【短編小説】「泥の中の光」(現代)約3,500字
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】「泥の中の光」(現代)約3,500字
### **一章:冬の海辺**
その男に初めて会ったのは、冬の荒れた海辺だった。私が暮らす町から汽車で二時間ほど離れた小さな漁村だ。山から吹き降ろす寒風は冷たく、波しぶきが岩場を叩く音が遠くから聞こえてくる。
男は村はずれの廃屋のそばに立っていた。色あせた古い外套に身を包み、痩せた身体は寒さに震えているようだったが、その目は、何かを悟ったような、静かで奇妙に澄んだ光をたたえていた。
「こんな場所に、どうして?」と声をかけると、男はゆっくりとこちらを振り返った。
「考えごとをしていたんです」と彼は静かに答えた。その声にはどこか懐かしさのようなものがあり、私の中で微かな共感が芽生えた。
「死について考えていたんですよ」
突然の言葉に、私は少し戸惑った。
「死ですか?」
「ええ。人は誰でも死ぬ。それは当たり前のことですが、時々それがどうしてなのか知りたくなるんです」
彼はそう言って、波打ち際を見つめた。その目には、まるで遠く離れた故郷を探しているような寂しさが宿っていた。
◆
### **二章:男の来歴**
それから私は、漁村を訪れるたびにその男と話をするようになった。彼の名は中井達也といい、40代半ばの元医師だったという。数年前にある事件をきっかけに医者を辞め、今はただふらふらと旅をしながら暮らしているのだという。
「医者だったんですか?」
ある日、そう尋ねると、中井は少し笑って答えた。
「ええ、一応ね。でも今では、そんな肩書きは何の役にも立ちません」
彼が医者を辞めた理由について詳しく語ることはなかった。ただ、彼の話の断片から察するに、彼は過去にある患者を死なせてしまったのだという。あるいは、その死が何かしら彼自身の罪と結びついているのだろう。
「それでも、人間はどうして生きるのかと問いたくなるんですよ」
彼はある日そう言った。
「人は生まれた以上、必ず死ぬ。それなら、いったいこの人生にどんな意味があるんでしょう?」
◆
### **三章:老人の死**
ある冬の日、村の一人の老人が亡くなった。80代半ばの漁師で、体を壊してからは家に籠るようになっていた人物だ。葬式の日、私は中井がその家を訪れるのを見た。
「お知り合いだったんですか?」
そう尋ねると、中井は首を振った。
「いいえ。ただ、見送りに行きたかっただけです」
葬儀の最中、中井はじっと棺を見つめていた。その顔は真剣で、どこか懺悔にも似た色があった。式が終わった後、彼は私にぽつりと話しかけてきた。
「……死んだ人を見ると、いつも思うんです。私が生きている意味なんて、本当は何もないんじゃないかって」
私は彼の言葉に反論しようとしたが、彼の声には、こちらの言葉を封じるような重みがあった。
◆
### **四章:生きる意味**
その夜、私は漁村の宿で彼と向かい合って酒を飲んでいた。彼は珍しく自分の過去について語り始めた。
「私は、昔ある患者を死なせました。治せるはずだったのに、私の判断ミスで命を奪ってしまったんです。それ以来、私は医者としての資格を失いました」
その言葉には、まるで自分自身を断罪しているかのような冷たさがあった。
「医者は人の命を救う仕事だと思っていました。でもね、その経験からわかったんです。救える命なんて、結局どこにもない。生きている人間は、どんなに健康でも、どんなに幸福でも、いずれ死ぬんです。それなら、私がしてきたことは何の意味があったんだろうって」
私はその時、どう言葉を返すべきかわからなかった。ただ、彼の言葉には、どこか耐えがたい孤独がにじんでいた。
◆
### **五章:泥の中の光**
それは、曇天の昼下がりだった。漁村の浜辺に中井の姿を見つけた私は、彼がじっと膝をつき、砂に埋まるようにして何かを探しているのを目にした。風は冷たく吹きつけ、灰色の空は低く垂れ込めていた。その光景は、まるで世界そのものが凍りつき、閉じ込められてしまったかのような重苦しさを感じさせた。
「中井さん、何をしているんですか?」
私が声をかけると、中井は顔を上げ、微笑んだ。その表情はこれまで見た彼のどの笑顔とも違っていた。それは疲れたようでいて穏やかで、どこか諦観と受容が混じり合ったような複雑な表情だった。
