ドロシー・カプラン
アンナはにへらと笑って無事を装ったが、SOSのサインにしか見えなかった。階段を駆け下りてきたのは小麦色の肌をした女性で、パーカーにホットパンツという、寒いんだか暑いんだかひと目ではわからない格好だ。栗色のよく跳ねる毛はヘッドバンドで乱暴に押さえつけてあり、パス・スペーシーズの社員と言うよりは、ジョギング中にたまたま迷い込んできただけに見える。彼女はらんらんと輝いた黄土色の目でじっとアンナを見つめ、眉をハの字にして肩をゆさぶった。「平気? 立てる?」
「今、どんどん立てなくなってる」
女性はアンナに肩を貸そうとした。「ごめんだけど、誰か助けを呼んでくれる?」とアンナは囁いて拒絶した。「歩けそうにないの。地下二階に行かなきゃならないんだけど」
「わお、偶然!」女性はまた体をゆすった。「わたしもなの。もしかしてENE案件?」
アンナはうんと言いかけて、守秘義務を思い出して口をつぐんだ。もしも鎌かけだったら――ということは、彼女は企業スパイだが――洒落にならないかもしれない。具体的にどんな被害が発生するのか彼女は知らなかったが、黙っておくことが不幸を退けるなら、彼女は黙っているつもりだった。しかし女性は、すでにアンナが頷いたものだということにして、勝手に話を進めていた。「わたし、ドロシー・カプラン。ゲーム開発部のアクター! よろしくね」
「アクター?」アンナは目を細めた。「どうしてアクターが……」
それ以上言葉を続けることはできなかった。歩くことはできない、という彼女自身の告白を一種の要求ととらえたドロシーは、アンナを担ぎ上げてしまったのだ。彼女はその浮遊感に言葉も出なかった。「わあ、軽い。40キロくらいじゃない?」
「39キロ……」
「惜しいッ! あと1キロか」
宣言通りまったく重みを感じていないようで、ドロシーは等速で降りていった。アンナが細腕だと思ったその二の腕は、アンナの背中と太腿の下でたくましく盛り上がっており、控えめながらも強靭な筋肉の存在をうかがわせた。
地下一階はただの防火扉だったが、地下二階の扉にはカードリーダーがあった。これでは有事の際、カードが無ければ出ることもできないのではと、アンナは脳裏によぎったが――さすがに内側からはフリーで開けられるだろう。
それにしても、両手がふさがっているのに、どうやって開けるのだろうか。アンナが不審に思いながらも自己の利益のために黙っていると、ドロシーはまったくの予想外の行動に出た。その場で片足立ちしたのである。「ちょっと失礼」と彼女は言って、上げたのとは反対の腿につま先をやって、パンツのポケットから薄汚れたカードキーを、足の親指と人差し指で摘まみ上げた。アンナはそれを見てぎょっとすると同時に、なぜか感動のようなものを覚えていた。
ピピッ――カシャン。足先だけでカードを通してしまうと、彼女はちょっともバランスを崩しそうな気配を見せないまま再び膝を曲げ、抱えられているアンナの胸元にカードを置いた。それはまるで、動物園で象に林檎の芯を渡されたような感じだった――「ちょっと預かっててくれる? ほら、いま手がふさがってるから」
何が、ほら、なのだろうか。彼女なら足だけでなんでもできてしまうだろうに、とアンナは思った。朝食も足で食べながら手は端末を操作できるし、足でキーを打ちながら手は空間コンポーネントを操作できる。なんて羨ましいんだ。
足で引いて扉を開け、抱えられたまま、アンナは地下二階のブースに入っていった。コンクリートの壁は真っ白なタイル張りに変わり、まるで疾病予防センターの通路のようだとアンナは思った。本物を見たことはないが、たぶんこんな風だろう。
突き当りに扉が一枚あった。カードリーダーの代わりに、監視カメラが天井の隅を占めていた。虚ろな機械の瞳――そんなものに晒されるのは、アンナは不快だった。
壁の中で鎖と歯車が絡み合うような重い音が鳴りはじめた。ガコン、と巨人の間接が外れたような音ともに、意外なほどスムーズな速度で、扉は左右に開いた。その分厚さは少なくとも30センチはあり、堅牢さはアンナをますます不安にさせた。
「遅かったじゃないか」と厳しい声が届いた。一瞬、グラハムを連想するような声色だが――それよりももっと硬質で、線が細い。
部屋は、正方形の溝が入った壁に四方を覆われていた。それぞれのつなぎ目には円筒型の奇妙な部品が差し込んであるようだが、装飾なのか実用なのかは、アンナにはわからなかった。強いて言うなら、装飾としては機能が弱すぎるので、実用なのではなかろうか、というのが彼女の考えだった。
中央には八人掛けの円卓が置かれている。パス・スペーシーズの平均的な会議室のインテリアだった。いま、一人の男性がその傍らに立っていて、ふたりを冷たい視線で睨んでいた。金色の髪をジェルで撫でつけてあり、つやつやと照明に反射している。ドロシーは軽く重心を片足に置いた。
「わざわざモントリオールからモトで来たのに、第一声がそれ?」
「きみじゃない。その……巨大な赤ん坊のことだ」
アンナは急に暴れ出した。ドロシーは「どー、どー」となだめながら、ゆっくりと彼女を立たせてあげた。しかし、ほんの数分休んだだけでは脚は回復せず、アンナはドロシーにもたれかかった。少なくとも、赤ん坊と母親から、仲のいい女友達くらいには進歩した見た目になったはずだ。
ドロシーはアンナの肩を優しく抱いた。「大人の女性を赤ん坊呼ばわりはないんじゃない?」
「失礼。では、その契約不履行者に言ったのだと、訂正させてくれたまえ」
「契約不履行?」アンナは茫然と繰り返した。
