アンナ・クロツカヤ

 仮想空間にタヴーはない。侵されざる領土はなく、したがってルール無用であり、そこから得られる物の価値にまだ普遍的な合意はない。人々はまだその世界を見つけたばかりなので、宝石と泥岩の区別もつかないのだ。だからこそ、どんなものでも美しく見えた。

 アンナ・クロツカヤはプロの空間クリエイターだった。よく粘土遊びに例えられることもあるが、決して簡単な仕事ではない。世の中には、すべての基礎となる"空間コンポーネント"を、まず認識すらできない人間がいる。認識にはある種の――スポーツに用いられるものとはまったく違う、むしろ被暗示性に近いが、まず間違いなく運動野と関連している才能――が必要なのだ。にもかかわらず、その才能は、偉大なる道の第一歩目にすぎない。粘土遊びで言うなら、ただ粘土を掴んだだけの状態だ。

 それから、粘土を広げる操作、粘土を分割する操作、そして粘土を追加する操作を学ばなければならない。そして粘土を成形する操作、粘土に色を付ける操作、粘土のテクスチャを変更する操作……学ばなければならないことは無数にある。すべての操作が仮想パネルと仮想ボタンで管理されていた時代もあったが、それでは遅すぎる上に、現代のVRシーンでは主流の〈臨場感〉を充分に付加できないという問題があった。

 アンナは〈臨場感〉の付加が苦手だった。というよりも、めちゃくちゃだった。集中力が足りないわけではないのだが、消費者向けの思考ができないのだ。とはいえ、それが問題だったのは仕事を始めて一年目のころだけだった。それを過ぎると、彼女の実力は〈臨場感〉を抜きにして求められるようになっていたのだ。

「ファサードが与える畏怖の印象は抑えるべきだと思います」彼女は言った。「内部空間での神秘体験が、最終的に入り口を出口に変える――そのときに初めて、人は振り返ってファサードを見上げるでしょう。そこにあるべきなのは、震えるような興奮ではなく、どちらかというと静謐な覚悟であるべきです」

 パス・スペーシーズPS社のVR会議室は宇宙の中に浮かんでいた。壁の無い空間はどこまでも続く夜空そのものであり、会議者たちが囲んでいる机のはるか直下には、実際の衛星映像が投影された地球が存在している。その蒼白い輝きに下から照らされた彼らは、現実離れしたゴーストのように見えた。案件管理者のグラハム・ターナーは、実際よりも十歳は若い見た目をしていただけに、まるで彼自身の肖像画が独りでに額縁を抜け出して来たかのようだ。

「聞き分けてくれ、アニー」とターナーは目頭を揉み込んだ。つぶやきのような声色であっても、アンナの耳元には、そのバリトンボイスがしっかりと届いた。「〈聖電使節協会〉の望みは、を取り込むことだ。きみの頭の中にある、完璧な教会を作ることじゃない。すでにチームは動き出してる、いまさらきみの要望を通す余地はないんだ」

 アンナの姿は、現実の彼女をベースにした美化モデルだった。黒く跳ねっ返りのある髪の毛は眉の上で切りそろえられていて、髪の全体はその部分に合わせるように短くまとめられている。その灰色の混ざった青い瞳は現実よりも一・三倍大きくされており、鼻の位置は口と合わせて一ポイントだけ上に上げられている。着ている服はシャーロック・ホームズのようなインバネスコートで、これは彼女が現実では絶対に着ないたぐいの服装ではあるものの、彼女の美的感覚に合ったフォーマルな服装だった。

「これは要望ではなくて正しい意見です」アンナは強情に言い張った。「完璧な教会こそ、完全な信仰の拠り所になると思います。セッティングの性質上、一ミリの誤差であっても、調和を乱しますわ」

「きみの提案する神秘体験は、一万人に一人が体験できるかどうかという奇跡についての話だ。しかし、それでは商売にならないんだよ。あまりに微妙で、繊細すぎる。きみの持ち味は明快さだ、それを発揮しようじゃないか」

