第4話
すぐ耳元で聞こえるような獣の荒い息。
暗闇でふいに光った気がする、ビー玉のような虚ろな目。
左手に纏わりついていた青光が点滅し、消えていく。視界の端にそれを捉えながら、彼はひた走った。
何かにぶつかった。額を押さえながら立ち上がり、その硝子質の物体をまさぐる。壁だ。扉だ。倒れ込みながら押し開けて、まだ煙が充満していない帽子屋の店内に転がり込む。だが、灯りが無いので、ほとんどが闇――真夜中に訪れたようだった。それでも、どこか安心できた。目に見える物の世界。
たくさんの帽子が棚に収められていて、テーブルの上には人間の頭を模したマネキンが、鳥の羽根を飾った派手なハットや、耳まで覆うような大きなキャップを被っている。眞人は何げなく、そのうちの一つを手に取ろうとして――。
どこか遠くで甲高い叫び声が聞こえて、びくりとその動きを止めた。誰かが――誰かが――。考えまいとするその思考が今にもパニックに変じそうだった。しかし、いや――違う。ヒトの叫び声ではない。ましてや彼の創造物の、今わの際の絶叫でもありえない。それは声ではなかった。この音は……この悲鳴は……。
ショーウィンドウが一斉に割れた。なだれ込む煙とともに、飛び跳ねるものがあった。それは先ほどよりもいっそう強く聞こえる金切声とともに店内のものを次々となぎ倒し、帽子を引き裂いた。棚が倒れてくる。眞人は声を上げることもできずに逃げ回り、カウンターの下に転がり落ちた。木がへし折れる嫌な音が響き、木屑のにおいが充満した。胸を激しく上下させながら、彼はひたすら祈った。
不意に、悲鳴は消えた。
割れた硝子がぽろりと落ち、地面に当たって鳴る控えめな音だけが、いやに大きく響いている。眞人はごくりと唾を飲んだ。緊張は消えなかった。
まだ、ここに居る。
パキ、パキ……何かが硝子を踏みしめた。
ひゅん。
なにかが飛んできて、カウンター裏の壁にどすんと突き刺さった。矢のように細長く、黒い。暗くてよく見えなかったが、しかし、眞人にはそれがなんなのかよくわかった。つい先ほど目にしたばかりだ。それは――文字盤を指し示す針。
目が合った。それはカウンターの上に顎を乗せて、流し目を送るように、五つの眼球で、眞人をじっと見つめていた。薄暗闇ではほとんど茶色に見える眼のひとつひとつに、真っ黒な瞳が――いくつもある。それらは分裂途中の細胞のように押し合いへし合いながら繋がって、一個の瞳を成しているのだ。じゅう、と音がした。牙と牙の間から漏れるよだれが、カウンターの木材を溶かして、穴をあけているのだ。眞人は腰が抜けて立てず、ゆっくりと後ずさった。だが、それ以上先には、何も無かった。
なんの音か、はじめ、眞人にはわからなかった。しかし否応なく理解した。目の前の怪物が、口の端を歪めて――そして目のひとつひとつを半月状にして――いたのだ。嗤っている。眞人は深く傷ついた。この生き物がひどく人間的な悪意に満ちていることがショックだった。そうであるならば、もはや、楽に死ねるはずがない。腹を裂かれ、内蔵のひとつひとつを、黒艶やかな爪先でつつかれるのだ。苦悶の表情を浮かべるおれを見て、やつはまた嗤うんだ――。
だしぬけに感情が溢れ出し、眞人は叫んだ。涙がぼろぼろと零れ、大きな声を上げて泣いた。後悔も祈りもなく、ただ恐怖に涙を流すだけだった。急に、すべてが曖昧になって、水のかかった絵画のようにへたれて、ぼやけていった。ぐにゃぐにゃのマーブル模様が何度も彼を引き裂き、何度も彼は泣いた。何度も彼は走り、何度も壁にぶつかり、何度も店に迷い込んだ。そしてまた何度も獣は嗤い、何度も彼は叫んだ。「眞人様」とイドは言った。「お目覚めください」
そして眞人は目覚めた。おのれの声で目が覚めたのだ。
