都心の温泉には空があるって知ってる?

未来屋 環

なんであんなに気持ちいいんでしょう。

 今日という日がどんな一日であっても、明日はきっといい日だと思う。



 『都心の温泉には空があるって知ってる?』/未来屋みくりや たまき



 時刻は24時30分。2駅先のオフィスを飛び出して、終電でここまで辿り着いた。

 飲み会帰りのサラリーマンたちですら絶滅した眠る街の中を足早に歩く。


 おととい、お気に入りのマグカップが割れた。

 昨日、彼氏が元カレになった。

 そして今日、原因不明のバグと必死で格闘を繰り広げてここに至る。


 ぽつりぽつりと闇夜やみよに光る街灯を頼りに進み、私は人気ひとけのない商業施設に吸い込まれていく。


「いらっしゃいませ」


 あたたかい光と笑顔に迎えられ、私は思わずほうっと息を吐いた。



 ――そう、ここは都心に咲いた秘密の楽園。



 悩みも不安もいきどおりもわずらわしさも、すべてを脱ぎ捨てロッカーに閉じ込める。タオル1枚を手に、私は重たいガラスのドアを開けた。


 ――目の前に広がるのは、静謐せいひつに満ちた真夜中の露天風呂だ。


 年の瀬も近い東京の寒さは、何もまとわない肌を容赦なく切り付けてくる。

 それでいい。傷付けば傷付く程、私を待つ愉悦ゆえつはその深みを増していく。

 入口でさっと身体を洗った私は、誰もいないその空間を颯爽さっそうと歩いた。

 さながら、ランウェイを進むパリコレモデルのように。


 さぱっと湯船に左足を入れ、冷えた身体をじわじわと琥珀こはく色のお湯に沈めてゆく。

 ちりちりと肌に熱が走り、奥底に灯った火がゆらゆらとその身をくすぶらせていった。


「はぁ……」


 世界一しあわせなため息をき、私は顔を上げる。

 『東京には空がない』と言ったのは誰だっただろう。

 その人に、この場所を教えてあげたいと思った。


 ――見上げた夜空にはぱらぱらと星が散りばめられ、漆黒に近い群青ぐんじょうの中でえと輝いている。


 この夜空は、今この瞬間私だけのもの。

 そんな贅沢さに酔いながら、私は視界に収まる遠い惑星ほしたちに想いを馳せた。

 もしかしたらそこには、私と同じく夜空を見上げている誰かがいるのかも。


「――今日も一日、おつかれさまでした」


 違う惑星に息衝いているであろうどこかの誰かに呟いて、私は笑顔で立ち上がった。


 さぁ、ここから長い夜の始まりだ。

 まずはお気に入りのシャンプーで髪を洗おう。

 肌をいたわるようにもう一度ボディソープを滑らせたら、ゆっくりと内湯めぐりを楽しもうか。


 何をしたっていい。

 何だってできる。

 それは、なんて自由で素晴らしいことだろう。


 日常のごちゃごちゃでいっぱいだったはずの頭は、いつしかすっきりと澄み渡っていた。


 私の楽しい時間は、まだ始まったばかりだ。



(了)

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