第3話
アイリスの研究室からは天体望遠鏡が取り除かれた。眞人の指先ひとつで、それは底なし沼に捉われたかのごとく地面に埋没し、どぽんと音を鳴らして消え去ったのだ。その代わり、ひどく原始的な星型の薪が組まれ、黒々とした大釜が据えられた。イドはバインダーに資料を挟んで読みながら、次々に材料を求めた。眞人は、時には己の想像力から、そしてときにはアイリスの収蔵品から見知らぬ素材を引っ張り出し、イドを手伝った。
「塩と黄鉄鉱の粉塵を少々――」
火にかけられた大釜の中はぐらぐらと煮立っていた。研究室の灯りは軒並み降ろされて、焚火の放つ独特の濃い赤光と、青く輝く夜空のほかに光源はなかった。子供用の踏み台に乗って、ようやくイドは大釜の中を覗き込む。粉塵を投じられた容液は、金色のため息を吐いた。その煙が目に染みたのか、こほこほ言いながらイドは後ずさった。「そして」と彼女は言った。「月光に晒し、天地創造が再現されるのを待つ」
その視線を受け、眞人はごくりと唾を飲んだ。かつてない魔術的な儀式に緊張を隠せない。だが己が望んだことなのだ。そしておれにはそれができる。彼は軽快に指を鳴らした。
すると、夜空の星々は、その不遜ともいえる命令に大挙して従った。ぐるりと天が転んだ。そして、どこか黄緑色に輝いて見える巨大な満月が、超越者のごとく、研究室にその視線を注いだ。
「こうまでしないと、鳴神を作れないとはな」と眞人はその合間に呟いた。「自分の情けなさには愛想が尽きる」
「そうおっしゃらないでください、眞人様。ご自身への批判は、その一部を共有するわたくしへの批判。同時にわたくしも寂しくなります」
そう言われ、眞人はまんざらでもなく肩を竦めた。「おまえとアイリスが仲直りしてくれたらいいんだけど」だが本当は、その前に自分が仲直りしないと――。「この実験は役に立つかな?」
「もちろんです」とイドは請け合った。「眞人様のお考えや癖、忌避することでさえ、〈魔術〉ならば超えられる――そう明らかになれば、きっと、夢世への魂の移住でさえ、魔術によって達成できるといえるはずです」
「そうか。なら、成功させないとな」
眞人はそう呟いた。己でも驚くほど気の抜けた声色だった。心配なのだろうか? それとも、失敗すると思っているのか。魔術――それをどこまで信用していいのか、眞人にはわからなかった。アイリスの得意分野が魔術であることは知っている。だが、それは眞人の創造能力の下位互換に過ぎない、というのがこれまでのところの評価だった。
たしかに、ときどきアイリスの発言には引っかかるものもあった。彼女の知識は明らかに眞人のそれを超えており、現世で眞人が触れたはずのない情報も豊富に持っている。ある時は、第二次世界大戦中のヨーロッパへ出かけたなどと、嘘かまことかわからないことを言っていた。感応現象――命無き夢世の肉体が、現世の肉体とリンクするように、アイリスも明らかに何かと感応し、リンクしている。それが重要なことなのか、それとも単なる創造行為の副作用に過ぎないのか。
今まではわからなかったし、解明できないなら興味も無かった。だが、これでハッキリするのだ。そしてもしも、イドの言うようなことが明らかになったのなら――。
そのとき、眞人の思考は中断された。突如として釜が光り輝き、紫がかった暗色の雲を吐き出し始めたのだ。それはもくもくと膨らみ、やがて研究室を覆いつくしてしまった。「おい、イド」と眞人は叫んだ。ミントのような香りに咳き込む。「ごほ……こりゃなんだ。失敗か?」部屋のどこかでイドが答えた。「わかりません」眞人は叫び返した。「危険かもしれない。おれの力で消すぞ、いいな?」
「お待ちください!」イドが叫んだ。「なにか見えます。――あれを!」
イドは指をさしているのかもしれなかったが、煙の中では何も見えなかった。自分が反射的に目を瞑っていたことに気づいた眞人は、ゆっくりと目を開けた。そして、イドが何を指さしているのかが、彼にもはっきりとわかった。