彼は手の中でそっと握りしめていたものを広げ、私に見せた。それは、小さな貝殻だった。貝殻は濡れた砂にまみれていたが、潮が流れ込むたびに、その表面が光を反射して微かに輝いて見えた。
「これです」と彼は呟いた。「泥の中に隠れていた光です」
私はその言葉を受け止めかねて、ただ彼を見つめた。泥の中の光――それが何を意味しているのか、その言葉がどこまで比喩であり、どこまで現実のものなのか、私には判断がつかなかった。しかし、彼の指先で震えるその貝殻の光は、たしかに何かを訴えかけているように見えた。
「この貝殻は、ただのゴミのように思えるかもしれません」と中井は続けた。「でも、私にはこれがとても大切なものに思えるのです」
◆
彼は貝殻をそっと砂に戻すと、私に向き直った。目には深い憂いが宿り、だがその奥には確かな決意があった。
「あなたは、人間の苦しみの中に意味があると思いますか?」
彼の突然の問いに、私は何も言えなかった。
「……意味なんて、実はないのかもしれませんね」と彼は続けた。「人間は生まれた以上、必ず死ぬ。その間にどれだけ努力をしても、どれだけ幸せを求めても、最後は土に帰る。ただ、そこに意味を見出すのは、きっと人間自身の仕事なんです」
彼の声は深く低く、まるで自分自身に語りかけているかのようだった。
「でもね、私はある時気づいたんです」と中井は話を続けた。「私が医者をしていた頃、ある患者さんの死に立ち会いました。その方は末期がんで、手の施しようがなく、ただ最期の時を迎えるために病室のベッドで横たわっていました。私は医者として何もしてあげられない自分を責めました。ただ、その人はこう言ったんです」
中井の声が少し震えた。
「『先生、私の命にはもう意味はないと思っていました。でもね、あなたがいてくれたから、私、最後に笑えたんです』と」
中井はしばらく黙った。浜辺の波の音が、二人の間を満たした。
「私はその言葉が、今でも忘れられないんです。その時、初めて気づいたんです。命の意味なんて、本当はどうでもいいんだって。たとえその人の人生が泥のように辛くても、ほんの一瞬、誰かと笑い合えたり、誰かを愛したり、誰かを支えたりする――その瞬間が、泥の中の光になるんです」
◆
私はその言葉に、心を深く揺さぶられた。私たちは皆、泥のような日々を生きている。その泥の中で何かを探し、もがきながらも、それでもなお生きている。そしてその中に、微かでも光を見つけられる瞬間があるのだろうか。
「でも、私はその光を見逃してしまったんです」と中井は言った。「その患者さんの死を乗り越えられなかった私は、自分の人生の泥の中から逃げ出しました。医者を辞め、こうしてふらふらと生きています。でも、それでも私は信じているんです。泥の中の光を」
彼はまた貝殻を拾い上げ、それを手の中で転がした。
「光は、意味なんて大げさなものじゃない。ただの小さな出来事なんです。誰かと交わした言葉、共に過ごした時間、抱きしめた温もり。それらはすぐに泥の中に消えるけれど、でも、消えたわけじゃない。私たちが生きた証として、どこかに確かに残っている」
◆
私はその時、初めて彼の言葉の重さを理解したような気がした。そして同時に、私自身の人生にも思いを馳せた。泥の中で見つけた小さな光――それは誰かに向けた笑顔だっただろうか。あるいは、誰かに差し伸べた手だっただろうか。
私たちは、泥を否定しながらも、その中で生きている。そしてその泥の中に、小さな光を見つけることで、生きる意味を紡ぎ出しているのだ。
◆
その日、漁村を去る際、私は中井と別れの挨拶を交わした。彼はまた波打ち際で何かを探していたが、その姿はどこか安らぎに満ちているように見えた。
「また会えますか?」と私が尋ねると、中井は振り返り、穏やかに微笑んだ。
「会えなくても、どこかで同じ光を見つけることができるでしょう」
その言葉は、彼が私に残した最後の言葉だった。
◆
**エピローグ**
数年後、私は中井のことを思い出すたび、泥の中の光のことを考える。それは、一瞬の出来事かもしれない。だが、その光が確かに存在する限り、人間はどんな泥の中でも生きる価値を見出せるのだと、彼は教えてくれた。
そして私自身もまた、その光を探し続けている。
(了)
【短編小説】「泥の中の光」(現代)約3,500字 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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