雷鳴とチョコレート

千蔭えく

雷は遠いからきれい

人を殴りたくなる瞬間って、あるじゃないですか。


なんて。もし言ってみたら、目の前の担任は、どんな反応をするんだろう。


「長谷川さんは、文系志望なのね」


いつもよりゆっくり、確かめるような口調で先生は言った。職員室横の小さいスペース。白い指がタブレットのキーボードを滑るのを、わたしは黙って見ている。


面談、なんて。誰が得するのかな。わたし、別に何も困っていないし。きっと担任だってそれは知っているはずで。だから、一年に3回訪れるこの時間はすごく、退屈だ。


「現代文が得意だものね。それに、古文も。でも、理系でも大丈夫だと思うけど……どうして文系を選択したの?」


「文学、好きなので。図書委員ですし」


適当に考えた、当たり障りのない答え。担任はうん、うん、と相槌をうちながらまた、キーボードをかたかた鳴らした。


生物教師をしている担任、南原みなみはら先生ーーみなみちゃんは普段、とても早口で喋る。155センチにも満たない小さな体を白衣に包み、実験道具だとか微生物ちゃんだとかの、淀みのない説明をつらつらつら。


授業で思考問題を当てて、生徒が答えられないと本気でふしぎそうな目をする。その、どこか人を見下したような雰囲気に、わたしはたまにペンケースを投げつけたくなる。シャーペンも、マーカーも、定規も、全部全部、その、さも神様のような顔面に。


なんて、冗談ですし。さすがに、やらないけど。でも心の中はいくら過激だって、いいと思う。犯罪も校則違反も、想像ならなんだって自由だ。想像だけは。


「長谷川さんは、普段も委員会でも真面目で、成績も問題ないしーー言うことないね」


「……ありがとうございます」


控えめに笑ってみた。全然、嬉しくはなかったけど。

こういうところで嫌がったりできないから、わたしの人生、つまんないんだろうなあ。




とても無意味な面談から解放されて教室に戻ると、誰もいなくなっていた。居残っていた数人も、この10分弱で帰ったらしい。窓の外はずいぶん暗くなっていて、かすかな雨音が聞こえてきた。


傘、あったかな。ないかも。……うん、ない。今日使わない教科書と一緒に、部屋の机の上だ。


はあ、とため息をついた。貸出用のビニール傘を借りるか、走って駅まで行くか……


考えているうちに雨音はどんどん、どんどん強くなっていった。さああ、くらいの音だったのが、ざあざあ、に変わり。なんか帰るのめんどくさいなあ……と窓を眺めていると、鈍い風の音までしてきた。


大人しく傘借りて、帰ろう。やっとそう諦めた時、空に亀裂が走って、光った。


数秒後、轟音。……雷。ええっ、雷。天気予報じゃそんなこと言ってなかったのに……


また、空が光って。地響きのような音が窓にぶつかる。


うーん、電車大丈夫かな。止まらないうちに帰らなきゃな……

そう思うのに、頭とは裏腹に、わたしの内心は静かに昂っていた。


雷、きれいだな……。


窓に、近づく。机をかきわけて、それまでも雷は何度か鳴って、わたしの心臓が跳ねる。床を蹴る足音が強くなる。


窓の前にたどり着いて、私はできるだけ、目を窓に近づけた。横から流れる髪が邪魔で、手で押さえる。


一瞬ぴかっと走る稲妻も、暴力的な音も。とても、とてつもなく、きれい。

わたしはひとりで、興奮する。

きれい、すごく、すごくね、すき。

思わず、窓を叩いてしまいそう。


きっと、今外にいる人を等しく、おびやかしているんだろう。どんな人も。強い人も、弱い人も。南ちゃんみたいな人も、ゴミみたいな人も、わたしみたいに平凡で、退屈で、死んじゃいそうな人間もーー


