったかもしれませんよ。」

 「それならよかった。」

 職員室からは帰路に就く子供たちの後ろ姿が見える。 楽しそうに談笑しながら、スクールバスへと乗り込んでいる。

 二人の理科教師はその中に一人、バッグに泥を詰められ、バスにも乗らずにとぼとぼと帰る×××の後ろ姿を判別することはできなかった。

 子供たちと合わせるように帰り支度をしているゲーズ先生を見て、マイヤーバーグは声をかけた。

 「ゲーズ先生、確か今日はアメフトのクラブの日だったろう。残らないでいいのかい?」

 ゲーズ先生は照れながら言った。

 「今日はちょっと休みます。替わりはマイク先生に頼んでますから。」

 「そりゃまたなぜ?」

 マイヤーバーグの問いかけにゲーズ先生はさらに照れ、リトマス紙のように赤くなった。

 「今日は結婚記念日なんですよ、妻とディナーを予約していましてね。市外ですから早く出ないといけないんですよ。」

 ゲーズ先生は「すみませんが、お先に」と全然すまなさそうに言ってから、職員室を出た。

 マイヤーバーグはニヤつきながらデスクに座り、ゲーズ先生の仕事もついでに少しやってやろうなんて思った。16時だ。教会から鐘の音が聞こえる。



その晩、グラスゴー市は消滅した。住民43000人は、×××もとい少年Aを除いて全員が行方不明となった。

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