漫画「空をまとって」は、何をまとうのか

@turugiayako

漫画「空をまとって」は、何をまとうのか

 漫画とは、止まった絵によって構成された表現である。

 この事実を、今の私たちは、しばしば、忘れてしまっている。

 何が忘れられているといって、漫画が表現であるという単純な事実、表現としての漫画の在り方に対する意識、感度ではないか。今は、漫画にとって不幸な時代である。確かに、漫画は現代日本の文化の中心にある。大量の漫画が描かれ、読まれている。「ジャンプ+」などのアプリの普及によって、日本人は本屋にいかずとも日常的に漫画を読めるようになった。またSNS上において、創作者が自分のアカウントで発表する漫画も、多く読まれている。おそらく今は、日本の歴史上、最も多くの漫画が描かれ、読まれている時代のはずだ。しかし、にも関わらず、漫画は不幸である。「表現」として受容すること、批評というありかたが、軽視された上で、受容されているからだ。批評という在り方が欠落すれば、表現に、未来はない。

 過日、私はNHKのドキュメンタリー番組を見た。「名探偵コナン」の作者に取材した番組の中で、こんなナレーションがあった。

「青山のところには、毎日、膨大な書類が持ち込まれる。コナンのキャラクターグッズやコラボレーションについて、原作者である青山の許可を求める書類だ。青山はそれらすべてに、目を通す」

 私は見ていて、強い違和感を抱いた。言うまでもなく、「名探偵コナン」は国民的アニメといってもよい人気シリーズである。キャラクター関係の商品だけでも、膨大な数が出ている。原作者である青山氏に、その展開の在り方について許可を求めるのは当たり前だ。それほど人気があるコナンは、凄いと思うし、ちゃんと目を通す青山先生も立派だとは思う

 しかし、それは、漫画家の、作家の仕事なのだろうか?

 作家の仕事の第一は、作品を作ることである。作品を作るために資料を集めたり、取材をすることも、当然作品制作に含まれる。しかし、コンテンツの在り方について管理すること、例えば「コナンのキャラを使用した商品の企画にGOサインを出すか否か」というのは、企業のビジネスマンの仕事ではあっても、作家の仕事ではないと、私は感じた。

「何をいまさら」と思う人もいるだろう。

「昭和や平成の時代から、人気作品というものは、そういうものだったじゃないか。ドラえもんを見ろよ。クレヨンしんちゃんを見ろよ」

 その時代から、今に続く問題は始まっていたのだ、と見ることもできる。ドラえもんの作者、藤子F不二雄は、晩年「ドラえもんを終わらせてくれないんだ」と愚痴をこぼしていたと聞くし、クレヨンしんちゃんの作者臼井義人も、一台コンテンツに膨れ上がった自作に対して、内心複雑な心境を抱いていたのではないかというのは、臼井が不幸な事故によって命を落とす直前まで描いていた原作の展開を読むと浮かんでくる疑いである。

 今の世の中には、「コンテンツ」は溢れている。しかし、「表現」は、ない。というか、表現としての受容がされていない。先日、「推しの子」の連載が完結したが、同作の社会における受容の在り方には疑問符の付くものが多かった。あらゆるところでアイや新生B小町の面々といったキャラクターが印刷された商品を目にしたし、伝聞だが女児向けのパンツにも使われたと聞くが、推しの子の内容が、いくら小学生女児に受けたとはいっても、何かおかしくはないだろうか。別にこれは「コナン」や「推しの子」の内容が良いか、悪いかという話ではない。作品内容の良しあしについては、熱心に語っている人がそれこそ何人もいる。問題は、人気が出てしまえば、膨大なキャラクターグッズやコラボレーション商品が溢れ、ファンがそれらに金を使うことが「推し活」と称されコミュニケーションの手段にさえなり、pixivやSNSにはファンアートが溢れ……といった状況の中で、「作品を表現として受容する」という在り方が軽視されているのではないかという懸念だ。その最も直接的な被害者は、膨大なコンテンツの管理に追われ、作家としてさらなる高みに上るための研鑽の時間を奪われている原作者たちだろう。無論、青山先生の送る日常も、それ自体作品を生み出すイマジネーションの源に成りはするだろうとは思うから、一概には言えないが。とはいえ長期的には、この風潮の被害者は「読者」ではないかと思う。

 本来、どんなものであれ表現に触れるということは、程度の差こそあれ、そこに込められた様々なものを受け取って、内面を成長させる契機となるべきもののはずだ。しかしどうだろう、漫画であれアニメであれ、今の世の中で「コンテンツ」に耽溺する人たちは、むしろ成長を拒んで狭い部屋に閉じこもっているようにさえ思える時がある。作品に真面目に向き合ってないのだ。

 私は「フィクションを捨てて」現実に向き合え、などと言いたいのではない。むしろ逆で、「ちゃんとフィクションと現実を混同しろ」とむしろ言いたい。愛と勇気に感動したのであれば、現実世界でもその実現をしろ。少なくともそのやり方を考えろ。ヒーローに燃えたのであれば、ヒーローのように生きてみろ。少なくとも、生きる努力はしろ。

