使い捨ての脳
うやまゆう
第1話
『使い捨ての脳みそ』 #1
エラスティック・ニューロ・エンジニアリング(ENE)社の研究所は、「身体障碍者の頭蓋骨を開いて、ゴキブリの触覚のように飛び出すワイヤを前頭前野に突き刺していく」といまだに世間から思われていたが、その種の"侵襲的な"作業は半世紀以上も前から、すくなくとも人間に対しては一切行われなくなっていた。頭蓋骨と皮膚という分厚い壁を隔てて、ナノスコピックな神経活動をモニターする画期的な手法は、技術の積み重ねによって今や複数の選択肢から選べる。もしあなたの研究室に600万ドルの機材を購入する余裕があるのなら、『神経補償光学装置』を導入すればいい。予算が下りないなら、ENE社のGithubから『アダプティヴィジョン』をインストールするのだ。被験者と協力して半年間パーソナライズ訓練をすれば、復号処理に多少の時間をかけるものの、その分解能はシナプス数本単位にまで精密になるだろう。
「報告書ではいけないのかな、ホリス? わたしが一分間ゆくえをくらますだけで、ENEの正味の株価が時速100ドルずつ下落していくというのは、知ってのことだろうね」
シュタインフェルドは見た目通りの人物だった。禿げ頭で、筋骨隆々で、ハシバミ色の美しい瞳を持っている。曇ることの無い鷹の目だ。何かに注意を向けている時は微動だにしないのは、おそらく彼の従軍経験の大半が長距離狙撃と関係していたからだろう。
対するジョン・ホリスは「悪の科学者」と聞いて三回に一回は思い浮かべることのできるような見た目をしていた。薄汚れた白衣の裾にはピンク色の滲みがついていて、数々の薬品の取り扱いのせいで、ぼさぼさの金髪にはまだらっぽく灰色が混ざっている。鶏のように首を前に突き出して、相手が話しているときは常にコクコクと揺れている。特筆すべきはその顔だろう。彼はENEの最高技術責任者であり――チームの手腕へ絶対的な信頼を持っていた。だからこそ、その両眼を切除して、メンテナンス可能な望遠機能付きのスコープに変えたのだ。右センサーは一眼レフのように張り出していて、左目側はゴーグルのように平らになっている。
「もちろんです、ボス」とホリスは頷いた。彼の背筋が曲がっているのは、その視界装置の重みによって癖づけられたものだった。今では僧帽筋が太く発達していて、苦も無く支えられるはずなのだが。「ぜひ、ご覧ください。いや、できれば体験していただきたい。そしてわたしと同じか、それ以上の衝撃を味わってもらいたいのです」
第三セクションはビルの地下三階に設けられていて、神経細胞の研究チームがそこに収まっていた。その数理学上の実現の研究ではなく、生物学的な応用の研究である。
「きみ以上の衝撃を、わたしがねェ」シュタインフェルドはコンクリートと鉄の階段を革靴で鳴らしながら疑わしげにつぶやいた。切れかけた蛍光灯が、地階まで貫く文学的真空を照らしている。
ホリスが地下三階の鉄扉を重そうに押し開け、シュタインフェルドは悠々と進み入った。実験室は白っぽく光っていて、分類された資材ラックで四つほどのスペースに分かれていた。シュタインフェルドがここを訪れたのははじめてだった。
電子顕微鏡が並んでいるエリアに、茶色い短髪で、そばかすをした三十代ほどの青年が立っていた。
「マーク」とホリスは親しげに呼びかけた。「きみの個人研究を見せてやりなさい」
マークと呼ばれた青年は何か言いたげに息を吸ったが、シュタインフェルドの顔を見て、無謀な賭けはやめたようだった。ははん、とシュタインフェルドは思った。大方、彼もシリコン・バレー的な成り上がりを夢見ていたに違いない。大企業の飼い犬では満足できない若者。一流の設備が整った研究所で、自分だけの研究を進めていき、もはや会社のリソースが不要になったころに外部の投資家と連絡を取り独立、古巣を出し抜いて、あのシュタインフェルドは臍を噛む――。