目の端に涙がにじんでいた。泣いていた――おれが? いや、なんだ、今のは? 彼は混乱していた。まるで、別の世界での出来事だったかのような気がする。
遮光カーテンの下から朝日が床を這っていた。もう朝なのか? だって、さっき寝たばかりだ。
不思議な気分だった。恐怖や不安を感じていたはずなのに、妙に落ち着いていた。しばらくの間ぼーっとして、まったく別のことを考えていた。しかし、徐々に意識がはっきりしてきて、後からショックが襲ってきた。だが、彼はそのショックによって混乱することを拒絶した。とにかく今は眠くない。しばらく後で考えよう。
学校に休みの連絡を入れた。
ごく普通の休日を過ごした。だらだらとYouTubeを見て、スマホゲームに精を出し、眠るために買った、やたらと分厚い『三銃士』を読んだ。これまで一度も辿りついたのことのなかった上巻の結末を知り、そこではじめて、自分が下巻を買っていないことに気がついた。
本を読んでいるだけで五時間ほど経っていた。洗濯物を畳み、パンを食べ、風呂とトイレを掃除した。昼ごろにはうつらうつらとしてきた。
だが、夢世には入れなかった。その日彼が見たものは、彼の知っている世界ではなかった。不気味な幻覚的イメージ。形を成していない混沌とした形が、さまざまに移り変わりながら意味を成そうとしている。時々はそれに成功し、眞人に何かを語りかけ、眞人はそれに応じる。目が覚めてから、彼はぞっとした。現世で目覚めるまで、自分が夢世に入れていると思い込んでいたのだ。しかし実際には、ぐにゃぐにゃとしたイメージに弄ばれていただけだった。
それはあまりにも恐ろしい体験だった。自分が自分でなくなる――ある意味、死ぬよりも恐ろしい。そして、彼はようやく理解した。もはや自分が、夢世に入る能力を完全に喪失しているということに。
移住計画は完全にお終いだった。――おれは何もかも失ったんだ。アイリスを信じなかったから。彼女の忠告を聞かなかったからだ。
だったら――おれはどうしたらいい?
眠る度に奇妙なイメージが現れた。理解不能の映像はいつも、黄色い目玉になり、生々しい吐息に変わって――眞人は飛び起きる。全身に汗をかいていて、心臓がばくばくと音を立てている。何もかもが不快だった。そしてもう逃げ場はない。何度もそれが繰り返されるうちに、だんだんとベッドに入ることを恐怖に感じはじめた。だが、本当は眠ることが怖いのだ。日が昇っても、それが沈んでも、彼は布団に入ろうとはしなかった。だが、それしかできなかった――つまり、布団に入らない、ということしか。これまでの人生で、夢を見る以外に彼の心を癒してくれたものはなかった。そして今、夢世とともに、彼の癒しもまた、混沌の底なし沼に沈んでしまったのだ。
丸一週間、彼は学校を休んだ。だが、休むという言葉とは裏腹に、彼が実行していたのは疲弊だ。気を失うように床の上で眠るとき、いつも僅かだけ、夢世に入れるのではないかという希望を感じる。しかし、あの恐ろしい怪物の存在を感じて覚醒するのだ。期待は万遍なく裏切られる。それでも彼は、唐突に失われた自分の力が、また唐突に復活することに縋る以外に、できることはなかった。
その間、彼は部屋の隅に座って、ただじっとしているだけだった。バイトもしばらく休んだ――同級生に会うと面倒だと思ったのだ。しかし、そう何日も引き籠ってはいられなかった。
移住が失敗したということは。
考えたくはないが――。
「ぼくは……」眞人は膝を抱えながら、ぽつりと呟いた。「この世界で……現世で……」
生きていかなければならない。
言葉にするととてつもない痛みがあった。凍り付いていた心に罅が入り、そこから血が滲んできたようだ。