「商いにも信念が必要でしょう。21世紀の商業主義と同じ泥沼に嵌るつもりですか?」

「だが、その泥沼はカネでできてる。われわれはいつでもかの時代を見習わなければならない――生きていくために」ターナーを首をぶるぶると振った。きっと現実でもそうしたのだろう。「すこし毛色を変えただけの、堂々巡りな議論をこれ以上続けるつもりはない。決めてくれ、アニー。このプロジェクトを降りるか、それともクライアントの要望に従うと誓うか」

「わたしを降ろすつもりなんですか?」アンナは信じられないと言った声色で切り返した。「もう半年もこの仕事のために図面を引いてきたんですよ」

「それはこちらの台詞でもある。もしきみが図面の利用権を譲ってくれないのなら――きっと譲るつもりはないだろうから――プロジェクトは一から立て直しだ。それがどれだけの損失か」

 アンナの胸はずきりと痛んだ。ターナーはどうしてここまで我慢強いのだろう。「わたしの代わりには誰が?」

「ジム・ホースラヴァー、トマス・オルブライト、アルルジャム――まだ正式決定はしていないがね」

 名だたる人物の羅列にもアンナは動じなかった。彼らのそれぞれと面識があったし、その仕事ぶりはアンナの基準から見ても納得のいくものではある。職業人としても弁えていて、アンナよりもずっとドラッカー的だ。子供じみたこだわりに執着しているのは自分の方だとわかっていた。

 規模においてサグラダファミリアに匹敵しようなどとは思っていない。しかし、その神殿としての仕組みは、せめて匹敵するものでありたいのだ。アンナはボード上に投影された、彼女の手になる模型を見つめた。サン・エレクトロ聖堂。西側立面の外観は大胆なアシンメトリで、若干内斜した塔がもたらす歪んだ立体感が、それを見上げる人間の視覚の内で均整を取りながら変化していくように、わざとガーゴイルを縦に引き延ばしたり、ベルフリーに捩じれを加えたりもした。左翼側の塔を支えるストレッチャーはあくまでも現実味のために付け加えられた代物であり、もし現実にそれ再現するとなればかなり複雑な工法によって、支柱内の鉄骨鉄筋コンクリート構造を組み合わせなければならないだろうが――、それでも技術的に可能である、という基本コンセプトを逸脱することはしなかった。右翼側にはより小さな三本の塔がたっており、左翼に向かって倒れ掛かりながら、螺旋型の支持構造で繋がっている。見上げる位置から真円に見えるようコントロールされた薔薇窓に関してはすでにデザインが発注されていたが、アンナ自らステンドグラスの案を提出してもいる。それらがどのような印象を与えるのか、どう感じられるべきか、建物のディティールからざっくばらんなイメージまで、アンナの中ではすべてに理由があった。

 ひとつこだわりを捨てればいいだけのこと。

「すこし考えさせてください」アンナは俯き加減で言った。

「いいだろう」ターナーは聞き分けよく頷いた。「ただし、きみからの第一声はイエスかノウのどちらかしか認めない。それが条件だ」

「イエス、ボス」

「明日のUTC1400時にまた連絡する。もしかすると少し遅れるかもしれないが」

 ターナーの姿は瞬く間に掻き消えた。彼はいつでも分単位で時間を管理しており、結局のところは秒単位での生活になっている。彼のような人間は、VR技術無しには、その人生の大半を旅客機の中で過ごす羽目になっていた手合いだろう。そして今は、VR空間の内部こそが彼の戦場だった。それはアンナも同じことだが、向かっている方向は真逆だ。

 アンナはしばらく会議室に残って模型を眺めていたが、見つめているだけで何かが変わるはずもなかった。彼女は現実の身体を動かし――しばしばその方法を失念することがあった――BMIのモードを段階的停止に移行させた。視界は少しずつ暗くなっていき、彼女の眼が暗闇を見つめていたということを明らかにしていった。空圧システムから圧縮空気が抜けていき、ヘッドデバイスの固定がなくなるにつれて、頭部の蒸れを不快に感じはじめる。

 アンナはふうと息を吐いてヘッドデバイスを取り外した。それは支持機構によって上から支えられている〈ダモクレス〉型で、脱ぎ去ると、空間上に取り残されたようにその場に留まる。

