第一話 羽島ソラの長い午後

「……化け物」

 羽島ソラは呟いた。目の前にはボロボロのチャイナドレスを着た少女が立っている。少女の息は荒く、意識があるかは定かでない。血まみれの僕ら以外の全てを覆いつくした火砕流からは、まだ有毒ガスと高温の蒸気が噴き出し、上空に立ち込めた火山灰によって見える視界は全て灰色に塗りつぶされてしまっていた。その方がいい。さっきよりはマシさ。きっとそうだ。


 ソラの目には涙が浮かんでいた。火山灰のせいではない。ただ神からの言葉を聞いた瞬間のノアのように、石板を受けとったモーセのように、恐れというよりもむしろ畏れの感情からくる涙であった。

 何分の間そうやって立ち尽くしていたのだろう。不意に目の前の少女がふらりと胸の中に倒れ込んできた。彼女を辛うじて受け取ると、上空にヘリコプターのプロペラ音を聴きながら、ソラも気を失った。


   ────────────1時間22分08秒前──────────


  「あーークソッ!」

 悪態をつきながら、羽島ソラは石段の上にごろりと寝転がった。教師の会議があるらしく、午前で学校は終わったが、ソラはある理由によって母親が待つ家を回避し、村外れにある神社の鳥居の下にいた。


 僕が家に帰りたくないのは、カバンの中にある数学のテストがもっぱらの理由であった。僕のテストに〈もう少しがんばりましょう〉という親切な忠告と共に記されていた点数は21点。平均点が51点なので思いっきり赤点でその上、追試であった。ソラは県内有数の進学校に合格してから半年で、自分がまるっきりダメなことを悟らざるを得なかった。中学の頃から落ち続ける成績によって脳に叩き込まれた敗北感と劣等感は、彼にやる気よりもむしろ諦観と絶望を与えた。


 「もう寝よう」

 この鳥居前の道路はもともとド田舎なことも影響して、一日に車が二、三台通ればいい方で、境内でボール遊びをしている子供をこっぴどく叱ることで有名な神主のおじいちゃんも、出かけるときは裏手の私道を使うので、ブナの木に囲まれた僕がここで死んでも発見されるのは随分先になるだろう。もしかしたら一週間後の初詣まで発見されないかも。

 とにかく、ここは人通りが少ない。あと三時間ぐらいしたら家に帰って母親に正直に話そう。

 頭のあたりに積もった雪をパッと払い、ニット帽を枕にしてソラはうとうととし始めた。


 「あのぉ、ちょっと邪魔なんだけど。」

 僕の真っ赤に充血した耳にそんな声が聞こえて来た。幻聴だろう。彼女がいなさ過ぎて(そもそもこの辺りは女子も男子もほとんどいない)、ここまでこじらせたに違いない。


 「……聞こえてるよね?」

 また聞こえた。今すぐ医者に行かないといけないかも知れないが、背中にあたる石から伝わる冷気が気持ちいい。まだ動きたくはないな。


 「邪・魔!」

 突然、ダウンジャケットを飛び越えて、体の芯に衝撃が加わった。わき腹を軽く蹴られたようだが、みぞおちに入ったのか一瞬の間、呼吸ができなくなった。


 「ぐはぁ!」

 ダサいやられ声をあげてソラはうずくまろうとしたが、くの字に折れ曲がったときに石段に頭をぶつけた。頭の中に星が飛び交う。最悪だ。


 「な~んだ、やっぱり狸寝入りじゃない。人が頼んだら早く行動するべきよ。」

 腹と頭に訪れている激痛を取り払おうと必死になっている人間に対してかける言葉では絶対にない言葉を、幻覚であってほしかった少女が言った。


 「あのな、人が動かなかったからっていって蹴りつけるのはどうかと――」

 僕は、彼女の姿を見て、途中で言い詰まった。彼女は真っ赤なノースリーブのチャイナドレスを着ており、スリットの切れ込みは太もものかなり上まで伸びていた。12月のこの辺りは、並の寒さではない。学校もスカートの下にジャージを着ていることを許可しているし、とてもじゃないがただの綿に見えるドレス一枚で生きていける環境ではなかった。


 「お、、、おい、寒くないのかよ。」

 怒りよりも不安と困惑の方が先行してしまった。彼女は寒いという概念をまるで知らないような顔をして、僕に言った。

 「着たい服しか着たくないじゃない、ね?」

 彼女はこの答えを、授業で突然あてられてしまった生徒のように、恐る恐る言った。僕の質問の意図を全く理解していない様子だったのだ。


 「とにかく、あなたはここから早くどけばいいのよ。」

 僕の突然の問いによって、ふわふわと浮遊していた会話の主導権を再び取り戻そうと彼女は強い口調で言った。

 「僕だってここにいたいんだ。神社になんの用があるっていうんだよ。」

 僕は、自分がめちゃくちゃなことを話していると分かっていた。彼女が通る一瞬だけどけばよくて、別に僕に帰れと言っているわけではないことも分かっていたし、彼女が神社に行く理由と、今の議論に全くの関係がないことも分かっていた。