「きみは三日前にここにいるはずだった。違うか?」
アンナは額に手を当てた。額は炎のように熱く、指先は氷のように冷たい。「わたしがどこにいるはずか、どうしてあなたに……言えるんですか?」
「なぜなら、契約書にそう書いてあるからだ」
「その紙きれが、一度でもわたしを呼びに来ましたか? どうしてインクに書いてある文字がわたしの場所を決めるんですか?」
その一種稚拙ともいえる論理を真顔で言っているアンナに、男は絶句した表情を向けた。「社会だからだ」と彼は絞り出して言った。「それが……契約というものだ!」
「ターナー氏は、わたしが嫌だと思うなら、心の準備ができるまで家で待機していいと――」
「彼の話をするな!」男は遮って言った。「あの男は、自分の仕事のためにルールを捩じ曲げる不穏分子だ。いいかね、心の準備ができるまでどこに居ようが、わたしだってかまわない。だが、契約書に書かれた日時には、きみはこの部屋で、わたしの前に座っていなければならない!」彼はぶるぶると頭を振った。「それに、三日も立て籠もっていいなんて、彼だって言わなかったはずだ!」
「彼は心の準備ができるまで居ていいと言ったんです」アンナは断固として譲らなかった。
「それは社交辞令というものだ。せいぜい三十分で支度を済ませておくべきで――」
「はい、ストップ」ドロシーが手を叩いた。「頑固者がふたり。これじゃ宇宙が終わっても永遠に怒鳴り合ってるわね。そんなことに命を燃焼する前に、自己紹介すべきなんじゃない?」
「アンナ・クロツカヤにドロシー・F・カプラン、言われなくとも知ってる」
「AND YOU?」ドロシーは掌を差し出した。
「……ダニエル・ターナーだ!」彼は頬を引きつらせた。「そのくらい、言われなくとも知っているべきだ」
「ターナー?」アンナは顔を上げた。「あなた、グラハムの弟なの?」
「兄だ!」ダニエルは額に青筋を浮かべて、握りこぶしを振り回した。「わたしが! どうしてみなヤツを兄だと思う? わたしが兄で、彼が弟だ!」
アンナは困惑した。ダニエルがグラハムより精神的に未熟だから弟だと思ったまでのことで、他意はないのだ――。しかし、それを言ってしまうと、彼を慰めるどころか、深く傷つけることになりそうだと、アンナでもわかった。彼女は口をつぐんで、ドロシーと気まずげな視線を通わせた。
ダニエル・ターナーは一瞬で息が上がったようで――なぜか服も乱れていた――部屋の中央に据えられた円卓の一席に腰かけた。「座りたまえ」
そう言われる前に、すでに二人とも座っていた。ダニエルは目頭を揉み込んでいたので気がつかなかったらしい。
「アンナ・クロツカヤ。空間クリエイター。『ドレッドヒル・サイバーシティ43番地』、『ハビタブル・クオ』、『ロバート・メイヤーズ記念館』のVR素材構築、『ユニオン・スカイ』の設計協力――フン、仕事の能力はあるらしい」ダニエルは机に投げ出されていた紙資料を見つめながら言った。その資料はくたびれていて、ところどころ折れ曲がっていた。
「アンナって、そんなにすごいひとだったの⁉」ドロシーが目を丸くしてアンナを見つめた。「わたし、よく43番地は行くよ! 公園のケツァルコアトル像で待ち合わせするんだ」
アンナはこくりと頷いた。
「で……」ダニエルはぺらりと捲った。「ドロシー・フィリス・カプラン。……『サムライ・デッド・ビート3』で主人公のモーション収録? フン、ここに来たのはなにかの間違いのようだな。帰りたまえ」
「はあ――⁉ そりゃないでしょ? わたしはあなたのお兄さん直々に――」
「弟だ!」
ドロシーは続けた。「直々にスカウトされたんだよ? 有休でこっちに来てるんだから。冗談にしてもたちが悪いって!」
「冗談なものか。今現在、ここはENEの最高機密を扱う会場だ。BMIの才能を示していない一般人が足を踏み入れて、観光気分で出入りされては困るのだよ。チームにも士気というものがあるからな」
「今まさに駄々下がりだよ、リトル・ビッグ・ブラザー」
「きみはチームではない。カードキーはそこに置いていきたまえ。違約金は両日中にこちらが払う――適当な金額をな。初めからここに来なかったのだと思えば、ちょっとした旅行気分になれるだろう?」
ドロシーは目を見開き、口をぱくぱくさせ、そして顔を真っ赤にしてカードキーを叩きつけた。思いっきり、割れても構いやしないと思って。なんの音もならなかった。ポケットに入っていなかったのだ。慌てて体をまさぐり、そしてふと思い出してアンナの方を見た。アンナはさっとカードキーを胸の中に抱いて小さくなった。「ドロシーさんを追い出すなんてわたしが許しません」
「貴様になんの権限があって――」
「わたしが今ここで見た、あなたのしたことを、グラハムに報告しますよ」
アンナは的確に急所を突いたようだった。ダニエルは強気に言い返そうと身を乗り出し、それから怒りの表情のままゆっくり口を閉じ、椅子に座り直した。「だからなんだというんだ?」そういう彼の声はひどく落ち着いていた。
「それはあなたが考えればいいのではないでしょうか。とにかく、ミス・カプランはチームです。最初の予定通り。それで構いませんね?」
なぜだかはっきりはしないのだが、もうそれで構わないようだった。ダニエルは「好きにすればいい」と低い声で言った。
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使い捨ての脳 うやまゆう @uyama_yuh
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