街灯の下で受けた天啓
はるより
本文
昭島頼治。
アパート『ル・ルイエ』の202号室に暮らす大学生である。
別段華やかなキャンパスライフを送っているというわけではないが、親しい友人も何人かおりバイト先の人間関係もそれなりに上手くやれている。
不自由なく生活と通学が行えている現状に満足していた。
しかし数ヶ月ほど前から、頼治の中で育てられてきた『常識』を揺るがす出来事が起こり始めている。
その発端となったのが、彼が想いを寄せる女性、喜七と街中でばったり出会した日のことだった。
その日は命からがら、生きて帰ることはできたが、明らかに超常的な現象と生物……いや、魔物?の姿を見た。
そして彼女の正気を蝕む呪文とやらの事も知った。
カルト宗教や呪術というものの存在自体は、知識として持っている。
しかしそれらは全て、少し気がおかしくなった人々の縋り付くまやかしであり、現実的に効果が発揮されるものではない。
そう、思っていたのだが。
科学では説明出来そうにない現象。
あの日見た、地下室の出来事。
それから、別の日に友人とPCゲームをしようとして直面した出来事。
そして最たるものが……死んだはずの人間が、何でもないような顔をして生きている事。
どうして、アパートの他の住民が平気な顔をして受け入れているのかわからない。
だって、間違いなく『山神陽太』は死んだはずだった。
喜七の希望で葬儀は挙げられなかったと聞いたが……数ヶ月の間、完全に存在を絶っていた。
それがある日ひょっこりと戻ってきて、まるでただどこかで単身赴任でもしていただけ、とでも言いたげな様子で日常を送っている。
どう考えてもおかしい。
こんな事、現実で許されて良いわけがない。
頼治は渦巻く不快感と恐怖心に、歯軋りをする。
いや、と頼治は思った。
医学に携わる人間としても、この事実は受け入れたい事だが。
結局一番腹立たしいのは、喜七があの幸せそうな笑顔を取り戻した事だ。
そうだ。魔物や悪魔が実在するならば、あの『山神陽太』が本物である保証はない。
何らかの悪き存在が喜七を騙す為に、その愛する人を装っている……というストーリーだって、十分に成り立つはずだ。
心が弱っていた喜七につけ込む何か。
実際についこの間だって、そんな事が起きていた。
……この恐ろしさに気づいているのは、自分だけ?なら、彼女を魔の手から救えるのも自分だけか。
頼治はある種の使命感のようなものに駆られて、自室の扉を開ける。
外は黄昏時を少し過ぎた頃。星がいくつか空に散らばり始めていた。
『山神』という表札のかかった隣の部屋。
インターホンを鳴らすと、すぐに応答がある。
喜七の声だ。
『はい。あれ、頼治くん?どうかしたの?』
「こんばんは。急にすみません、陽太さんに用事があって…」
『陽太さんに?分かった、呼んでくるね』
不思議そうにそう言い、通話は切れる。
程なくして、部屋の扉が開いた。
現れたのは頼治より頭ひとつ分背の低い、小柄な男性だ。
成人している…と聞いているが、どう見ても中高生くらいにしか見えない。
しかし、その見た目に似つかわしくない言動をする。
よく考えれば、違和感だらけの人物だが……どうしてこの間まで、それが気にならなかったのだろう。
「……何の用だ」
挨拶もなしに不躾な言葉。
糸目を薄らと開いて、訝しげな視線をこちらに寄越す。
以前会った時にはなかった、敵意のような感情がそこに含まれているように感じられた。
「こんばんは。ちょっと話がしてみたくて。お忙しい時間でしたか?」
「そうだと言ったらどうする。大人しく帰るのか?」
「その時は……そうしますかね」
「なら、忙しい。お前に構っている暇などない」
ため息混じりにそう言って、扉を閉めようとする陽太。
頼治は、外側のドアノブを掴んでそれを止める。
陽太はじろり、と腹立たしげに頼治を睨んだ。
「言っている事と、違うんじゃないのか」
「そうですねぇ……けど、聞きたいんじゃないかと思って。あなたがこの家を留守にしていた間のこと」
「は?」
「近くの公園で話しましょうよ。この時間なら、ベンチだって空いてるでしょ」
頼治の提案に、陽太は何かを逡巡する様子を見せる。
そしてその後、部屋の中に向かって「少し出てくる。すぐに戻るから」と言って外に出てきた。
頼治を尻目にポケットからキーケースを取り出し、ガチャリと部屋に鍵をかける。
そしてそれを再びしまうと、顎で『先に行け』と通路の先を示した。
頼治は、目の前の相手から酷く警戒されているのを感じ取る。
それを不思議に思いながら、頼治は先導する事にした。
*****
公園は、アパートを出て徒歩3分ほどの場所にある。
規模自体は大きくないが、ブランコや砂場、小さなトンネルのような遊具がある為か、日中は子どもとその親と思しき人たちの姿を見る事も多い。
頼治は自販機で、250ml入りの緑茶のペットボトルを二つ購入する。
そのうちの一つを陽太に差し出すが、首を横に振った。
「要らん。長話をするつもりもない」
「……そうですか」
つれないな、と思いながら振られてしまったそれをベンチに置き、その隣に座る。
自分の分のペットボトルを開封すると、中身を一口飲み込んだ。
長話をするつもりはない、と言ったのは本当のようで、陽太は腕組みをして立ったまま座ろうとしない。
これだけ明らかに嫌われているのだから、もう気を遣う必要も無いんじゃないだろうか。
頼治は何だかおかしくて、くすくす笑った。
「陽太さんって、亡くなったって聞いていたんですが。どうして平然と生きているんですか?」
「さあな、私にも分からん」
陽太はさらりと答える。
含みもなく、本当に彼自身が理解出来ていないようだった。
「私の事など、どうでもいいだろ。さっさと本題に移れ」
「……分かりました」
頼治は、今はもう燃えてなくなったあのアパートで起きた出来事を話す。
喜七を利用しようとした人物がいた事。
その人物が成し遂げようとした不老不死の呪術について。
それから……その過程で喜七が彼に恋をしていたらしい、という事。
黙って聞いていた陽太は、頼治が予想したよりも取り乱していないようだった。
苦々しげに口元を歪めはしたが、まるで何かに『納得した』というような様子である。
「意外と落ち着いてるんですね」
「……」
「ははは…でも陽太さんって、盲目そうだし。『キープ』も許しちゃいそうだもんなぁ」
時折眼にする、喜七に接する時の陽太の姿を思い出しながら頼治は言った。
恐らく、彼にも何か思うところがあったのだろう。それが何なのかまでは分からないが。
可憐な彼女に惹かれる男は少なくないだろうから、悪い虫を払うのに苦労してきたのだろうか。
または……夫である彼を差し置いて、度々遊びで男を捕まえていた、とか?