シュタインフェルドは少し意外だった。ホリスはいかにも、この手の若者を野放しにしそうなものである。悪戯好きで、子供のような嫌がらせを好む天才科学者——ホリスにはそんなイメージがあった。いつの間に帝国に忠誠を誓ったのだろうか? 長年かけて優遇してきた結果、単に対立しないだけでいるよりも、媚を売った方が得だと思うようになったのだろうか? だとすれば、シュタインフェルドは気の滅入るような我慢比べに勝利したことになる。いくら子供のようだといっても彼は紛れもなく天才であり、業界での微妙な力関係でさえ児戯のごとく取り扱う相手なのだ。
「マーク、そんな顔をするな」とホリスは小さな声で言った。マークはペトリ皿を持って机にうつむいていた。「これが最善だ。きみの研究がどういう性質のものか、理解していないわけではないだろう」
「しかし……今これを世間に発表すれば……」
「もうためらっている段階ではない。シュタインフェルドにお見せするんだ。彼ならそれを守ってくれるはずだ」
シュタインフェルドは身を強張らせた。聞こえてくる単語はどれも彼の危険センサーに端っこをぶつけて小さな音を立てていた。しかし、何かを判断するには、まだなんの情報も無かった。――なんの情報もない? 彼は不意に、そのことに違和感を覚えた。なぜホリスはサプライズに拘るのだろう?
「これです」
マークが運んできたのは、ENE社のローエンドBMI『ネコミミ』だった。二つに割った三角錐のような小さな突起がある、カチューシャ型のヘッドセットである。突起部分からワイヤのついた吸盤型のパルス受信機を引っ張り出し、導電性を高め、気密性を上げるジェルを塗った額に張り付ける。入力データは社のサーバーへ送信され、ビッグデータによって高速化している『アダプティヴィジョン』がミリ秒単位で解像する。本体価格は700ドル。中流階級にとっては安い買い物だ。
しかし、マークが持ってきた『ネコミミ』には真っ黒な真空管のようなものが取り付けてあり、簡素なケースに支えられた医療用の密封パックらしきものが、不透明な太いチューブで繋がっていた。
「……これを付けろと?」ホリスは頷いた。「頭の上で爆発したりしないだろうな? そうなれば――」
「ご安心を、ボス。可燃ガスじゃありません」
ホリスが急かすようにそう言うので、シュタインフェルドはふんと鼻を鳴らし、それを装着した。リクライニングのついたビジネスチェアに腰かけ、マークが目の前のモニターを起動するのを眺める。画面に表示されたのは、極めて単純な3Dシミュレーションソフトだった。人間の手と視界が再現されていて、大きな積み木が白い空間にばら撒かれている。
「プレイしてみてください」と不機嫌そうなマーク。
シュタインフェルドはため息を吐きたい衝動を堪えながら、そのデモンストレーションに付き合うことにした。
画面の中の手を動かそうとする――それは動いた。「ほう? 反応速度はかなりいいな」処理システムの改善だろうか。この真空管のような構造物はそのためのもの? シュタインフェルドは現実で自分の鼻先を掻いた。「おや……誤動作もしない」自分が実体世界でやりたいことと、仮想空間上での行動が機械によって混同されてしまうというのは、ありがちなエラー、というよりも仕様なのだが。シュタインフェルドは積木を並べていった。そのうち――不思議なことに――「なんだ、これは?」彼はびっくりして自分の両手を見つめた。まばたきをすると、再び彼は椅子の上に座っていた。「今のはなんだ?」
「何が起こったと思います?」とホリスは返事を待たずに、「あなたは今、このゲームの中にいたんですよ。ほんの一瞬だけですが」
シュタインフェルドの背筋を、悪寒にも似た興奮が駆け上がった。技術紹介の場面で、ホリスが冗談を言わないのはわかっていた。