 彼女の座っている椅子はヘッドレストに〈ダモクレス〉をマウントできる、寝椅子型のワークチェアで、長時間凭れかかっていても四肢に痛みが生じないための、非電気的なマッサージ機能が搭載されていた。つまるところ、不快感を表現するわずかな身じろぎが、椅子のクッション性を意味する高分子素材の配置をがらりと変え、体重を分散する最適な配置へと新たに遷移するのだ。このクッション素材から起き上がる気持ちを失ってしまった人々の存在が社会問題になるほど快適だが、血行が不順気味になるのは避けがたい。

 ロールスクリーンに半分隠された窓からは西日が漏れ出して見えた。ここはマンハッタンとクイーンズの狭間に建てられた、今やニューヨークで三番目に高層なコンドミニアム『ユニオン・スカイ』の52階だ。これより上階にはスカイラウンジとパーティールームしかないので、居住ユニットとしては名実ともに最上階である。太陽光をわずかに受けている東側の壁にはテレビ用モニタがあり、フォトウォールで装飾されていた。写っているのは幼少期の彼女と、その家族。木造アパートの前で、雪の積もっている路面に立っている。家族が揃った唯一の日に、慌てて撮られただけに、計画性を感じさせない写真だった。

 部屋の南側の壁に面するワークスペースには、32インチ縦型4Kディスプレイが四つ、四面鏡のように配置されており、一目見ただけではスクイーズと区別のつかないような大量のショートカットデバイスの山に、埃の被った有線キーボードが埋もれている。アンナはそちらを一瞥することなく、おぼつかない足取りで寝椅子から降りると、酔っ払いのようによろけながら浴室へ向かった。

 彼女の毛髪は、彼女自身の美化モデルの四倍は長かった。そのせいで傍目にはもじゃもじゃの塊が頭の上に載っているように見えるくらいである。目に髪が入らないように、しているときはヘアバンドをつけているが、それを外すと、美化モデルにも負けないくらい美しいその瞳は、見事にブラインドされてしまうのだった。長時間の作業がたたって両脚の筋肉はひどく衰えており、毎度歩き方を思い出すまでは、痺れているかのようにぶるぶると震えるのを感じる。肌は浅黒く栄養不足を思わせ、浮き出た肋骨を見ると欠食の傾向までがなり立てるかのようである。食事が嫌いなわけではない。むしろ大好きだが、健康な食生活が要請してくる分量は、彼女にとっては多すぎだった。

 シャワーを浴びる彼女は、自分自身をネズミのペットのように感じる。VRの仮想空間で、世界的マネージャーであるグラハム・ターナーとも丁々発止にやり合える背筋の伸びた自分こそが、このペットの飼い主だ。バスタブにお湯が溜まっていくのを見つめているとあくびが出てきた。

「入浴中の睡眠は危険です」機械音声がどこからともなく言った。「助けが必要ですか?」

いいえニエット……じゃなくて……ノウ」彼女はおのれの中指の根元に巻き付いている防水のリングを見つめた。この小さな監視員に何度命を救われたかわからない。一人暮らしにはどうしても必要な代物だ。

 入浴は好きだった。体温調節がばかになっている彼女の肉体はもはや冷血動物の領域に達しており、熱エネルギーは常にどこかから直接供給されるほうが効率的なのだ。お湯に浸かっているとまたしても眠気が出てきて、機械音声に忠告を受けた。

 髪をろくに乾かさず、いくつもタオルを使って水気を拭い取り、最後にはお気に入りのひとつを巻きつけて、彼女は脱衣所から出た。頭の中では、〈聖電使節協会〉とのプロジェクトを降りるべきかどうか、答えが出ないままだった。

 今さら金銭には困っていない。アンナにとって、仕事とは生きる手段ではなく目的だった。自分という存在が、その中にいることこそが生きるということであり、仕事をしていない自分というのは、英気を養うために必要なインターバルである。〈聖電使節協会〉の、仮想空間における信仰の拠点を創造するというプロジェクトにはやりがいがあった。彼らはその潤沢な資金を使って広大なドメインを購入したので、配置できる空間コンポーネントの量や密度にはほとんど際限がない。空間クリエイターなら、誰もが一度は携わってみたいと思えるような案件であることは間違いないのだ。あるいは、それを終生の傑作として引退しても、誰も不思議には思わないだろう。アンナにとっても、この機会はできれば逃したくはなかった。まだ本製作には取りかかれていない。超巨大な空間コンポーネントを、荒涼としたデータの宇宙に生み出し、それぞれを分化させ、意味を与えていく神の如き所業――それを経験したくてたまらない。だが、自分の信念を曲げてまで?