何度目かの夕方のこと、インターホンが鳴った。これが現実なのか幻覚なのか、彼は混乱したが、どちらでもいいと思った。
扉の前に立っていたのは、養護教諭の大村先生だった。眞人は目をしばたたかせて、やはり幻覚なのだと思った。しかし、久々に女性を見て、彼の心は躍った。夢世での気晴らしがなくなった今、現実の女性がいやに魅力的に見えていたのだ。
「あ、保健室の大村です」と、学校名の後で彼女は自己紹介をした。「眞人くんはいらっしゃいますか?」
「おれですよ、先生」眞人は言った。「開けますね」
重い扉を開けると、まるで飛行機の緊急脱出ハッチをあけ放ったかのような気圧の変化を感じた。強い風が吹いていて、体が持っていかれそうだった。
大村は、眞人の変化を見てぎょっとした。目は充血していて呼吸は浅く、背は数センチも縮んだように見えた。下目蓋には黒々とした隈があって、墨汁かなにかで拭った跡かと、何秒かは本気で思ったくらいだ。糞尿のような嫌な臭いがして、ますます大村は衝撃を受けた。彼女がこれまでの人生で見てきた子供の中で、眞人はダントツで病んでいた――だが、ほんの一週間前に保健室で会ったばかりだ。なのに今の彼は、重度の鬱病患者のようにしか見えなかった。
「どうしたの」と思わず彼女は口にしてしまった。なぜだか涙が溢れそうだった。
「終わったんですよ」眞人は言った。「出口が見つからないんですよ」
「ここにあるでしょ」
そう言って大村の背後から現れたのは、鳴神支岼だった。
「出たいなら出たら?」
眞人はわああと大声を上げて、その場にへたり込んだ。べちょっと湿った音が鳴った。「な、な、なんで」と彼は喘ぐように言った。「なんでここにいるんだよぉ」
「ごめんなさい、朝戸くん。こんな風になってるとは本当に思わなくて」と大村は、二人の間に軽く腕を掲げて、壁を作っていた。「鳴神さんから事情を聴いたの――彼女の方から話してくれたんだよ。朝戸くんが学校に来ないのは、もしかしたら私がおどかしたせいかも知れない――って。それが事実なら直接謝るべきだと思ったから、ここに連れてきちゃったの。本当にごめんなさい」
「謝る必要ありません」と支岼はぴしゃりと言った。「こんなことでビクビクして、本当に情けない。それでも学年一位?」
「学年……?」眞人は囁いた。
「期末テスト」
「ああ……」眞人は久々にそのことを思い出した。
「ああ……って」支岼はぽかんとしていた。
支岼のその表情を見て、眞人がぽかんとした。虚をつかれたような間抜けな表情は、およそ彼女らしいものではなかったのだ。
「私が二位!」彼女は唸るように言った。
「えっと……その……なんの教科で?」
「全部よ!」
支岼は眞人に掴みかかろうと飛び出したが、大村に羽交い絞めにされた。その鬼気迫る表情を見ていると、眞人はあの怪物を連想せずにはいられなかった。彼はもんどりうって家の中に引きかえしていった。大村がその動きに気を取られている隙を突いて、支岼が腕の下を潜り抜けた。
四つん這いになっている眞人に支岼が覆いかぶさった。「学校に来なさい!」と彼女は耳元で怒鳴った。「私が悪いみたいでしょ⁉」
「おまえが悪いだろお!」眞人は叫んだ。「おまえがおれを殺そうとするから、おれはこんな目に遭ってるんだ」
「殺そうとなんかしてない!」
支岼は言った。
「ただちょっと……わたしは……だから」徐々にゆっくりになっていく。「つまりわたしは――うっ⁉」彼女はばっと飛び退いた。「臭ッ⁉ 何⁉」
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STAY IN BED うやまゆう @uyama_yuh
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