それは水に映る奇妙な影に見えた。暗闇の中で、より一層暗く、陽炎の如く揺らめいている。あたかも潜水艦が浮上するごとく、鯨が呼吸のために口をあけるごとく、その影は自ずと形を成し、一つの音になった。その瞬間、雲が消えた。まるで初めからそんなものはなかったかのように、研究室は晴れ渡った。
大釜の直上には、光の球が浮かんでいた。それに熱はなく、むしろそれを見つめる
だが、それもやがて衰えていった。いつのまにか釜の火は消えていて、熾火さえもなく鎮まっており、最後の火花が吹く前に、すでに研究室は真っ暗になっていた。頭上から降り注ぐ月明かりは妙な静けさを伴っていた。そして――火花が消えた。
「終わったのか」と眞人は呟いた。「失敗なのか?」
その言葉は本心からの絶望を伴っていた。それに、本当はこの厳粛な光景を前に、語を失っていたはずなのだが、なぜか自然と口を突いて出たのだ。言ってしまった後で、胸の奥が痛んだような気がした。これはなんだ? 深い同情の念。心から、哀れむ気持ち――。
その時、一カメ、二カメ、三カメに切り替わりながら、釜が爆発四散した。
一カメ。バコーン。「うわあっ⁉ なんだ」
二カメ。バコーン。「うわあっ⁉ なんだ」
三カメ。バコーン(ちょっと寄り)。「うわあっ⁉ なんだ」
一カメ。バコーン。「うわあっ⁉ なんだ⁉」眞人は身構えて、飛散する釜の破片から身を守ろうとした。だが、尖った小片のようなものは飛んでこなかった。釜は砕け散ったのだが、どちらかというと自壊したような形で、その場に崩れ落ちていったのだ。
イドが指を鳴らすと、研究室の灯りが再び点いた。白色灯と、床近くにあるオレンジがかった間接照明が、瞬く間に部屋を照らし出した。彼女は小走りで部屋の中心に近づいていく。重い霧のようなものが漂っていて、イドはぱたぱたとバインダーを振ってそれを掻き分けた。
湯に濡れて、溶けた灰の上に倒れていたのは、女の裸体だった。
眞人は気難しそうに顔をしかめた。女の荒れた長髪は水に濡れて床や額に張り付き、その肉付きがはっきりと目に見える。盗み見るのは嫌いだ。だから目を逸らしたかったが――、なぜか、それができなかった。
霧は晴れるどころか濃くなっていた。
「イド」眞人はこわごわとした声で言った。
だが、それに答える声はなかった。儀式はまだ終わっていなかったのだ。
烈しい上昇気流が起こった。眞人は突き飛ばされたようにころび、四つん這いになって耐えた。霧が渦を巻きながら、イドと支岼を囲み、細長い柱を作りだしていく。「イド」眞人は叫んだ。「儀式は中止だ!」
風に倒れそうになりながら、眞人は右腕を振り上げた。強力なエネルギーが発生し、眞人の周囲一メートルからは、風も霧も消えた。その掌には真っ赤な輝きが灯っている。「この世の主が命じる」眞人は堂々と、真の征服者のように告げた。赤い光はどんどん強くなり、研究室の床にはひびが入った。硝子が割れ、灯りが落ちていく。「ただちにその動きを停止――」
その瞬間、霧の柱から何かが飛来した。なんらの抵抗も予想していなかった眞人は、面食らって固まってしまう。――ガチャン。
見れば、彼の右手首に、黒く輝く鉄の輪が嵌っていた。それを訝しがるのも束の間、異常な重みを感じ、彼は右腕を降ろした。いや、降ろしただけではない。いまや手錠は中身の詰まった金庫のように重く、ただ立っていることもできそうにない。彼はうめき声をあげながら、手首を床につけ、跪いた。赤い光が弱まって消えていく。
再び霧が濃くなった。心臓が痛いくらい鼓動し、息が荒くなる。手首に巻き付いたそれを外そうと、指で掻き、突破口を探した。だが、それはぴったりとくっついていて、隙間が無い。鍵穴らしきものも無い。破壊を象徴する、あの赤い光が出せない。嫌な予感がした。
眞人はぞくりと身を震わせた。なんだ――、今の音は?