絶対的な力。わたしのほしい力。


「きれい……」


「何してるの?」


その唐突な声に、体がびくっと震えた。


恐る恐るふり向くと、ドアのそばに生徒が1人、立っていた。女子だとはわかるけど、暗くてあまり見えない。


「雷? 見てるの、君」


そう言いながらつかつかと無遠慮に、その人は教室に入ってきた。

固まっていると、あっという間に目の前まで。その人は、どこか見覚えがあった。


「ねえ、きれいってなに?」


わたしより10センチくらい高い、目線……ああ、思い出した。確か隣のクラスの、


有園ありぞのさん?」


喋ったことはないのに、彼女は驚かなかった。だから何、みたいな顔をしてわたしを見下ろす。


「そうだけど。それで君は何してるの?」


「……雷、みてた」


また一際大きく、雷鳴が響く。有園さんの顔が照らされる。


肩より上で切り揃えられた、真っ直ぐな髪。噂通りの、どのパーツも整った……うつくしい顔。その薄桃色のくちびるが、弧を描く。


「電車、止まったって。……君、馬鹿だね」


初対面で。馬鹿って、嘲笑された。きっと怒るところだ。

でも、わたしは、雷を見たときか、それ以上にーー心臓がどくどく、した。


……鋭くて、つめたい瞳。刃物みたいな言葉。

加虐のひとだ、って。わたしのなりたい……雷みたいな人だって、思ったから。




有園さんは教室の後方の床にあぐらで座った。そばにはぺたんこの制鞄。リアルな梟のキーホルダーがついていて、意外なのかそうじゃないかはわからなかった。


「有園さんは……なんで、残ってたの?」


普段だったらきっと話しかけない。平々凡々な、どちらかというと大人しい部類のわたしは、きらきらして気の強そうな運動部系とはあんまり関わりたくないから。怖いし。私の憧れる「怖い」でもないし。


でも、今は誰もいない……こんな状況でさすがに、無視はされないだろう。だから、なんとなく、声をかけてみた。


「部活」


そっけなく、有園さんは答えた。


「へー……何部?」


「数学部」


あ、運動部じゃなかった。数学部、かあ。名前だけやけに堅そうだけど、確か数学しないんじゃなかったっけ。なら、まあ、納得?