それはそれで、蝶のようで愛らしいかもしれないな。そんな事を思いながら、頼治は皮肉を込めて笑って見せる。
ふと、陽太は黙って頼治の目の前まで歩を進め、手を伸ばす。
頼治は彼に掴み掛かられると思って、身を強張らせたが…腕は身体の横を通り過ぎて、ベンチの背を掴んだ。
そして、ぐい、と鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけて来る。
陽太が背にした街頭で逆光になっているはずなのに、黄色い瞳がぎらぎらと光って見えた。
「……思い上がるなよ、小僧。その程度の事で私が喜七を手放すと思ったか?」
あ。まずい。殺される?
獣のようなその眼に、頼治の頭を物騒な考えが過ってしまい言葉を発す事ができない。
「私が留守にしている間に、随分と妻が世話になったようだな。それ自体には感謝している」
「……」
「だがこれ以上、私たちに近付くな。……お前自身の為にもな」
そう言って、陽太は身を離した。
視線は頼治の目を縫い止めたままだった。
そして公園を出て行こうとする彼を見送りそうになって、頼治は慌てて立ち上がる。
なんとか追い縋って肩を掴むと、無理やり自分の方を向かせた。
「何なんだよ、あんた……事故で死んだんだろ、検死だってされたはずだ!じゃなきゃ、事実として死んだ事になるはずが無い!」
間違いなく、彼の訃報は複数人に認識されているはずだ。
あの日の事故のことは、地元紙に小さく載せられているのを頼治は見ていた。
そこには確かに、『死亡』という文字があったのだ。
「医学的に許されていい存在じゃないんだ、あなたは……じゃなきゃ、これまで積み上げてきた人類の叡智が否定されてしまう……」
一度死んだ者は生き返らない。どんな犠牲を払ってでも。
だからこそ医療に従事する人間は、必死で命を救おうとする。こぼれ落ちそうなそれを、必死に手繰り寄せようとする。
そして救えなかった命があれば、己の無力さを悔やみ、遺された者に哀悼を示す。
だが、この人の存在を肯定してしまえるとすれば。余りにも、彼らのその健気な想いが報われないじゃないか。
「……学問に通じる者は皆、そうなのか?科学として証明されているものしか信じず、ただ己の理解できる物事だけをこの世の摂理と思い込みたがる」
陽太は、自分をその場に留めようとする頼玄の腕を振り払う。
「常識ばかり過信すると、良い事はないぞ。人間」
昏い眼をした彼はそう言い捨てると、再び頼治に背を向けて歩き出した。
今度はそれを追う事ができない。
公園の外へと彼の姿が消えていくのを、ただ茫然と見守るしかなかった。
「……なんだよ、それ」
頼治は立ち尽くしたまま、呟いた。
そして少しずつ日常を非常に侵され始めていた彼の思想は、おかしな方向へと傾いてゆく事になる。
彼の存在が、医学で証明出来ていないものであるというのならば。
自分が、解明すれば良いのか。
例えば彼が、本当は生き返ってなどいなくて……陽太を騙る何者かであるとするならば。
それを暴く事は、喜七を守る事にもつながるはずだ。
「そうか……これが、僕のやるべきことか!」
長らく、彼は平凡な学生として人生を送ってきた。
医療従事者になって、誰かの命を救う事。それ自体には憧れを持ち、目標として掲げて生きてきた。
……だが、漠然とした夢だった。
仮に実現したとしても、それを生き甲斐として語ることが出来るかどうかは頼治自身にも分からなかった。
だから、頼治にとってこれは天啓のようなものだった。
自身に課せられた使命を知ることの出来た喜びに、彼は打ち震える。
街灯に照らされながら、一人笑みを浮かべる頼治。
夢を見ているようにふらふらとした足取りで公園を出ると……やがて、自分の住処へと帰るのであった。
街灯の下で受けた天啓 はるより @haruyori
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