「一瞬だけか? あの――"幻覚"は、最大で何秒保つんだ?」
マークが答えた。「理論上は半永久的に保ちます。今は信号を制限しましたが、抑制を解けば」
「解いてみてくれ」
シュタインフェルドの要求に、マークは素直に応えた。彼は手元のスマートデバイスを指でなぞり、何かのスイッチをONにした。
すると、シュタインフェルドは真っ白な空間の中にいた。
四方が地平線で囲まれた広大な世界だった。自分の身体を見おろしてみると、そこには何も無かった。
「身体を再構築してみましょう」とマークが言った。彼の声色は弾んでいて、今この瞬間は、発明品を誰かに試してもらえるのが嬉しくてたまらないようだ。
シュタインフェルドの身体が戻ってきた。「いったい、どうなってる?」彼は驚きを隠せなかった。この技術に対し、なんの憶測もできない。今までの自分の常識をはるかに超えている。先ほどまで自分が着ていた服そのままだった。ツーピースのスーツ。
彼は踵を鳴らしてみて、音が響くのを確かに感じた。若干、普段の自分の聞こえかたと異なっているような気はしたが――。いや、そんなことはあまりにも些細な問題だ。問題ですらない。
軽く屈伸してみて、筋肉の伸び縮みを感じる。そして、傍に落ちている積み木に触れてみる。木の感触。幼いころ、ナニーがうちに持ってきた、温かい木の――。
「戻してくれ」
彼がそう言うと、次の瞬間にはやはり椅子に座っていた。身体動作信号が遮断されていたのだ。そして、ゲームの中に流用されていた。
「おめでとう」シュタインフェルドは深く息を吸ってから、茫然と呟いた。「おめでとう、ホリス。いや、マーク。ノーベル賞はきみのものだ」
これがENEにもたらす金銭的利益は計り知れない。だがそれ以上に、人類文明に与える影響のほどはどうだろう。これ以前と以後で、技術の地質年代が変わるほどの衝撃になる。世界は、重力井戸は、人間にとって制約ではなくなる。何もかもが解き放たれるのだ。
マークはばつが悪そうな表情で頷きながらも、認めてもらえたことで、どこかほっとしたようだった。しかし、ホリスが唇を結んでいた。
「ボス。わたしの見立て通り、あなたはこの技術に惚れ込んだようですね」
BMI業界の王は、興奮して頭を振った。
「当たり前だろう! これを欲しがらない人間はいない。わたしが長年相手をしてきた日本市場なら、たとえ4000ドルで売っても年間で70万台は出荷できる。それだけじゃない、この技術には未来がある。この世界の未来だ!」
「しかし大きな問題があるのですよ」
ホリスが低い声で、シュタインフェルドの興奮を引き裂いた。彼は息を整えながら危機回避モードに切り替わった。「なんだ? 特許侵害か? いくらになりそうだ」
「この装置はカルタヘナ法に――いえ、もっと重大な倫理規定に違反しています」
マークが唸り声のようなものを上げた。
「は――遺伝子組み換えか? なぜそんなものが関係してくる」
ホリスがコンソールを叩くと、ゲームを映しているのとは別のモニターで、微小世界が映し出された。シュタインフェルドにとって、その単位系の物体は見慣れたものである。
「神経細胞」このクイズは簡単だった。「脳オルガノイドだな」
菱形の細胞体から、イカの脚のような樹状突起が何本か生えて周囲に人がっており、その中でもひときわ大きくて長い尾部が、少し離れた場所で他の細胞体と繋がっている。間を埋め尽くしている物体はグリア細胞で、その名の通り星の形をしている。ここだけを見ればスライドガラス上で培養された神経細胞のプールと変わらないが、シュタインフェルドはこれが脳オルガノイドであるべきことを知っていた。それがこの研究室のテーマだからだ。
「シリコン神経チップ」彼はその技術の要綱に思いを巡らせた。「――には、いくつかの課題があったはずだ。まさかすべてクリアしたのか?」
まさか遺伝子改編で?