ゴロゴロという雷鳴に似た音。そのもっとも低い部分の音が、粘着質にくぐもっているようだ。神経が張り詰め、眞人は目を見開いたまま、霧の柱を見つめた。霧でできた壁の向こうに。
眞人はヒッと声を上げて尻餅をついた。目だ。
巨大な目。
霧が弾け飛び、それが衝撃波となって部屋を席巻した。あらゆる器具が、書類の束が、材料の山がばらばらに吹き飛ばされ、照明はたたき割られ、すべて地面にころがった。眞人は一瞬、宙に浮き、ごろごろと転がって部屋の柱に体を打ち付けた。
暗闇の中に見えた。黄土色の七つの眼が。西瓜よりも大きな目が七つ。
磨きぬかれた象牙のような牙が。そして腐臭にも似た、甘ったるいにおいが。
眞人はソファから落ちた。
まだ心臓がどくどくと鳴っていた。どうなった? なにがあった?
夢だ。そうだ、夢だった。おれは起きたんだ。
カウンセリング室には誰もいなかった。扉は開けられていて、養護教諭がそこから眞人の様子を見れるようだった。彼女は慌てた様子で入ってくると、「顔色が悪いよ」と指摘した。「大丈夫? ちょっと熱を計ったほうがいいかもね」
「そんな」眞人はつぶやいた。「うそだ。なにかの間違いだ」
「朝戸くん?」
眞人は保健室を飛び出すと、廊下を走った。言い知れない不安、恐怖が、いまにも彼を捕えて食い殺す。彼は走って、校庭に出た。ちょうど彼のクラスが体育の授業で1000m走をやっているところだった。体育教師は、いつのまにか制服で授業に加わっている眞人を見て目を丸くした。
1000m走り切った後、眞人はふらふらになってしばらく歩き、嗚咽を上げながら四つん這いになって、小さく丸くなった。全身汗だくで、シャツはインナーが透けていた。肺が冷たい空気のせいで血を流している気がした。頭がガンガンと痛く、わき腹の奥では脾臓が雑巾のように絞られていて、ふくらはぎはぱんぱんに張っていた。
「朝戸、頼むから無理してくれるな」体育教師の岡村は彼の傍にしゃがみ込んでいった。「こんなことでおまえが怪我でもしたら、親御さんになんて言えばいいんだ」
「大丈夫」と彼は息と息の間で、もうろうとしながら言った。「大丈夫なんです。もうすぐ、もうすぐで……」
儀式は失敗した。
イドは死んだのか?
移住計画は? おれの人生は? これからどうすればいい? ああ、なんで素直にアイリスを頼らなかったんだ……。
うずくまりながらふと右手首を見て、強烈な不安が沸き起こった。
昨日まではなかったと断言できる、奇妙な形の痣が浮き上がっている。どこかで打った記憶は無いが、しかし、身に覚えのない怪我ということもありえるだろう。それが手首を一周する鎖の形に見えなければ、そう納得もできたのだが。
眞人はヒーローのように扱われた。急に保健室から飛び出して来て、1000mを完走したのだから、そんな人間がおもしろくないわけがない。男子も女子も彼に群がって、口々に賞賛と、それからすこしばかりの嫉妬さえ入り混じった挨拶をした。眞人はこれっぽっちもおもしろくなかった。笑顔を見せる余裕さえなかったが、そんなになってまで走り切ったのだということが、むしろクラスメイトにはうけた。
眞人がクラブハウスの手前に設けられているベンチに腰かけているうちに、岡村先生は全隊整列させて、授業を終了する旨を告げた。
眞人は息を整えながら、ようやく冬の寒さが堪えはじめてぶるぶると震えた。安庭李花と目が合って、彼女はにやにやと見返してきた。視線をさらに横へ向けると、鳴神支岼がいた。
視線が交わったそのとき、眞人は警察に見られた罪人のように顔を背けた。
彼女の眼はあれと同じだ。
クラブハウスは授業中の更衣室でもあった。休み時間を告げるチャイムの前に、男子も女子もほとんど着替えを終えて、ぞろぞろと校舎に帰っていく。眞人もそれに混じって教室に戻った。みんなの中にいるときは、すくなくとも、意思決定をする必要はない。
眞人は積極的に忘れることにした。つまり――何が起こったのか、について。結局のところ、それは彼の夢の話。夢の主が眞人である以上、彼が不動の心を持ってさえいれば、何者も彼の領分を侵すことはできないのだ。もしイドが死んでしまったのだとしても、彼女を作り直すのは容易である。
