短編 無題
ToKi
本文
今日は十五夜で、寛はベランダに出て彼が住むアパートの大家が暮らす家の庭の「コスモス畑」を眺めていた。夏にはペチュニア畑になった。部屋の中に戻って読み終えていた『懐かしい年への手紙』を棚に戻した、唇に窓から入ってくる風が擦れた。2時間前に寛は姫乃とキスをした。少しだけ触れた彼女の左頬が常温の水のようで心地良かった。彼女は前髪が頬の上に触っていて、瞼を微妙に動かした。ぼくは額を近づけて、彼女の前髪をほんの少しかき分けた。指がカクカクとゼンマイ仕掛けの機械のようにしか動かないかった。彼女の前髪が触れた親指の爪には幾つもの線が入っていて、曇っていた。寛は綺麗にしておけば良かったと後悔した。
「自分で切ったけど、なんかね...」
キスが終わると姫乃はベランダの隅に腰掛け、目に反射した光がチラチラするので辛うじてそこに居ることが分かるくらいで、彼女は半ば暗闇に溶け込んでいた。ぼくは口を少しとがらせてベランダの手すりの上で腕を組んでいたために付いた砂埃をはたきながら微妙に猫背になって姫乃の顔を横目で探した。それ以上、眼球は姫乃の方に動かず、ぼくは顎を引いた。瞼はとじなかった。瞬きを忘れた眼球のささやかな痛みの上に稼働していない室外機の横で膝を抱えて座っている彼女の姿を思った。ぼくの文脈が途切れた気がした。頭に上っていた血が循環をはじめ軽くなった気がした。気がしただけののは確かで、それでも、ぼくの頭の中で姫乃自身がほんの少し顔を出したような感じがした。ざあーっざっ、と彼女が履いている白黒のMizunoの靴がベランダの床に擦れる音がして、ぼくは慌てて振り向いた。「やっぱり、姉崎まで来ると星がよく見えるね。でも、こんなもんかな…」「そうだね」「うん」 姫乃はファミリーマートのレジ袋に呑み終えたビールの缶を入れて、そろそろ行くねと寛に言った。階段を降りる音が少し大きかった。歩いている感覚があまりなく、彼女は後ろに居る寛との距離を横目で確かめて、一瞬だけ爪先に力を入れた。すると肩の辺りに、じーんという感覚が起たので首を窄めた。頭の後ろに寛の手が触れた気がしたが、1メートルは離れていた。寛は丸くなった背中を見詰めていたが、その形は長くは続かなかった。そうして視線を姫乃の背中から山崎の家の室外機に移した。この夏に山崎はエアコンを買いかえたのだ。こんどは「霧ヶ峰」かあ。と、幾度も繰り返した言葉を其処にあてがったが、もうそろそろ飽きてきた。「それじゃあ!」「…うん」 硬いソファだから彼女が座っていた跡は残り得ない。寛は猫の水のみ皿につまずいた。皿は空だったから床は汚れなかった。皿をもとに戻して、もう一度ベランダに出た。隣の部屋のベランダにある物干し竿の端にタワーレコードの黄色い袋がぶら下げてある。袋は膨らんでい、月の明るさを含んで菜種油の雫のようだった。一箇所だけ凸っとしている。ひまわりの花弁。
そういえば、大家の山崎さんはひまわりを植えなくなった。最後に見たのは10年前の夏だと思う。その夏に友人が亡くなったのだと、山崎さんは言っていた。ひまわりを植えた年に必ず自分の知り合いが亡くなる。ひまわりの呪い、ああほら、ひまわりの約束だ!と冗談を言っていた。しかし今年は、山崎さんの家の庭に一本だけひまわりが咲いた。多分、鳥が種を落として行ったのだろう。山崎さんはスコップを持って2日程の間、ひまわりの前に来ては抜こうかどうか迷っていた。結局、ひまわりは抜かれることはなく、次の週には台風にやられてポキッと折れていた。
「種を落とした場所が悪かったね。何かの陰に落ちればよかったけれど」「それでも、大きいかったですね」「私も久しぶりに見たもんだから、ちょっとびっくりしたよ。こんなに大きかったかなって。でもね、小さいひまわりしか植えてなかったことを思い出してね」 「そうでしたっけ」「うん…。なんで小さいの許り植えてたのかな?」 それ以前も友人を亡くされていた。彼は桐谷さんという方でひどい鬱になってしまって、薬の過剰摂取が原因だという。薬を一粒潰して「雪みたいだろ」とよく言っていたらしい。週を経るごとに粉にする錠剤が増えていった。その年は暑かった。最後に冷夏が来たのは5年前で、ぼくが原稿を書き終えたころに、姫乃が買ってくるビールがオアシスだった。 彼は瞳さんという女性と付き合っていた。鬱になった彼をふたりで看ていたのだそうだけど。ある日、瞳さんが彼の部屋に行くと、パソコンの前で息をしていなかった。
部屋は乾燥していた。喉が渇く。彼を横にして救急車を呼んだ。冷たかった。もう死んでいる。生き返りはしないよ。彼の頬を叩きたくなった、頬がふにゃっと形を崩しそうに思えた。肌が白かった。わたしは、阿保ではないかと小さく強張った。寒くなって、動悸が続いた。わたしは考えることを躊躇い続けた。何かを思うことが出来なかった。何を考えるべきなのだろう。出てきては潰していった。ただずっと彼を見ていた。しだいに騒がしくなった、救急車が到着して、警察もきた。山崎さんも後からきて一緒に警察に説明をした。随分長かった。
「あそこに歩いている人さあ、桐谷に似てないか」「似てるね」「生きてたか」「縁起でもないな」「歩き方が違う」「あんなにふらふらしてなかったわね」「うん。あいつはふらふらしない。何かに躓いているかのように歩く」「確かにそうね」「27回忌かあ。早かったね」 「そうね。なんだかねえ」