シュタインフェルドは一足跳びに議論を進めた。彼は、マークの創り出したものをシリコン神経チップの亜種だろうと決めてかかったのだ。一般的なシリコン神経チップは、シリコンの構造を調整することで神経系を模倣し、それによって処理速度向上と省電力化を期待するものである。しかし、それらのチップはフォン・ノイマン・ボトルネックという名で知られる性能の限界を突破することはできなかった。
ENEでは数年前から、生物学的アプローチによってその限界を突破しようと試みてきた。高密度の多電極アレイ上に、機能的脳オルガノイドを設置するという手法もその一つだ。実験の結果は確かに良好だった。だが、ENEの望むような、汎用的な処理能力を持つハードウェアに至るまでには、まだ数世紀分の技術的ギャップが存在しており、そのために何をしなければならないのかすら模索の段階に留まっていたのだ。
ホリスが言う。「いえ、もっと進歩したものですよ」
マークが重々しく口を開いた。
「これは、ただのオルガノイドではありません。これはゲノム編集によって生まれたキメラ細胞――いえ、"新生物"です」
マークは徐々にモニターの拡大倍率を下げていった。視野が広くなるにつれ――シュタインフェルドは口をあんぐりと開けた。画面に映ったのは、脳オルガノイドの細胞ではなかった。それは――どちらかというと――アメーバのように見える。
「この若者は子供のような空想を現実にしてしまったのですよ」
ホリスが言った。
「この研究室で手に入る試薬は限られています。にも関わらず、彼は熟練の職人のような手さばきで、森林公園で拾える数種類の原生生物を、瞬く間に混ぜ合わせてしまった。まったく新たな真核生物をですよ。まだわたしが関与していなかった時期なので定かではありませんが、彼は律儀に日誌を取っていたものでね。彼は、そんな危険行為を趣味でやっていたのですよ」
「その新種はどうした?」シュタインフェルドはぞっとした。この研究室のバイオセーフティは歯科医院と変わらない――。
「すでに廃棄しました」マークは急いで答えた。「あの……クビになりませんよね?」
「そして、生き残りは別の種へ進化させたのです」ホリスはマークを無視して続けた。「いえ、実際、それはまったくの偶然だったようで。彼は不注意にも自分の個人研究の成果を、試薬と間違えて脳オルガノイドに与えてしまったのです」
なんという不注意。懲戒解雇ものだ。「だが――それで何が起きるというんだ?」シュタインフェルドは混乱した。「まさか、細胞内共生が再演されたわけでもあるまい?」
ありえない、絶対にありえないと思って口にしたが、シュタインフェルドは身がすくむのを感じていた。真核生物の誕生に関する学説は、幼少期からの彼のお気に入りの読み物だった。ある一匹のアメーバがいました。そのアメーバは、その後のすべての生物に必須となる、あの発電装置を呑み込んで……。
「何が起こったのかは、ぼくにもわかりません」とマークが答えた。「
「馬鹿な。ゼロ%だ」正確には、ゼロが百万個あってもなお足りない。おおよそ、意味のある数字としては認められない領域での確率だった。「水平伝搬が起こったから、なんだというんだ? そんなレベルで送り合うことのできるゲノムの切片では、新種創成に足るほどの情報資源にはなりえない」
「ならばやはり、細胞内共生が成り立ったのかもしれません」マークは認めた。
「つまり……人間と同等の意識を持つ……変形菌の一種が、ここに?」
シュタインフェルドは恐怖に満ちた瞳で、机の端で通電中の電子顕微鏡を見つめた。そこに置かれているペトリ皿は白くライトアップされていた。
「それはないでしょうな」とホリスが強く断言した。その落ち着いた声色は、少なからずシュタインフェルドを安心させた。「われわれはこの新生物――『ホムンクルス』と名付けたのですが――を調査した結果、知能レベルは、前駆生物であるキイロタマホコリカビとほとんど変わらないと結論付けました。非常に小さく、非常に素早く、その分生命も短い。子実体を形成する能力もありません。かわりに、糖類を与えることで急速に活発化し、分裂によって増殖します。また、通常の菌類と同様、アルコールを噴きかければ死滅します」