そこで会話は途切れて、わたしはぼけっと立っていた。有園さんは鞄の中を漁っていたけれど、スマホを忘れたのか、結局何も出さないでチャックをしめた。


「……ひま」


「暇、だね」


「……君、立ってないでこっちきたら」


気だるげに、気まぐれに。たいした意味はないのだろうけど、彼女がそう言ったので、わたしは有園さんから1メートルくらい離れた距離に体育座りした。


「名前は?」


「長谷川。……長谷川、優菜」


「ふうん。で、なに居残り?」


「面談。南ちゃんと」


「あ、そ……長谷川の面談、つまんなそう」


有園さんはきれいに笑う。暗につまらない人間と言われているわけだけど、不快とは思わなかった。


強者、だから。有園千智ありぞのちさとは容姿が完璧で、頭もいいらしいし、きっと運動もできる。スクールカースト、で言うなら1軍のトップに立つような人。

口と性格が悪い、喋らなければ美少女、なんて言う人もいるけど……そこが、いいんじゃない。

容姿も能力も欠点がなくて、性格だけ悪いなんて、それこそ完璧。


完璧な、加虐者。


「有園さんは、面談終わった?」


「先週やった」


「何話したの?」


「べつに……理系の、選択する科目とか。あと、医学部志望のこととか」


「え、有園さん、医師になるの?」


意外だった。成績的には行けると思うけど……人を救う職業、みたいなイメージがあったから。有園さんとは離れているような……あ、でも白衣は似合いそう。


わたしが馬鹿みたいなことを考えていると、彼女はそれを見透かしたみたいにうっすら笑った。


「ひとを、開いてみたくない?」


ああ、最低だ……わたしは、深くそう思った。志望動機も、それを口にしてしまえるのも、そのさまさえ美しいのも。

怖い人……叩きたいとも、虐げたいとも思わない。被虐の姿が思いつかない。

やっぱり、雷、なんだよ。


返事をしない私に、有園さんは急に冷めた顔をして、


「長谷川には、わかんないよね」


と吐き捨てた。雷鳴が遠くに、聞こえる。


わかる、って言ったらどうだろう。嘲笑でもされるのだろうか。わからない、と言ったら? やはり、嘲笑されそうな気がする。 


どちらかと言えば、わからない。人の中身はさすがにグロいし、たとえ興味があっても、それだけで進路を決めたりしないだろう。有園さんもそれだけ、ではないかもだけど。


でも加虐的なこころがあるのはわかるよ、なんて……言ったら、うん、気持ち悪がられそう。 


勝手に有園さん像をつくっていると、当の本人は地べたに座ったまま何かを食べていた。

パウチの中から一粒ずつ、つまんでは口へ運んでいる。キューブ型のチョコレートだった。


「チョコ、好きなの?」


「見てればわかるでしょ」


一蹴。そうですね、わかります、好きなんでしょう。でも確かめたかったんです。甘いもの好きな印象、なかったから。そう、内心でひとりごちる。


爪がつやつやだなあ、なんて思って見ている間も有園さんは手を止めない。チョコレートは細い喉に飲み込まれ、飲み込まれ。


あっという間にパウチは空になった。そして彼女の手は流れるように鞄へゆき、今度は細長いーーマーブルチョコの筒、を。


わたしは驚いて、まじまじと彼女の顔を見た。少し色素の淡い、グレーの瞳。わたしを見ることはない。無表情に、ただカラフルな丸を咀嚼している。


そしてそれは気がついたらアポロに変わり、まんまるに変わり、二度目のキューブに変わる。


唇がうごく。喉がうごく。手がうごく。

有園さんが食べている。地べたに座って、ただひたすらに。


わたしは、なぜこんなものを真剣に見ているのだろう。……でも、見てしまう。

うつくしい人が、怪物みたいに食べているから。


「……君さあ」


「ぁへっ」


思わず変な声が出てしまった。唐突に呼びかけられて、心臓がどくどくする。


グレーの瞳がわたしを見ている。


「窓の外見てたときと、おんなじ目してる。……気持ち悪い目」


軽蔑を隠そうともせず。でもどこか、愉しげに。有園さんは唇の端を釣り上げる。


「人が食べてるの見るのさあ、楽しい?」


「……ひと、じゃなくて、有園さんだよ」


気持ち悪い、って言われたとき。褒められたと思ったから。

こいつ意外とつまんなくないのかもって、暇つぶしくらいにはなるんじゃない、って。

有園さんが少しだけわたしに……期待したような気がしたから。


「きれいな有園さんが、チョコレートがぶがぶ食べてるから。……見てたいなあって」


「意味わかんない。何、私のこと好きなの?」


「……すき、だよ。雷と同じくらい」


できるだけ正確に、想いを伝えようとしたら。


有園さんは立ち上がって、わたしの肩を突き飛ばした。


「……なんなの、君」


私は床に背中を打ちつけた。頭はどうにか、ぶつからずにすんだ。


有園さんはというと、わたしに覆い被さってーーわたしを、見下ろしていた。

苦い顔で、目をぎらぎらさせて、くちは弧を、描いて。

わたしが決して逆らえない、至上の加虐者の顔を、していた。


「きもちわっるい、ね」


じゃあ、わたしは、どんな顔をしているのだろう。

被虐者の顔? 加虐者の顔?

聞いてみたい。この人に、このどこまでも強くてぐちゃぐちゃに美しい人に、わたしは、どんなふうに映るのか。


「ありぞのさん、わたし、」


言葉は続かなかった。有園さんによって封じられた。

口に捩じ込まれた、たくさんのチョコレート。わたしは息ができなくなって、からだのすべてで咳き込んだ。


「うえっ、げほっ、っ、う、」


苦しいと思いながら、頭のどこかでは、あ、あまいなあ、なんて、のんきに。


「雷……かみなり、ね」


彼女は、うずくまるわたしなんてお構いなしにーー窓の外を、見ていた。


雨が降っている。雷が鳴ってる。それすら、どうでも良さそうだった。

だからきっと、有園さんは雷なんだ。


憧れてるだけのわたしは、これからもずっとつまらなくて……そこには辿り着けなくて。

でも、いい。それでいい、それがいい。

すべてを捻じ伏せる力なんか、なくたって……

だって雷は、遠いからきれいなの。


「あ……そうだ、長谷川はさあ」


有園さんは、思い出したようにわたしを見下ろした。


「文系? 理系?」


「……文系」


ああやっぱり、という。嘲るような顔をして。有園さんはまた、チョコレートのパウチを開けた。


「何かになれたら……ああ、君は、何にもなれないか」


そうだよ、と言った声がかすれた。胸にはまだ苦しさが残っていて、それは、もう二度と味あわないたぐいなのだろうと、思った。


床に仰向けになったまま、わたしは目を閉じて。……雷の鳴る音と、口に少しだけ残ったチョコレートの甘さだけを、感じて、反芻した。


電車が動き出したって、放送が入るまで……このままで。いまだけ、で……いいから。
























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雷鳴とチョコレート 千蔭えく @nanohana_yagi

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