謎の手錠など怖くはない。あの――怪物もだ。
支配者はおれだ。
長年かけて培われてきた彼の自尊心は、すぐに彼を恐怖のどん底から救った。夢世で危険な目に遭うたびに、いつも見事解決してきたのだ。まあ、今まではアイリスの手伝いもあったが……というかほとんどアイリスの手柄だったが――もうおれも17歳だ、大人とそう変わらない。彼女がいなくてもなんとかしてみせる。やり方はわかってるんだ。
それからは、眞人はいつも通りの一日を過ごした。クラスメイトも、彼におかしなところがあるとはまったく思わなかった。いつも通り、陽気で、物腰が柔らかで、大人びた、尊敬できる人物。唯一、珍しかったのは、彼が四時間目の後も居眠りをしないことだった。
怪物を倒すことなど造作もない。イドを救い出すのも簡単だ。問題は、それらを片付けた後、いったいどうやって憂さ晴らしをするか、だ。
今回の失敗は、期待が強かっただけにショックも大きい。その責任を取るべきなのはイドだ、彼女ができると言ったのだから。となると、なにか凄惨な罰ゲームを受けてもらわなければ。眞人は妄想を巡らせて英気を養った。それが済んだら、もう何もかもを忘れよう。とにかく、失敗であっても、不思議なことが起こったのは事実。アイリスの魔術を中心に研究を進めさせて、万全を期して移住を完遂すればいい。
自分のアパートに帰ってきた彼は、制服を脱ぐと、そのままバイトに向かった。コンビニで愛想よく接客すること数時間、常連のクラスメイトに絡まれながらも、「朝戸くんがシフトに入ってると売り上げがいいんだよねえ」という店長の感心したようなつぶやきが示すとおり、彼はまったくパフォーマンスを落とさなかった。
二度目の帰宅で、ようやく現世での面倒なタスクがすべて消化されきった。ちょうど肉体的疲労も限界である。日を跨がないうちに、腿裏の筋肉が引きつるような痛みを訴え始めていた。
彼は気合を入れて睡眠の準備を始めた。まず、サブスクで届く完全栄養食のパンを無心で食う。ここに楽しさもつらさもない。そして蛋白源の茹でブロッコリーを摘まみながら、学校の提出課題を黙々と済ませる。その後、徹底的に部屋を掃除。床に髪の毛が一本でも落ちているのを見てしまうと、やけに気になって眠りづらいのだ。浴槽にお湯を溜めているうちに、冷蔵庫から板チョコを取り出し、ぼりぼりと食う。眠気を誘う食はこれで完璧となった。パンが消化され切ったと感じるころに、タイミングよく入浴。上がった後は髪は丁寧に乾かし、歯は綺麗に磨いて、マウスウォッシュまでする。スキンケアも忘れない――冬は入浴後、肌がすこし張るのだが、これが気になるのだ。そして、ベッドと学習机のほかにほとんど何も無い居室で、異彩を放つ二つの道具を、満を持して取り出す。ひとつはアロマディフューザー。使うアロマは『ムーンライト・ブレンド』だ。そしてもうひとつはタオル蒸し器である。電子レンジを使っていたころもあったが、どれだけ絞ってもべちゃべちゃになってしまうので、何年も前からタオル蒸し器を愛用していた。
ベッドに横たわり、荷重ブランケットの心地よい重みを感じながら、できあがった蒸しタオルを目の上に置く。じんわりと優しい温かさが目蓋に浸透し、目の奥をほぐしていくのを感じながら、静かに、ゆったりと呼吸する。アロマの匂いもたちこめてきて、少しずつ、肉体が重力から解放されていくような、穏やかな無感覚が近づいていくる。完全に忘我の域に達する寸前に、彼は蒸しタオルを目から外して、ジップロックに放り込み、部屋の隅に投げ捨てた。もう眠いから部屋の汚さとかはどうでもいいのだ。それよりも、時間の経ったタオルから雑巾臭がしてくるほうがよくない。
何かが考えられている。はっと彼はそれに気づいて一瞬覚醒し、そしてまた思考の淵に落ちていく。推測は飛躍し、妄想は独り歩きを始める。言葉が消え、そして頭蓋という檻が――砕けた。