「封じ込めができているというなら、今はそのことに触れないでおこう。しかし、この生物に高等知能が無いのはなぜだ?」
「そこがおもしろいところです」とマークが悪びれもせずに大きく頷いた。「まず細胞壁の問題があります。それに隔てられていて、ニューロンは細胞ひとつにつき数十万単位しか収まることができないんです。それから、元となった『新種』とヒトの神経細胞では、利用している神経伝達物質がまったく異なっていて、互いの情報にアクセスできないんです。唯一ミトコンドリアだけは全細胞内でヒト由来の物に統一されているようで、一部の蛋白質が相互作用を与えている様子もあるのですが、足並みが揃っているとは言えません。ですが、ある刺激を使えば、完全に協調させることができます」
「それはなんだ?」
「BMIの電磁気刺激です」
シュタインフェルドは掌で口を覆った。「それが……まさか……」
「もともと、われわれの製作していた脳オルガノイドは、電極アレイに適応した特異クラスタでした。信号の送受信システムは揃っていたのですよ」ホリスが、それ自体は簡単であるかのように言った。「こちらから神経細胞部分に電磁気刺激を送信し、ニューロンの反応から特定の遺伝子発現を促すと、放出されたアミノ酸、ペプチド、蛋白質が、ホムンクルス全体の活動に間接的に影響を与えることができるのです」
マークが矢継ぎ早に続ける。
「BMIの入力装置から、専用のソフトウェアを介してホムンクルスを動かす。そしてホムンクルスの活動を、今度は復号ソフトを介して脳へ送る。そのフィードバックループに、たとえば先ほどの3Dシミュレーションなどのデータを割り込ませると――」
「これが最も驚いた部分ですな」マークが息を整えている間に、ホリスが感慨深そうに述べた。「ホムンクルスは、BMIユーザーの脳活動と"完全に"共鳴するのです。まるでその人自身の脳の一部であるかのように! そして同時に、電極を通じてコンピューターの内部とも接続している。身体観など存在しない世界に、機械言語で構築された手足。それを動かすように命じられたホムンクルスは、現実とヴァーチャルの間に存在するギャップを、おのずと均してしまうのです」
「それがあの……"幻覚"の正体か」
シュタインフェルドはぐったりとして椅子に座りこんだ。ここ数年で聞いた中で一番神経を使うデモなのは間違いない。ENEの事業部が長期計画の中で建てた研究所が、危険薬物を集団的に不法投棄していたというスキャンダルを聞かされたときと同じくらい消耗していた。なぜそんなことをするんだ。一言あったら、誰かが予算くらい組むじゃないか。
しかしこのホムンクルスに関しては、法と条約に護られた環境では千年と生まれてこない生物だった。これは計画された存在ではない。これが何をもたらすはずなのか、まだ誰も予測していない。これで何ができる?
もしもこの存在が当局に見つかれば大変なことになる――シュタインフェルドは思った――それだけは間違いない。ENEの役員会議は、シュタインフェルドが数日前に退職していたということにして逃げ切ろうとするだろう。だが、そんな小細工が通じるものだろうか。かなりの痛手を負うはずだ。報道内容にもよるが、おそらくヒト由来の神経細胞を使った新生物という部分が、おどろおどろしい印象を与えるので、マスコミはこれを刺激的なホラーに仕立てるだろう。製品は売れなくなり、敏感な人間はすでに職場を変えている。ENEは再起不能だ。最終的には大手企業の買収によって罪が浄化されるのを待つばかりとなる。
これまで培ってきた政治力をどれだけ駆使しても、シュタインフェルドは二度と表舞台では輝けないだろう。ホリスとマークを生贄にすれば、実業家としては生き残れるかもしれない。それでも、彼を開発に関わらせようとする人間はいなくなるだろう。
ホムンクルスは鍵を握っていた。ENEが崩壊し、シュタインフェルドと数万人の社員が路頭に迷う鍵を。そして人類の未来そのものに通じる鍵を。
あるいはまだ、誰も予測していない地獄の鍵を。
ホムンクルスは、原生生物と合成して作られた。これがもし自然環境に放たれれば……。
