ある女の幻想
紫陽_凛
ある女
絶えず、機械が空気を掻き回している。それは箱の中の濡れた衣類を乾かすためであり、他人の臭気で満ちるこの空間を清潔に保つためでもある。天井のファンは周り続けている。わたしは一人、機械運動が終わるのを待っている。
衣類が洗浄され乾燥されるあいだじゅう、わたしは考え事をしている。
それは地球外生命のことであり、地球が生まれる以前から存在する絶対的な神のことである。名前は知らない。姿も形も知らない。ただそこに在り、気づけばそこに居り、わたしの意識のはるか外にそれは存在する。そう想像する。それが実在すると仮定する。「それ」は、ここで余暇をつぶしているわたしを見るだろうか。「それ」はわたしを、認識するだろうか。プレパラートの上の生命、シャーレの中の人生。顕微鏡で暴かれる身体──最近のわたしの関心は、そうした地球の外の存在と、その宇宙の生命に自分を暴かれる妄想にふけることにあった。
ふと顔をあげると、コインランドリーの待合の木製のベンチに、美しい女が腰掛けていた。いつからいたのだろう。マスクを掛けているから目元しか見えないけれども、女優か、モデルかと言った具合で、しかしどこでも見たことがないような、不思議な顔だった。特徴という特徴がないのに、はたと目を奪われる美しさがそこにあった。わたしは、大学の頃読んでいた泉鏡花の「外科室」を思い出した。女を見ると、あの耽美な世界で、医師高峰に暴かれた貴船夫人のことが頭に浮かんだ。
女は何もせずに手をだらりと脱力させ、何かに取り憑かれたように細い肩を壁に預け、わずかに上向けた顔は天井を向き、空疎に空気を攪拌し続けるファンを見つめていた。
「しにたい──」
ふと鈴のような声がそう言った。女の声である、と認識するのに時間がかかった。わたしは貴船夫人の顔をその女の上に見、そしてその胸を開いて執刀する高峰の亡霊を見た。
・・・
その女を再び見かけたのは、街の小さな銭湯であった。入れ替わり立ち替わり腕や腹の弛んだ老婆たちが行き交う中、女は一人で、裸を隠すことなくさらし、頭にタオルを乗せていた。長い黒髪はゆいあげてあったけれども、一房、首筋に沿って胸元へと流れ落ちるのがあった。
豊かな肢体である。わたしの貧相な体と比べれば、丸みをおびた肉付きも美しい稜線を形作る乳房もハリのある肌も、熱さにほてった赤い肌さえ蠱惑的だった。わたしはあのコインランドリーの時と同じように、女の斜向かいに浸かり、ゆっくりと湯を楽しんだ。
女の肌にはどういうわけか蛇がいた。大きなアオダイショウであった。銭湯の戸口に「刺青/タトゥーお断り」と描いてあったが、女のそれは刺青などではなく、生きていた。背中に隠れていたのが出てきたらしい、女のふくよかな腹や丸い腿、豊満な胸の上を這いずり、長い舌を伸ばして女の顎を弄んだ。女はしきりに身を捩り、それを追い払おうとするかのように手を振った。
「もう、しんじゃえば、いいのに──」
あの鈴の声で女がいう。
気づけば、あんなにたくさんいた老婆たちが消え失せていた。わたしと女だけになった浴槽はひどく広く、そして途方もなく寂しく思えた。
わたしは空気を掻き回すファンを探した。しかし、空気を無表情に吸い込む換気口だけが黒々と口を開けていた。ふと女へ視線を戻すと、ぐったりとして、今にも浴槽の中に沈み込むといった具合だった。わたしはあわててかけより、女の体をだきよせた。女の結髪が解けて、わたしの乳房にはりついた。
わたしは女を湯船から引き揚げて銭湯の係のひとを呼んだ。飛んできた係の女性はすぐに救急車を呼び、肢体を隠すためにタオルをかけられた女はいそぎ運び出されていった。わたしはぼんやりとその様子を見守っていたが、ふと体に視線を落とすと、そこに女の長い黒髪が一本と言わず、数え切れぬほど張り付いて皮膚の上に浮いていた。わたしにはそれが、女の体を這いずっていた蛇の子供のように思えた。
・・・
あのあと、女が死んだらしいと新聞記事に載った。わたしはコインランドリーのファンの音を聞きながら、地方紙のその小さな切り抜きを見つめた。女は暴かれることなく死んだのだろうか。その身に飼っていたあのアオダイショウを、誰にも見つけてもらえずに死んだのだろうか。
顔をあげると、乾燥機の中から巨大な蛇の目がこちらを見ていた。乾燥機という乾燥機の中に目玉はあった。見られている、探られている、そして睨まれている……。わたしはおそるおそる胸元を覗き込む。蛇がいた。小さな蛇だった。わたしは見られている。
ふと顔をあげると、中年女が座って本を読んでいた。目が遭う。
小さな新聞の切り抜きに載った女の顔は、あの美しい女と似ても似つかない。
ある女の幻想 紫陽_凛 @syw_rin
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