君の瞳に僕が映るまで
綿来乙伽|小説と脚本
僕はまだ、好きな人への思いを引きづっていた。
未練たらしいと馬鹿にされるだろうが、僕はただ、好きなものを手放すことが出来ないだけだ。
食事制限のダイエットはリバウンド率が高いと言う。それは、食事制限で痩せようと試みた失敗人はきっと、食事が好きな人だからだ。ダイエットに成功したところで、一度手放した大好きなものをもう好きではないので要りません、と拒絶することはない。彼らは食事の制限をしたのち、食事が好きだと気付くだけの時間を過ごしている。
人も同じであろう。恋人が分かれる理由は人それぞれだったが、今回ばかりは僕が悪かったのだろう。未だに理由は分からないし、彼女は自ら僕の前に現れなくなってしまったから聞くことも出来ない。言ってくれれば直したのに、と、思ったのが遅すぎたのかもしれない。僕が悪い。きっと、僕が悪いんだ。
それでも僕は彼女のことを忘れられず、彼女と過ごした、彼女の残り香がある場所へ足を運んでしまう。彼女の丸い瞳が見えなくなったとしても、彼女との思い出にまだ浸っていたいと思う自分がいる。
彼女が通う美容室は、ここを曲がって左の路地裏にある。彼女が「美容院に行ってくる」と話しながら家を出る時、いつもワンピースを着ていた。中でも一番覚えているのは淡い水色を基調としたシンプルなワンピースだった。彼女がそれを着て出掛ける時は、僕とのデートではなくいつも美容室だった。彼女がいつも美容室にワンピースを着ていくのは、美容室から帰る時、自分がお姫様のように美しく儚く感じるからだと言う。最もお姫様に近い格好がワンピースなのだと、真剣なまなざしで教えてくれた。僕はそれを思い出しながら、路地を左に曲がった。美容室の玄関が見えた。木材で出来た小さな白いドア。彼女がこのドアを開くと、彼女が今以上に美しくなって帰って来る。それが本当に楽しそうで、それを見ている僕ですら楽しくした。あの時の彼女のワンピースが、すぐそこにいるかのように鮮明に見える。もういないはずなのに、彼女がそこに見える。傍から見たら気持ち悪いのは十分理解しているが、それでもこの時間だけが僕の至福だった。
彼女の職場の最寄り駅には、世界で一番美味いラーメン屋がある。彼女はアパレルの店員で制服に着替えて仕事をするから、職場に向かう時の私服はいつも適当だと話していた。僕は彼女が仕事を終えるまで帰りを待つ。ラーメン屋の前で待っているフリをして、後ろから追い掛けて驚かす。ティーシャツとジーンズ姿の彼女は、同じ仕掛けにいつも驚いてくれる。きっと数回目で飽きているのに、僕のわがままに付き合ってくれているのがたまらなく愛おしかった。僕はそんな彼女を追い掛けるようにラーメン屋の前で立ち尽くした。もちろんここのラーメンが絶品なのは何も変わらない。だけど、彼女と食べるここのラーメンが、この上ない幸せなのだ。店内には、豚骨醤油ラーメン大盛と餃子を食べる彼女の幻覚が見えた。彼女のティーシャツはいつも輝くほど白いから、ラーメンの汁や餃子のたれが飛ばないか心配になる。そして案の定汚す。食事に対して無邪気な彼女が、好きだ。
彼女の家は、僕の住む家から二駅離れた所にあった。二駅と言っても、街灯と人気の少ない道を下って数分、歩けばすぐ着く距離だった。だからいつも彼女を家に送ってから引き返すように自宅に帰った。夜になってここを歩くと、少し前のことなのにもう既に懐かしく感じた。彼女の家の近くに用事があった時、この暗くて狭いトンネルで初めて彼女と出会った。冬が本気を出してきた1月頃、もくもくしたアウターを羽織り、ミニスカートを履いていた彼女を誰かがつけているようだった。彼女は少しずつ歩くスピードを上げた。だが後ろの男は彼女と同じようにスピードを上げて彼女に抱き着こうとしていた。僕は咄嗟に声が出て、驚いた男が走って逃げて行った。彼女は僕にお礼を告げた。そこから彼女との物語が始まった。僕はこのトンネルを通る度に、白のアウターに包まれた彼女を思い出した。ありがとうございました、と頭を深く下げて走って行った彼女は本当にかわいかった。今でも彼女がそこにいて、僕の前を歩いている気がする。彼女を追っかける男は僕の前にはいない。彼女がそこにいるような温かみがそこにはあった。
「君、ちょっと良いかな」
僕は立ち止まった。振り返ると警察官が二人そこにいて、僕を見つけていた。
「何してるのかな」
「え、ただ、歩いているだけですが」
「君、なんで声掛けられたか分かってる?」
彼らは文脈が読めない言葉を僕に伝えた。僕がおかしくなってしまったのだろうか、彼らの言葉がまるで耳に入らなかった。
「この方ですね」
僕の前で立ち止まっていた彼女が振り返った。彼女は僕の幻覚ではなく、本当に僕の前に存在していたのだ。彼女の瞳にまた、僕の姿が映し出された。
「禁止命令出てるよね?どうしてまたやっちゃったの」
「一昨日の美容室も、昨日のラーメン屋も、今日だって、家行こうとしてるじゃない」
「とにかく、署まで来てもらうから」
警察官達は、僕の両腕を掴んだ。僕は暴れず、騒がず、むしろホッとした。僕はふと彼女を見た。彼女はずっと僕を見つめていた。ああ良かった。彼女が僕の前に姿を現して深くお辞儀をしてくれた時以来だ、彼女の瞳に僕が映ったのは。
君の瞳に僕が映るまで 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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