外出拒否

 発覚したある事実によって、数日中に事態は二転三転した。アンナは「この仕事から降ろして」とターナーに懇願しつづけ、ターナーは十回に一回くらいしかその連絡には応じなかった。「アニー、きみにこの番号を教えているのは、暇な時に話し相手になるためじゃないんだ」なん十回目かに、ようやく彼は苛立ったような声色になった。「私は忙しい! 無駄なことで連絡してくるなら、きみの連絡先を削除するぞ」

「でも、ターナーさん。こんなの裏切りです。わたしのことを知ってるでしょう。お願いです、今からでも、誰か他の人に……」

「わたしは多様性などという都合のいい言い訳で、きみの欠点を受容するつもりはない。ミス・クロツカヤ、きみが自立した大人であるなら、さっさと家を出て、表に待たせているバンに乗りたまえ!」

 意味不明な唸り声を上げて、アンナは電話を切った。

 ENEの新型は、ターナーが所属する企業・パス・スペーシーズの本社にしかない――保安義務によってそこから外に出すことができないのだ。アンナはきっと、ターナーがうまく話をつけてくれるのだと思っていた。話をつけるのが彼の仕事だ。だが、ターナーが厳しい仕事人であるという事実が、ときどきアンナの甘い幻想を打ち砕いてくる。

 アンナは外出を病的に嫌悪していた。そうでなければ、誰がユニオン・スカイの52階なんていう、空の孤島に定住するだろうか?

 ターナーの言い分には一理あった。アンナの外出嫌悪は病的ではあるものの、実際に病気ではない。単に経験不足によるものだ。積極的経験不足、とでもいうべきだろうか。元来、外に出ることはそれほど好きではなかった彼女だが、空間創成でひと財産ふた財産を築き、ユニオン・スカイという孤城を手に入れた。それ以来、些細な用事もすべてデリバリーサービスに頼るようになり、ついには外の世界がどんなふうなのかということを忘却するまでに至ったのだ。自分の生まれ故郷であるはずの世界が、今では未知の魔境だった。

 外に出る、なんてことが現実的であるはずがない。

 アンナはターナーのコンプライアンス違反を指摘し、表にバンを待たせたまま三日間粘った。自分が空間創成技術の未来を守るのだという熱い気持ちのことなど、まったく忘れ去っていた――はっきり言って、どうでもいいことだ――問題は、いまこの瞬間に生きるわたしが、どのようにしてここに居続けるか、ということであって――。

 しかし、ターナーに態度を改めさせるためとはいえ、彼の倫理観を攻撃したのはよくなかった。反撃の口実を与えてしまったのだ。

 四日目の早朝、彼女の家を尋ねてきたのはニューヨーク市警だった。「ミス・クロツカヤ?」そのブロンドヘアの女性警部は、インターホン越しに淡々と言った。「あなたがダークウェブを通じて麻薬の売買をおこなっているという通報が。何かの間違いだとは思いますが――お話が聞きたいので、署までご同行願えますか?」

「無理です」

 ターナーの仕掛けであることは見え透いていた。こんなことのために俳優を雇って、結構なことね――。警察手帳も用意してあり、アンナは呆れてしまった。偽造は立派な犯罪だ。これを指摘すればターナーの立場の方が危うくなる――おおかた、雇われた側が気を利かせて作ったのだろうが、大きなお世話だと気がついていないのだろう。アンナは慈悲心を発揮して、このことは黙っておいてあげようと思った。

 家に入るのは無理だとしても、せめて同じビルの中にある喫茶店でならお話しできませんか、という丁重な申し入れに対しても、アンナはNOと言い続けた。しまいには、「令状はありますか? 無いなら帰ってください」とまで言い放った。なんと毅然な態度を貫けたことだろうか。わたしの方が女優に向いてるかもね。

 これが、経験豊富な警部の勘に黄色信号を点灯させた。警部はその日のうちに再訪した――十人の屈強なチームを従え、しかも捜査令状を用意して。彼女ほどの人物になると、懇意の裁判所というものがあって、半日もあれば令状を発効できるのだった。演技だとしても、ここまでくると悪質だと思ったアンナは、改めて警察手帳の提示を求め、当該人物が在籍しているかどうかを本庁に問い合わせた。居た。

 ここまで来て捜査協力を拒むと本当に犯罪になってしまうので、アンナは捜査を受け入れるしかなかった。

 数年ぶりに乗ったエレベーターで彼女は気分が悪くなり、中層ラウンジで本当に吐いてしまった。その吐瀉物が採取されているのを見て、アンナは余計気分が悪くなった。

 地階のロビーに辿りついたとき、アンナはまるで、初めてそこに立ったような気がした。磨きぬかれたマーブル模様の大理石の床に、ビザンチン様式の柱が等間隔に並んでいる。ソファや観葉植物などの調度品が適度に配置されていて、壁にはモネの『散歩、日傘をさす女性』や『サンラザール駅』『ラ・グルヌイエール』などが掲げられている。居住者とその訪問者しか目にしないのに、まるで老舗ホテルのように整理されていた。首を上げてみるとドーム状の窪みがあって、円筒形の壁タンブールギャラリーからは、本物の空かと見まごうような青い光が差し込んでいた。