 信念は些細だ。今よりも彫刻の量を増やすなら、聖書からの引用部分を変えて発注を出せばいいだけのこと。それだけでエゴは守られる。しかし、些細だからと言って簡単に捨ててしまえるのなら、そもそもこだわりとはなんなのか、わたしというエゴになんの意味があるのか――。

 アンナはソファに座り込み、無意識に寝そべりそうになって、濡れた髪の感触でそのことに気づいた。ゆっくりと立ち上がる。普段寝てばかりなので、BMIをつけていないときは極力立っていることにしているのだ。AIかかりつけ医にもそうするよう厳命されている。彼女はぺたぺたと裸足で大理石の床を歩き回り、その冷たい感触を味わった。フリスビー型の掃除機は鮮やかにアンナを避けて仕事を続けた。

 そのとき、固定電話が鳴った。仕事の連絡はすべて携帯端末に直結させているので、固定電話が鳴るということは私用である。アンナは小走りで向かうと、受話器を取った。「ワオ」と電話の相手は言った。「ハーイ、アニー。まさか出てくれるなんて思ってなかったわ。仕事だと思ったから」

「ちょっと休憩中」アンナは頬をほころばせた。「北極圏の海はどう? 何か興味深いものは見つけた?」

 ミカエラ・アートマンは 映像素材専門の企業『ジェムストック』の潜水カメラマンだ。多くのザッパーは気づいていないが、ミカエラの撮った映像素材は数多くのVR空間に活用されている――全部であれ部分であれ。いま、彼女のクルーはグリーンランド西岸部を、極方向へ向かって砕氷船で進み、氷点下の海中を撮影するという、極めてリスクの高い作業をおこなっているところだった。

「この夏の間にもう百回は潜ったわ」ミカエラは答えた。「過去に報告はあったけど、世にも珍しいウミシダの群生を撮ったわよ。知ってる? 見た目はシダ植物だけど、実際には棘皮きょくひ動物に分類される……写真を送るわね」その言葉とほぼ同時に、アンナのプライベートBMIが通知音を鳴らした。アンナが指の形を整えて、部屋の中央に向かって大振りに手を振ると、東側の壁に設置されたモニターが点灯し、ミカエラの言った"棘皮動物"の姿を映し出した。それはアンナが見る限り、ヒトデやナマコとは似ても似つかず、地上で繁栄しているシダ植物の亜種でしかない。「生命の神秘ね」とアンナは言った。ミカエラは続けて、「収斂進化しゅうれんしんかってやつね。適応的形態はドメインを越えて再現される……うちの海洋生物学者はそんなことを言ったわ。野生のまま手を加えずに多重解像度MR映像を撮ったんだけど、ミリスケールで見る捕食行動はかなり衝撃的よ。トリフィドの日って感じ」

「ストックが公開されたら、絶対買う」そう誓ってから、アンナはふと、思い付きで口走った。「もしコンポーネントの複製に人手が必要そうなら、声かけてくれる?」

「いいの? いそがしいんじゃなかったっけ?」

「うん」アンナはこくこくと頷いた。「これから暇になるかもしれないから」

 ミカエラは声をかけると約束し、グリーンランドの海に帰っていった。

 受話器を戻し、アンナはふうとため息を吐いた。ニューヨークのビル群に呑まれ、消えていく夕日が彼女の白い脚を照らしたが、対紫外線加工を施された窓越しにでは、むしろ冷たくすら感じる。サーモスタットの設定に異常はない――問題はわたし自身か。アンナはソファに腰かけた。