 昔読んだ本にこういう文章があった。「テレビドラマを毎日見ている人は、ドラマの登場人物たちの姿をよく考えてみてほしい。ずっとテレビを見ている人など、出てこないことがわかるはずだ」と。

 今は、コンテンツが溢れている時代である。それらを消費するだけで、極端な話、一生が終わってしまう。その消費をするための金を稼ぐために、働く必要もある。ここには、「内省」というものが生まれる機会がない。表現をじっくりと考える時間さえ持つことができないし、そのような時間が必要であると考えることにも気づけない。そんな仕組みが、企業によって、資本によって、プラットフォームによって作られているのだ。人間の家畜化である。与えられたものに疑問も持てず、ただ資本の養分になるために生きる存在を、家畜以外の何と呼称すればよいのか、私にはわからない。

 そして、家畜の文化からは、新しいものが生まれる望みは、あまりにも低くなってしまう。ものを考えることがない人たちの中から、文化は育たない。当たり前の話だ。この家畜たちは、あまりにも「現実的」であり、理想主義を冷笑する人たちである。かつてオタクたちに向けられた「現実を見ろ」という説教は、彼らには通じない。彼らは、つまり私たちは、あまりにも「現実を見過ぎて」いる。「今、ここ」以外にあるものへの想像力、「どこか遠く」への想像力を失っている。例えば日本のオタクたちの最近の傾向として、「政治的な主題」が作品の中に表現されることを、異様に嫌うという傾向がある。どころか、明確に「政治的な」作品でさえ、「この作品にそんなものはない」などと、まるで目をつむっているかのように語る人がいる。 

 政治とは、言うまでもないが、思想の左右を問わず、「今、ここ」から離れた思考というものを抜きにしては、成り立たない営みである。「人権」も「平等」も「国家」も、「今、ここ」にはない。それは「どこか遠く」もしくは「どこでもない場所」にしかない。だが、それらに対する想像力を抜きにしては、結局「今、ここ」の問題である、経済にも生活にも、対処することは不可能だ。「今、ここ」から離れた場所への想像力を欠落させていったことが、現状の政治の貧困を生み出していることは、特に024年という年に相次いだ選挙を見ても明らかであろう。政治も文化も思想も、同時代において、繋がっている。文化の貧しい時代には、政治も貧しくなる。

 かつては、権威という抑圧が、「今、ここ」から離れた場所への想像力を担保していた。大人たちは子どもに向かって「いつまでも漫画なんか読んでいたら馬鹿になってしまうぞ。古典を読みなさい」と叱ったものだ。それは子どもたちにとっては、「今、ここ」から出ていくことを促す契機ともなり、漫画家たちにとっては、馬鹿にされた悔しさをばねにより表現を高めるモチベーションにもなったはずだ。しかし今、権威は失墜した。私たちは、抑圧されることもなくなったが、同時に、閉じ込められてしまった。小学校の時のクラスのような、息の詰まる空間にいることを、息苦しいと思える感性さえ奪われたままで。

 グランドジャンプで連載されている「空をまとって」という漫画に、私は惹かれている。何故なら、この漫画には「表現」というものへの繊細さを、思想を、感じるからだ。美大を目指す、ヌードという題材に心奪われた男の物語である。芸術というテーマに、向き合おうとしている漫画だ。この題材は、漫画以外の媒体では表現することが困難であることは、明らかだ。文章では、視覚的な表現である絵について語ることは難しい。映像という、「運動=時間」を伴う媒体においては、絵をじっくりと見せた上で視聴者を映像に引き付けることは、おそらく難しい。「絵」という題材を語る物語に、最も適しているのは「漫画」という「止まった絵」によって構成された表現だ。

「空をまとって」を描いている古味慎也先生は、おそらくご本人も、美術の教育を学校で受けた経験があるのであろうと、読んでみるとわかる。藤本タツキ先生の漫画もそうだが、シンプルに「上手い絵だ」と思える漫画なのだ。意外とそういう感想がシンプルに上がってくる漫画というのは、少ない。特に昨今は、あまりそういう感想が浮かんでこない漫画が人気を博す傾向にある。誤解しないでもらいたいが、そういう漫画は駄目だといいたいわけではない。またこれも誤解されると困るが、「綺麗な絵」と「上手い絵」はイコールではない。上手い絵というのは、確かなデッサンを兼ね備えた、静止していながら運動を感じられる絵である。古味先生の描くコマには、そのような丁寧さを感じる。もちろん漫画として成り立つためには、コマ割りのレベルも求められることは言うまでもない。