 それを見るだけで、アンナはくらりとした。自然ほど彼女にダメージを与えるものはない。

 玄関扉は重厚な鉄扉に閉ざされており、緊急時に手動で開けるためのハンドルのほかには何もない、のっぺりとした見た目だった。警部はそれを見て「フン」と鼻を鳴らし、アンナは恥ずかしくて顔を真っ赤にした。馬鹿にされている気がしたのだ。そのとき、受付部分で待機している管理者のひとりと目が合い、アンナは精いっぱい睨みつけた。目蓋の筋肉が弱っていて眼を細めているだけのようにしか見えないのだが、管理人に意図は伝わったようで、彼は気まずげに目を逸らした。

 扉が開いた。

 来訪者エントランスの向こうに本物の空があった。そして本物の大気が。UVカットされていない本物の光が。

 ああ、日焼け止めを塗ってない――。しかし今さら、そんなことを言い出せなかった。


 クィーンズのポリス・ステーションでたっぷりと取り調べされた後、自宅から麻薬に関するなんの痕跡も見つからなかったことで、彼女は無罪放免となった。当然だ、はなから事実無根なのだから。警部があまりにも真剣に陳謝してくるので、アンナは怒る気も失くしてしまった。とにかく、もうすでに一週間分は疲れていた。なにか小さな箱の中に入ってじっとしたい気分だった。

 ステーションを出ると、そこには銀色のバンが停まっていた。車体には赤色のないNASAのマークにも似た、パス・スペーシーズのロゴがプリントされていた。

 アンナはどんよりとした気持ちでそれに乗り込んだ。

 あまりにも用意周到なので、アンナはされるがままになった。バンの中にはなぜか陽気なスタイリストが居て、アンナの受けた仕打ちに深い同情を示し(「グラハム・ターナーにやられたんでしょう? つらかったわね。彼ってばいつも強引だものね。誰に対してもそうなのよ。わたしもこの間……」)、それから、彼女の肌の状態に苦言を呈して、聞いたことも無いようなクリームと粉をたくさん彼女に塗り付けた。そしてアンナのファッションセンスをひとしきり褒めた後で、まったく異なる服を最後部座席から引っ張り出し、脱いだり着たりを繰り替えさせた。気がつくと、アンナは白い無地のパーカーに、パンツルックで、底の厚いスニーカーを履いていた。伸び放題だった深い色のブルネットは器用に編みこまれて、ローシニヨンにされた。手鏡越しに「あなたって本当に最高のフォトモデルになれるわ。よかったらうちのスタジオに来てくれない? いまティーン向けのウェブモックを作ってて……」と言われたが、アンナは自分に何が起こっているのか最後まで理解できず、それゆえお世辞に対してもなんの反応もできなかった。車酔いがひどくでそれどころではなかったのだ。

 パス・スペーシーズ本社はDUMBO――マンハッタン橋高架下――のウォーターストリートに面していた。自らの目を通して、この建物を直接見上げることになるとは――アンナには思ってもみなかったことだった。伝統的な赤煉瓦の建物に挟まれて立つ、真っ白な壁。フレームの無いガラスウォールが淡々と積み重なっているさまを見れば、この建物から世界有数のVRコンテンツが配信されているというのも納得のいく話に思える。

 バンを降ろされたアンナは、かごから摘まみだされた虫のように、暗がりを求めてビルのなかにもぐりこんだ。数年ぶりに嗅ぐ排気ガスのにおいはひどく不快だった。

 エントランスで出迎えてくれたのはロボットだった。人間を模した上半身に、車輪の付いた胴体。現代版ケンタウロスだ。彼は低い声で身分証の提示を求めてきた。アンナは一瞬焦ったが、何気なくポケットをまさぐってみると、スタイリストが忍び込ませていたカードを見つけた。ロボットはそれを読み込むと、通行を許可してくれたばかりか、リストバンドを差し出してくれた。「初出社、おめでとうございます。これから共に頑張りましょう」どうやら出社一日目の若者を元気づけるもののようだ。

 だが、リストバンドは便利な代物だった。自分が次にどこへ行くべきか、画面に表示されるのだ。グラハム・ターナーの権限において表示されていたその文言は、「地下二階へ行け」というものだった。

 エレベーターはうんざりだったので、地下へは歩いて向かった。なぜ、それが可能だと思ったのか――。

 彼女は地下へ向かう踊り場で立ち往生することになった。脛が痛くてこれ以上歩けない。

 こんなところに居て、誰か助けに来てくれるのかしら? 恐ろしい想像だったが、もうあまり怖いとは思わなかった。当然の末路のような気がする。やはり、外に出たのが間違いだったのだ。これはその罰に違いない。

 埃のたまっているコンクリートの隅に座り込み、LEDの白い瞬きに目を細めながら、彼女はおのれの運命を待った。

「――うわっ、死んでる⁉」

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