 翌日、会議室にログインしたアンナは、グラハム・ターナーに「ノウ」を突き付けた。彼は意外でもなんでもなさそうに、いくつかの書類に電子署名を求めた。彼のフローチャートは完璧なのだ。この淡々とした取引の裏で、自分の人生に関わるどれだけの栄光が投げ捨てられているのか、考え始めるとアンナの仮想身体がいまにも滅茶苦茶に動き出しそうだった。「継続的な図面の利用は認めます」アンナは超然と言った。「それと、おそらく模型よりも前の……スケッチなら、新しいチームの作業効率を上げる役に立つはずです」

 ターナーは言葉が詰まったように考え込み、それから「助かるよ」と言った。アンナは内心ニヤリとした――そうした表情は決して反映されない――グラハム・ターナーに予想外の一撃を与えてやったのだ。

「そうだ、この後時間はあるかな?」書類を整理し終えると、だしぬけにターナーが言った。

「ええ、いくらでもね……」

「ENEの新型BMIの噂は聞いているかね?」

 アンナは首を左右に振った。それが否定を表していることが誰にとっても明白であるための電子標識と共に、ターナーはその仕草を受け取った。

「新しい仕組みで動作するインターフェースで、空間コンポーネントの実装もかなり変わっている。うちの社員で空間創成に慣れているものに、その試供品を使わせてみているのだが、まったく物にならなくて困っている。センチ立方体ですら安定しないんだ」

「もう、試供品が出回っているんですか?」

 だとしたら新型開発のニュースくらい報道されていそうなものだが、そんな話は聞いたことがなかった。耳が早い方ではないが、職業柄、最新技術の動向を追ってもいる自分が知らないのは、何か不思議なことのように彼女には感じられた。

「技術面は確かだが、一般に普及できるかは微妙なので、プロに審査してほしいという依頼だよ。ENEとしては、公式発表で無駄に消費者の期待を煽るより、情報漏洩という形で世の中に知られる方が色々と都合がいいのだろう。公然の秘密というやつさ」

「はあ。じゃあ、このことを、知り合いのインフルエンサーにでも伝えればいいんですか。信じるか信じないか……って具合に」

「それはきみの仕事じゃない」ターナーはすばやく応じた。「もしENEの新型が次世代の標準デバイスだとすれば、その仕様を把握しておくことは必ず役に立つ――と、わたしは思っていてね。よければ、社員向けにマニュアルを書いてくれないか?」

「マニュアルを? 誰が?」あまりに急な疑問形だったので、アンナはいくつか言葉を聞き逃した。

「きみだよ、アニー」

「えっと、それは仕事の依頼ですか? ENEの許可は――」

「許可は取るさ」ターナーは表情一つ変えずに言い放った。時折、彼はこのように豪胆なふるまいをすることがあったが、一度言葉になったら、それが失敗した試しはない。「そう、依頼だよ。興味があるなら資料を送るが?」

 アンナは考えた。ミカエラがグリーンランドを撤収するのは少なくとも三か月後で、動画の編集作業が始まるのも同時期だが、VRインテリアの作成が始まるのはもっと後の話だ。

 新型BMIのマニュアルを作るという仕事は、その間を埋めるものとしてはこれ以上ないほど適切に思えた。気楽そうに聞こえるし、興味深い。ここ数年、業界全体が低迷期にあり、それゆえにブレイクスルーの気配を漂わせている。もしかするとENEの新型こそがボトルネックを突破する新しい技術なのかもしれない。やりがいもありそうだ。

「あとで資料を送ってください」

 ターナーは満足げにうなずいた。どうやら一撃をやり返されたらしい。目には目を、飴には飴を――。

 プライベート・モードに切り替えてから、彼女はインターネットを彷徨って、ENEの新型デバイスについていくらか調査をおこなった。だが、リークされたと思われるような情報はまったく出てこない――どれも都市伝説的な、根も葉もない妄想記事ばかりだ。