「空をまとって」の主人公は、ヌード=人間の裸体に魅せられている。作中でも、キャラクターの、特に女性の裸体は頻繁に登場する。誤解しないでもらいたいが、別に美少女の裸身やそれに近いビジュアルで読者の気を引こうという漫画ではない(私はそういう漫画の在り方を否定するものではない)。確かに必然的にエロティシズムを伴う描写となることは否めないが、別にそれを売りにしているわけではないというか、むしろその「違い」はどこにあるのか、という問いかけを含んで描かれいてると考えた方が適切であろう。もう何年も前から、美術の世界における「ヌード」というものは、議論の対象となっていることは、私のように疎い人間にも聞こえてくる話題である。欧米では、美術館から「裸婦像」を撤去する動きが相次いでいるというニュースを、聞いたことがある人も多いはずだ。その背景にあるのは、無論、ヌードというジャンルの根底にある女性の性的モノ化け、という論点であろう。日本でも、主に公共の場に貼られるアニメ風美少女の表象が議論の的となる際によく飛び交う言葉なので、聞いたことがある人は多いだろう。この概念は、長い歴史と多様な論点を含んでおり、ぶっちゃけ私も深く理解しているとはいいがたいが、とにかくそういう概念があることは確かだ。この時代において、「ヌード」という題材を漫画において追求することの意味は、果たして何か。

 ぶっちゃけて言うならば、「空をまとって」に登場する裸体は、エロい。リアルに裸体を描けば、エロくなるのは当たり前である。とはいえ、そのエロさは、例えば「萌えエロ絵」などにあるエロなどとは違う。別に私は「健全なエロ」と「不健全なエロ」というものを分けて、「空をまとって」に出てくるエロは健全なエロだ!素晴らしい!などという粗雑な主張をしたいのではない。

「じゃあ何が言いたいんだ?」

 と、言いたくなる人もいるだろう。私にもうまく答えられない。大体この漫画自体が、「そのこと」にも向き合っているように思える。ヌードにとらわれた主人公は、別に性的な興味からそうなっているわけではないことはちゃんと描写されている。では「それは何か」という点については、はっきりとはしていない。多分、最終的にはその問題に向き合うのではないかと思う。資本主義の現在は、性もまた、程度の差こそあれ、商品として扱われる。金になりやすいので、最も多く扱われているとさえいえる。だから我が国では、主に二次元のイラストを巡る論争が絶えないし、それが政治的な問題にさえなっている。論点は多岐にわたり、複雑化している。把握が困難なほどに。ただネットをちょっとのぞけばポルノの広告が嫌でも目に付く昨今の環境は、まず何よりもエロという文化にとってマイナスであることはあきらかだろう。もはや溢れすぎたそれらは、文化として死んでいるからだ。推しの子のキャラが印刷された女児向けパンツに感じた違和感の正体がつかめた気がする。大野左紀子先生も書いていたが、あまりにも世に溢れすぎたものからは、神聖さとでもいうべきものが、消え失せるのだ。漫画のキャラがあまりにもあちこちで見かける社会では、彼らの持っていた魅力は、減っているような気がする。エロが溢れた社会では、エロの持つ神聖さもまた、減っている気がする。何か月か前、「排尿を我慢する女性のエルフ」というニッチな性癖を主題として描いた漫画のPOPで、ヒロインである女性が失禁をする場面を模したことが、ちょっとした炎上をしたが、なんというか、エロですらなく、単に女体で遊んでいるかのような印象を受けた覚えがある。今は、そういう社会なのだ。

 何やら私は、とりとめのない、エビデンスの乏しい、印象論に終始した文章ばかり書いている気がするが、どうか大目に見てほしい。大体今の社会は、明快でない、曖昧で、ややこしいものを嫌いすぎている。言いたいことははっきりと、簡潔に、わかりやすく言ってよ。時間に追われているのよ。早く済ませたいのよ。手っ取り早く理解したいのよと言っている人が、あまりにも多い。言葉のファーストフード化だ。しかし、ファーストフードには、本当の味わいはない。手っ取り早くは理解できない、わかりにくい言葉の中にしか、人間にとって本当に血肉となるべき価値のあるものは、含まれていないのだ。私はそんな言葉に触れたいし、私の語る言葉も、そんなものでありたい。

「空をまとって」がまとっているもの、それはおそらく、あまりにも表現というものを考えさせてくれる機会に乏しい現代という時代において、表現について語ろうという姿勢なのだ。難題である。難しい主題を、安易に語ってしまう危険性と隣り合わせだ。「空をまとって」は漫画としての快楽にも、十分に忠実である。続きがどうなるのか気になるキャラクターたちが多く出てくるし、漫画に欠かせないギャグだってちゃんとある。 その「快楽」がもしかしたら、作品のテーマ性を殺してしまうリスクもある。それは最後まで読んでみなければわからない。一方で、その快楽を抜く取ってしまえば、作品として納得のいく結末を迎える前に、連載が終了してしまうかもしれない。

「空をまとって」という漫画は、もっと多くの人に読まれてほしい。賛否両論が飛び交ってほしい。それは必ずやこの漫画のみならず、今我々が生きる社会にとって、意義深いものであるはずだからだ。

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