その瞬間、常人の達しえない特異点を越え、彼の精神は広大な世界の中へ投げ込まれるのである。
宮殿の上空で眞人は眠りに落ちていた。彼自身がそう望んだのだ。まずは、あの怪物がどこにいるのかを確認する必要がある。
ぐんッと右手が重くなった。手錠がまだ嵌っている――。くそ、いったいなんなんだ、これは。眞人はちっと舌打ちをしてから、左手の人差し指と親指で環を作って、宮殿をその中に収めた。
宮殿は、広大な平原の中心に建てられていた。北側には蒼く霞む山脈が、西側には鬱蒼とした森が、南にはどこまでも続く海が、そして東には島嶼がある。やや丘になった部分に設けられた宮殿は、楕円型の壁で囲われており、いわば『上の中心』に位置している。壁内のほかの部分は城下町でできていて、そこでは眞人が今まで作ってきた、たくさんのキャラクターたちが生活しているのだった。
「――なんだ?」
宮殿から、黒い煙のようなものが噴き出していた。それは丘を下って、城下町の路地に充満しようとしている。怪物は――まだ宮殿の中にいるようだ。眞人は左手の指を解き、掌を掲げた。青い光がその肌を這う。
すると、城下町を二分する巨大な壁が地面から生えてきた。今まさに煙に呑まれようとしていた手足の生えた壁掛け時計が、間一髪で仲間の目覚まし時計に助け起こされていた。
「ああ、眞人くんっ! 眞人くんだっ!」目覚まし時計が叫んだ。
壁掛け時計はコチコチ鳴った。
「カベカケ、メザマシ」眞人は右手を庇いながら、ゆっくりと城下の石畳に降り立った。
「眞人くん、大変だ。煙の中にジョンが……」
カベカケはコチコチ鳴った。するとメザマシが。「ええ、なんだって?」
「なんて言ってる?」
「ジョンが……」メザマシはジリジリ震えた。「か、彼が煙の中で……消えるのを見たって」
「消えた⁉」眞人は驚愕した。
ジョンはメザマシ・カベカケ同様、まだ夢世の力に眞人が慣れていなかったころ、手当たり次第に身近なものに人格を与えて楽しんでいたころの友人だ。ジョンは白い犬のぬいぐるみで、当然のことながら、ただの時計よりもよっぽど愛着を持って接してきた(喋る犬のぬいぐるみを、贔屓しないでいられる人間がいるだろうか?)。あまりにも付き合いが長いので、眞人でさえ、もはや彼らを消去することはできない。無意識がそれを拒絶するのだ。
「眞人くん、上だ!」メザマシがジリリンと鳴った。
彼が指さした方を見ると、黒い煙が壁を越えかかっていた。「まずい!」眞人の大声と同時に、まるで濁流が押し寄せるように、物凄い勢いで煙が落下してくるのが見えた。「逃げろ! 森だ! 森へ行くんだ!」
周囲で立ちすくんでいた住民たちが、南へ向かって一斉に走り出した。眞人は左手を構えた――その瞬間、ぐんと右手が重くなり、照準がずれる。煙を覆うように作られるはずだった壁が、歪な斜めになって形成され、空中に延びていった。眞人は歯噛みした。今のおれの想像力では、こんな物体は立つことができない!
天高く生えた石の構造物は、バキンッと大きな溝を作って割れた。そして、まるで巨大戦艦が墜落してきたかのような大きな影となって、城下町に落下してくる。ゆっくりに見えるが、その先端速度はすさまじく速い。建物がへし折れる嫌な音とともに、強い風が吹いた。
「煙が来るぞ――」誰かが叫んだ。
眞人は空中へ浮こうとしたが、手錠の重みのせいで上手く飛び出せなかった。「くそ、物理法則め!」眞人は義務教育に怒りを滲ませながら、地面にころがった。
「眞人くん!」メザマシが引き返してくる。
「ばかやろう、来るな!」
「きみを置いていけるもんか!」
煙はすぐそこまで来ていた。眞人は手錠を地面に引きずりながらメザマシの方へ歩く。メザマシとカベカケが駆け寄ってきて、眞人に肩を貸した。だが、もう煙は三人を呑み込もうとしていた。逃げられない――。
「くそっ!」
眞人は大きな声でそう言うと、左手を地面に向けた。
数分後、黒く染まった城下町では、もう誰の声もしなかった。
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