 彼女はゆっくりと椅子に腰かけた。彼女のプライベート空間は、木造家屋の一階を模している。父と母がずっと夢見ていた一戸建てだ。大人になって、建築の知識を手に入れた彼女は、彼らの夢想をひとつのこらず忠実に再現した。多くのロシア人と違って、両親は別荘ダーチャを手に入れたら、アパートを手放してそこに移り住もうと考えていた。南部には改築された古民家イズバがいくらでもある。アンヌシカ、想像してごらん――。階段を上り、緑色に塗られたドアを開けよう。前室シーニエでコートを脱ぎ、腕を擦っているうちに、すでに壁の裏から熱気を感じている。ふたたび扉を開けると、待っているのは光り輝いた居間スヴェトリツァ。漆喰で白塗りにされた大きな暖炉がある。その温かさはすぐに胸の奥まで染みわたって、かじかんだ手もすぐに緩むのだ。

 四人掛けのテーブルには、いまは誰も座っていない。壁際の安楽椅子にアンナは腰かけて、空間上に浮かんでは消える仮想ブラウザを次々にスワイプしていた。暖炉は煌々と燃えているが熱は感じない。当然、寒さも。

『シュタインフェルドは、BMIに人間の脳を食べさせようとしている』『BMIを通して人間を洗脳』『すでにENEはエイリアンに乗っ取られている』――被害妄想もいいとこ! アンナはブラウザを閉じて、少しだけ現実の自分に意識を向けた。シリコン神経チップがそのような技術でないことくらい、彼女にはわかっていた。正しい知識を持った人間はこのようなデマにはひっかからない。

 ENEが研究しているという脳オルガノイドについても同様だ。神経組織が意識を生ずるために必要な要素はすでに解明されている。その大きな一つが『統合性』であり、小規模な神経細胞クラスタは、たとえどれだけ情報を与えられても、この要件を満たすことはない。培養された脳が人権という概念を脅かすためには、基準を突破するまでそれを生育する必要がある。だが、赤ん坊をコンピューターとして使おうなどと考える人間がいない以上(そしてそのような研究・開発がどのようなバッシングを浴びるかが容易に想像される以上)、巨大な神経細胞クラスタをBMIにするというアイデアは幻想もいいところだ。

 一時間ほどして、ターナーから資料へのアクセス権が送られてきた。もう許可を取ったのだ。ざっと梗概を流し読みしたところ、アンナの考えに間違いはなかったようだ。独自開発したシリコンチップ上で脳オルガノイドを培養し、反応速度を高速化、非公開の自社製アルゴリズムによって新しいVR体験……。

 新しいVR。その文言にアンナは惹かれた。なん十年も前から、VR技術は一つの完成に達している。映画『マトリックス』のような"完全没入型"の装置が実現不可能だということは早々にわかっており、しばらくの間研究者の間にはふてくされたようなムードが漂っていたが、VR身体の操作を長期的に訓練することで、脳の運動野の一部がその作業に最適化される――現実の身体を動かさずに、VR身体だけを動かせる――とわかってから、技術的に可能な限り最大の没入を人間に与えられるよう、BMIは発展してきたのだ。そして、空間コンポーネントという感情媒質、この大胆な技術が導入され、ついに電子空間上にひとつの文明圏が誕生したのである。もはや仮想ヴァーチャルという語は、並行パラレルとほぼ同義なものとして濫用されているのだ。ここで"新しい"ものと言えば、空間コンポーネントの更なる利用、応用――が真っ先に思いつく。それらは今日こんにちにおいても、すべての可能性を表現されきっていない豊饒な資源だ。

 だが、ENEの資料には『新しいVR体験』とある。体験、それが新しくなるのだとすれば――アンナは不安が胸をよぎった。空間コンポーネントに関するマニュアルは本当に必要なのだろうか。

 アンナは息を吸った。VRモデルの胸が膨らむのを見つめ、息を吐きだして萎むを見る。空間コンポーネントが無価値になる未来はありえない。だが、もしかすると、その技術を将来にわたって守ることができるのは、世界でわたし独りだけの可能性もある。マニュアルを作らなければ。誰にでもそれが使えるようにしなければ、空間クリエイター全員が路頭に迷うはめになる。

 ターナーが投げやりな気持ちでわたしに仕事を託したわけがない。きっと、こんな風に熱意に滾るのを、彼は予見していたのだ。

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