おかえり、希死念慮
間川 レイ
第1話
仕事終わりの帰り道。吐く息も白く煙る帰り道。暗い夜道と私の白い吐息がコントラストを紡ぐ中、その言葉はまろびでるように口から溢れていた。「ああ、死にたいな」なんて。ごく自然に。ありふれた言葉のように。そんな言葉を吐いたとたん、ただでさえ冷え込む身体のうちが、きゅっと縮こまるようになって。ハッと慌てて口を噤む。誰かに聞かれていたらどうしよう。そんな不安が急速に込み上げてきて、キョロキョロとあたりを見渡す。もとより人通りも少ない帰り道、誰に聞かれた訳でもなさそうだ。そう思ってそっと胸を撫で下ろす。
それにしたって、久々に死にたいって思ったな。そう、心の中で呟く。別に積極的に生きていたい理由がある訳ではないけれど、まさか知らず知らずのうちに口をついて出てくるぐらい、死にたい気持ちが溢れてくるなんて。一体いつぶりだろう。そう内心ぼやく。夢をあきらめて大学院を去って以来ではなかろうか。社会人になってからは目の前の業務をこなすのに精一杯で、中々死にたいって気持ちになることもなかったから。なんて。毎日10ミリグラム単位で飲んでる抗うつ剤の影響も大きいのだろうけど。大学院進学前から飲み始めた抗うつ剤。私から死のうという自発的意識すら剥奪する魔法のお薬によって、死にたいという気持ちが意識の表層に浮上することすら珍しいのに。まさか口をついて出るほどなんて。
それにしても、久々に死にたいという気持ちを味わうと、色々と懐かしい気持ちにもなる。親と仲の悪かった中高生時代。夢と現実の力量の差にうちのめされていた大学生時代。夢を追うことにかけて、それでも夢を叶える壁の高さに絶望していた大学院生時代。その時折の死にたいという気持ちがつい昨日のことのように思い出せる。衝動的に喉を掻き切り線路に身を投げ出したくなる。全身の細胞という細胞が、もう終わりにしてくれと悲鳴をあげているかのような。全身の細胞という細胞が、生命活動の維持を放棄しようとしているかのような。独特の倦怠感と脱力感。諦めだけが胸をひたしていく。そんな感じ。
なんで、こんな気分になるんだろう。なんて。理由なんて、すぐに見当がつく。疲れているからだ。日々の業務が忙しくて。転職活動と日々の生活の両立が大変で。毎日毎日馬鹿みたいな残業祭り。過大なノルマに終わらぬノルマ。目標数値に届かなければ待っているのは上司からの嫌味たっぷりな皮肉たち。そんなものはまあいい。営業職にはつきものだし、最初から覚悟はしていたし。それにノルマを達成した時の解放感は何者にも代え難い。とは言え疲れることは疲れるけど、もう慣れた。だから、原因はもっと別の理由。
盗撮されたから、だろうなあ。内心私はつぶやく。私はつい先日盗撮被害に遭った。執拗に、執拗に写真を取られた。何を考えているのかよくわからない表情で。何を考えているのかわからないというのはストレスだ。正直、不気味でもあり、怖くもあり、不愉快でもあった。でも、一番大きかったのは気持ち悪さだ。痴漢された時にも思うことではあるけれど、私をそういう対象として見るのが気持ち悪い。何に使う目的かわからない写真を撮ってくるのが気持ち悪い。何を考えているのかわからない表情を向けてくるのが気持ち悪い。でも、そういうのは本質ではないんだと思う。
多分私は、他人から負の感情を向けられるのが極端に苦手なのだ。他人に悪意を向けられることが苦手なのだ。それは実家にいた頃から一緒。両親の罵倒や罵声に怯えていた頃から変わらない。他人から一定以上の感情を向けられると身がすくむ。一定以上の情念を向けられると、ごりごりと心をやすりで削られているような心地になる。
だから私は死にたがる。このどうしようもない悪意に満ちた世界から逃げ出すために。そしてそっと呟くのだ。おかえり、希死念慮と。
おかえり、希死念慮 間川 レイ @tsuyomasu0418
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