 「なんであんたにそんなこと言わなきゃいけないのよ。」

 彼女は一段と低い声で言った。〈ヤバッ〉という感情が僕の中に急速に湧き出す。触れてはいけないもの、その何かがグリンと首を曲げてこちらを覗いてきたような感覚だ。

 「……悪ぃ。どくよ。」

 「それでいいのよ。」

 カバンを抱き寄せた僕の横を歩いて彼女が通る。僕と同じぐらいの年齢のはずで、ハイヒールまで履いていた彼女が妙に幼く見えたのが僕には不思議でならなかった。


 「あっ」

 五段ほど上からそんな声が聞こえてきた。見上げると石段が凍っていたのか彼女が大きく足を滑らせ、体勢を崩してまさに転がり落ちようとしていた。


 ほとんど反射的に、ソラは彼女を受け止めようと立ち上がった。宙に浮いた体を後ろから抱きしめるように華麗にキャッチ…とはいかず、ソラも巻き込まれて一緒に落ちてしまった。アスファルトにひどく頭を打ち付けるかと、ソラが目をつぶったその時、奇妙な感覚がソラの身を包んだ。フリーフォールは落下のGと、機械による上向きのGが釣り合う場所が一点だけあるらしい。その場所で人は、抱擁される感覚にひどく似た感覚を経験するという。まさにソラの体はその状態にあった。

 恐る恐る目を開けると、ソラの体はまだ空中にあった。ふと隣に目を向けると、少女の体もまだ空中にあった。間違っても落下中とは言えない、なぜなら彼女の体は完全に空間上に静止していたからだ。

 

 彼女のブリーチされたブロンドの長髪は空に向かって立ち上っているが、ドレスは重力に抗わず地球へと向かっている。まったく物理法則を無視した光景だ。彼女の周りの小石が「空」に向かって落ちていく。彼女は両手を広げ、気持ちよさそうに目を閉じていた。


 「は?」

 ソラが思わずそう口にすると、彼女の目が開き、二人の体が地面に落ちた。パラパラと降り落ちる小石の中でソラは体を起こし、自分に一切のけががないことを確認した。


 「何なんだよ、何がどうなったんだ……」

 ソラの声を無視して、チャイナドレスの少女は何もなかったかのように石段を登り始めた。むしろさっきよりも足取りが軽く見えた。

  

 彼女は石段の頂上付近まで登り切ったところで、突然こちらを振り向き、舌を出して人差し指で下瞼を引っ張った。そのあまりに幼稚な行為に僕は言葉も出せずに戦慄してしまった。北風がブナを揺らし、太陽が雲に隠れてしまった。


 僕はしばらく身動き一つできずに鳥居の真下にいたが、突然ひざががくりと折れて座り込んでしまった。寒さのせいとはいえない震えが体を襲う。遠くから車の近づいてくる音が聞こえてきた。車、エンジン、文明の利器の象徴に思えるそれらはソラに言いようのない安心感をもたらした。さっき見たことはただの幻覚で、低体温症かなんかが原因だろうとこじつけられるほどまでには、ソラを立ち直らせた。


 まさに救世主のような車は相当早いスピードでこちらに向かってきているようだ。道路が凍っている可能性もあるのに、急ぐ用事でもあるのだろうかと思っていたら、急にブレーキ音がしたかと思うと、スリップしながら石段の前に真っ黒な車が急停止した。道路まで身を乗り出していたら間違いなくひかれていただろう。


 ドアをほとんど蹴り飛ばすように開き、中からスーツに身を包んだが隊のいい男が出て来た。どう見てもお参りに来た一般人には見えない、ソラは瞬時にさっきの少女に関係のある人物だと察した。


 「おいお前、高校生くらいの少女を見なかったか?」

 口調はきつかったが、どこか品を感じる話し方だった。高校生くらいの少女と言うのは、もちろんさっきのチャイナドレスを着た女子だろう。

 「彼女は一体なんなんですか⁉とにかく変なんですよ!」

 その時の僕には、男が悪い奴で彼女の能力を悪用しているかもしれないなんて考える余裕はなく、また男の胸の内に飛び込むように逃げ込んだとき、固いものが手に当たったことにも気づかなかった。


 「見たんだな。」

 男は二十センチ近く低いソラを見てそう告げたかと思うと、突然突き飛ばした。

 「うわっ!」

 一瞬にして鳥居に体を打ち付けたソラが驚いて男を見ると、男は既に懐から拳銃を取り出してこちらに銃口を向けていた。


 「安心しろ、遺族には国から多額の賠償金が支払われることを俺が保証する。」

 男は言った。

 「え?」

 ソラの頭が情報を処理する前に、男は引き金を引いた。

 

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