姫乃はビールを呑んでしまうと、そろそろ帰るねと言った。今日は日曜日でまだ14:00だった。階段を降りてアパートの駐車場を出るところまで彼女と歩いた。駐車場に停まっている車は熱い「鉄の塊」だった。スーパーマリオに出てくるキラーのようだ。彼女は茶色と白色のチェック柄の服を着ていた。長すぎない髪を後ろで結いている。歩いていると時々、少し筋肉質の脚にライトブルーのジーンズが張り付く。ぼくは、ぼーっとしていたが、頭を誰かにがっしりとつかまれて、向きを変えられるように、ぼくの頭は彼女とは反対にあるアパートの花壇の方へ向けられた。山崎さんの家から、あーっという叫び声が聞こえた。声は籠もっていて、大きく聞こえるという訳ではなかった。ぼくらは立ち止まって、どうしたのだろうね、と言った。彼女は少し俯いて、しばらく駐車場と道の境界を見詰めていた。
「明日また来るね」「大丈夫なの?」「うん。それじゃあ!」
ぼくはうなずいて彼女が見えなくなるまで見送った。そうして、山崎さんの家の方を見た。家の外壁に視線がぶつかる。跳ね返される。それから声はしなかった。少し経ってカチャッという音がして、山崎さんが玄関から出てきた。彼は空を見上げ、忙しない眼で雲を追いかけていた。流れでアパートの方も見ている。ぼくのことは見えないのだろう。ちょうど、2メートル程の木が2本植えられており、死角になっているのだ。彼は少し笑った表情をして家のなかへ入り玄関を閉めた。ぼくは部屋に戻りベランダに立ってタバコを一本吸った。山崎さんは8年前に離婚しているから、今はひとりで暮らしている。偶に女性が彼の家を訪れてくる。彼女が瞳さんなのだろう。山崎さんは難しい頭をしていると、学生たちから揶揄われていた時期もあった。ある日、山崎さんは「彼らが大嫌いだ」と言ったことがある。
「昔の私も彼らと変わらないよ。そのとき仲の良かった女友達に松橋さんという人が居てね。彼女から怪しい目をしていると言われた事があるのね。黒ずんだ狼の怪しい目だって、あとから付け加えてたけど…。だから、それから暫くは何も手付かずでね。その日の晩は泣いたよ。自分の部屋からとぼとぼ、歯を磨くのに洗面所の鏡の前に行くと、泣いてたから少し目元が赤らんでいてね。それで暫く自分の目を見ていたんだよ。確かに何かを求めている目をしていたの。小賢しいからさあ、泣けたことを肯定しようとしている節が私の目にはあったのね。私はやっと何かを理解出来たんだと、馬鹿も大概にしろと言いたくなる。昔の自分が大嫌いなのと同じく、今の状態の彼らのごとが大嫌いなんだ」「……今の自分のことは?」「…どうでもいいよ…。自分よりも他人のことが好きだからね」「うーん」「私はただ和やかな眼で生きていたいだけで、人のことを無闇に捉えるというをしたい訳ではないのね。さっき、あの学生たちのことが嫌いだと言ったけど、私は彼らを包み込むものになりたいと思ってる。でも、さっきどうでも良いと言ったけども、嫌いだよ。何で包み込みたいとか言ったんだかねえ、さっきの自分がね。でも、今の自分のことは保留しておく。嫌いになりそうだけど。でないと、死んでしまうよ。死にたくはないからね。どうしようもなさを嫌って喚いて済ませるのは弱者のナルシズムだよ。狼のことが好きな馬鹿が多いけどね。馬鹿だと言ってあげて欲しい。喚く馬鹿にも、ああ先に言ってしまった。まあ、しかし言ってあげて欲しい」「……松橋さんに言われたのですか?あの…馬鹿って…」「いや、狼の例えだけだよ。あの時の彼女の眼は神秘的なほど澄んでいてね、羨ましかった。私は馬鹿だ」「それなら、ぼくは余程の馬鹿です」「いえいえ。でもね、馬鹿だと思うなら思うだけにしておいた方がいい。泣くなら泣くだけにした方がいい。でも、そんな聖人にはなれないのね」「そうですねえ、いやなもんです」「そうだこんどビールでもどうです?zwerverっていうバーがあるからそこで」「いいのですか?」「偶にはこういうのもいいと思いますよ」「いや、あの、ありがとうございます」「それじゃあ近いうちにでも」「ええ」
ぼくのベランダも彼からは死角なわけで、彼が外に出て庭を眺めている姿をいつも見ていた。部屋に戻りしばらく考え事をした。読みかけていた吉本隆明の『重層的な非決定へ』を読むことにした。
机にはキース・ジャレット・トリオの『Somewhere Before』のカセットテープが置かれていた。姫乃が「waltz」で見付けてきたもので、ぼくは「my back pages」をかけた。ノイズの上をゲイリー・ピーコックの弾くベースの音が占めていく。しばらくして右から聴こえてくるピアノの音。少し重たいまな板を思い出す音をしている。飼っている猫のシロミがぼくのところへ来て、にゃあと1回鳴いた。そうだ、餌の時間だね。 皿に餌を入れてシロミがムシャムシャムシャと平らげるのを見ながら、姫乃が俯きながら考えていたことを想像して、ぼくは暫く地蔵のように座り込んで動けなかった。シロミは餌を食べ終え、自分の城へ戻って行た。前足をペロペロと舐め、窓の方から寛へと視線を流し、眠った。
短編 無題 ToKi @Tk1985
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