「それで――どうします、ボス?」とホリスがいやしいような声で言った。「いまなら、すべてのホムンクルスを殺処分するのは容易いことです。アルコール、熱消毒、そこの棚に塩酸も置いてあります。廊下に液体窒素があったかな。放射線はやめた方が良いでしょう。癌ができたらどうなることやら。あなたの命令があれば、すぐにこの一件はマークに引き渡しましょう」
「ぼくは……」彼は震えていた。「ぼくは、この際はっきり言いますが……。この研究を持って
シュタインフェルドは眉をひそめた。今日聞いた中で一番のバッドアイデアだった。
「きみは、自分がどうなるのかわかっているのか? DARPAは、きみが意図的にホムンクルスを作ったのではないことくらい、いとも簡単に暴き立てる。研究者としての価値が無いとわかれば、きみは二度と太陽を拝めないかもしれない」
それを聞いてマークは青ざめたが、想像だにしていなかったわけではないようだった。単に、シュタインフェルドのような事情通がはっきりと口にしたことで、いやに実感が湧いてきたのだろう。
彼は自分の二の腕を掴んだ。
「この生き物はぼくの子供です。あなたも、ホムンクルスの価値はわかっているから、殺せはしないでしょう。ENEは実力のある会社で、あなたはCEOだ。ホムンクルス以外にも抱えている爆弾があるはずだ。そもそも、あなたに護りきれるんですか?」
シュタインフェルドは押し黙った。たしかに――マークの人生がめちゃくちゃになることを除けば、彼がDARPAに出頭するのは最善策のようだ。この研究を無視できるほど合衆国政府は無欲ではない。彼らなら、有無を言わせない権力の下で、ホムンクルスBMIをより安全でロバストなシステムに洗練してくれるだろう。半世紀も経てば、きっと一般にも普及する。この方法でも世界は変わるのだ。
これ以上の名声も、富もシュタインフェルドには必要ない。自分の元に置いておけば、永遠に潰えてしまうのかもしれない夢ならば、いっそ誰かに託してしまうのも悪くない。
だが……。
「きみは、なぜわたしが行方をくらませると、ENEの株価が下がってゆくのか知っているかね?」
突然そんなことを訊かれたマークは目をぱちくりさせた。実はそのことについては採用面接で聞かれたような気もするのだが、もう五年も前のことなので思い出せない。
シュタインフェルドは言った。
「わたしは白血病だ。姿が見えなくなると死を疑われるのさ。今は完全寛解期で、薬さえ飲んでいればランボーばりに暴れまわることもできる。病状も比較的軽い。だが、医者は数年以内に、わたしがベッドから起き上がることもできなくなるだろうと言っている」
彼の言っていることの意味がわからず、マークは黙っていた。シュタインフェルドは微動だにせず彼を見つめていて、ホリスはやれやれと肩を竦めた。
「ホムンクルスのもたらす可能性の話さ――。わたしは、この身体を服のように脱ぎ捨てて、脳だけになって生きていけるのではないか?」
マークは頬を引きつらせた。「それは……いえ、確かにそうかもしれませんが、でも……」
「あるいは脳すらも脱ぎ捨てて」とホリスがごくごく小さな声で呟いた。その声は二人には聞こえなかった。
シュタインフェルドは、にわかに二倍も大きくなったようにマークには見えた。彼は本気だった。
「マーク、きみをDARPAには引き渡さない。そして今この瞬間から、この研究室の外にホムンクルスを持ち出すことは許さない。君はこのビルの中に住むんだ。通信も制限させてもらう。それができないなら、マーク、きみはクビだ。当然、ホムンクルスはここに置いていってもらう」
「な――」マークは目を白黒させた。
「その代わり」シュタインフェルドは指を立てた。「きみには今まで通りの――いや、今まで以上の環境を与えよう。ホリス、きみはホムンクルスの専任になれ。二人とも、何ひとつ不自由はさせないと約束する」彼の目は燃えていた。「一年だ。一年でホムンクルスのすべてを解明して、人間の在り方を根本的に塗り返るブレイン・マシン・インターフェースを、わたしの前に持って来るんだ!」
使い捨ての脳 うやまゆう @uyama_yuh
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