第30話
かららんとドアの鐘が鳴った。マスターが顔を上げ入り口を見ると、まず昆布茶色のお召のお対、つまりはアンサンブルの着物が目に入った。纏うのは男である。どこか柔らかな光と髪質を内在するツーブロックの黒髪に、鼻当てを必要としないレノンタイプの丸眼鏡。その奥にある童顔は柔和な笑みを湛えている。
「ああ、
「こんにちは」
マスターに川端と呼ばれた男は、低くゆったりとした口調で挨拶をすると目礼した。次いでその視線が店内の奥を見る。
「アスラ君」
「うーい。まってたよぉ」
衝立の向こう側からパフェ用スプーンを掴んだ手が伸びあがり、ふらふらとやる気なく左右に揺れる。川端は目元を薄く細めると、桐焼きの雪駄を進めて店内の奥へ向かった。
定席でこれも常の如くクリームソーダをぱくついていたアスラの目の前に、ぱさりと紙束が置かれる。
「御所望の品ですよ」
「さんきゅー。さすが先生、仕事がはやーい」
「振り込みは待ちませんからね」
「わかってるってばぁ」
唇を左右にひん曲げると、アスラはパフェスプーンをグラスの中に突っ込んだ。アイスは食べきり、残りは白い濁りを抱えた鮮やかな蛍光グリーンの液体だけになっている。家業は骨董屋、副業は作家という、どこからどう見積もってもジリ貧のイメージしか湧かない職業の川端がアルバイトとしてアスラから請け負う
「まったく、人間ってーのはどうしてこう金払いにうるさいのかねぇ」
「人間と
肩を竦めつつ、川端はアスラの面と向かいに座る。それに合わせて水を運んできたマスターに川端は微笑みつつ目礼する。グラスを手に取り一口冷水を嚥下してから、川端はアスラを見た。
「賃金の支払いに対して契約とその実現努力が評価対象となるのは資本主義経済圏の道理ですよ。そもそもこれは東アジア、主に中華圏で発展した科挙制度が騎馬民族の移動によって新たな価値観として身分社会の西洋に輸入されたことに端を発しており――」
「あーあーあーあーそういうややこしいめんどくさいのいらない! ぼくそういうの覚える気ないからやめて!」
書類を掴んだまま両耳を塞いで「あーあー」と叫ぶアスラに、マスターの「うるせぇ!」という怒声が届いた。
「まあ、僕は代金をきちんと支払っていただければそれでいいです。幸い次の作品の取材を兼ねられそうでしたから、割引はしてありますからね」
言いつつ、川端は懐から一枚のペラ紙を出してアスラの前においた。請求書である。否そうな顔でそれを取り上げるとアスラは眉間に皺を寄せた。
「あらぁ、それはそれは、大変よろしゅうございましたね――ってそれでもこの額かよ⁉」
「何をおっしゃる。最低限ですよ」
「アスラうるせぇ」
「きいい! 人間嫌い!」
唸り声を上げつつも、アスラは書類に目を通してゆく。その表情は次第に真顔へと変わっていった。右手で口元をさすりつつ、猫のような丸く大きな目を険しくさせてゆく。
「川端、これマジで?」
「はい。教団自体の設立は今から二十年ほど前になるのですが、調べてみるとそれ以前からこの「ほうりきほう、りきりき」という言葉と、転ぶという動作を行うことによって何かしらが奪われるという現象が並列している例が散見されたんですよ」
「ここに書いてあるだけでも十件はあるが?」
川端は「いつどこで誰が体験したか、あるいは見聞きしたかまで手繰れたものが十件、ということです」と苦笑した。
と、再びかららんと音がした。全員で振り返ると、そこに二人と一匹が姿を現していた。
「お、遅れたか?」
ドアを押さえつつ、猫を抱えた少女を先に通す志賀の言葉に川端は「私もいま来たばかりです」と微笑む。
「マスター、あたしお腹すいちゃった。今日のランチってなに?」
腕に抱えていた猫をとなりに立つ志賀へ手渡しつつ、マスターにそう問いかけた色白の美少女は、纏っていた萌黄色のコートを脱いで近くのハンガーラックにかけた。飛びぬけた小顔を華奢なスタイルの上に乗せて、それをピンクのフェミニンなワンピースに包んでいる。
「いらっしゃいませ、滝沢さん。志賀さん。それにタマエちゃんも」
志賀の腕でタマエが「なああん」と声を上げる。身をよじってするりと志賀の腕から飛び下りると、タマエは店の片隅にある一人がけ用のソファに飛びあがり、ぐるりとその身を丸くした。
アスラはにやりと笑みつつ、二人へ向かって手を上げた。
「こんで全員集合だねー」
カウンター前のスツールへ腰を下ろした志賀と滝沢に、マスターは「今日はドリアを仕込んでありますけど、オムライスもできますよ」と本日のメニューについて説明する。
「あたしドリア」
「俺も」
志賀と滝沢に続きアスラが「ぼくも!」と手を上げる。マスターの目が自分に向いたのを認めた川端は「お茶だけ下さい」と答えた。
「東方美人で?」
「お願いします」
全員の食事を用意するマスターを横目に、滝沢は鞄の中からノートパソコンを取り出した。志賀は同じ鞄から充電コードを取り出し、勝手にそのプラグをカウンター下のコンセントに繋ぐ。
「ありがと」
キーを叩きながら礼を言う滝沢に「ん」とだけ返し、志賀はレジ横に置かれていたミントガムをつまんで自身の口の中へ放り込んだ。
志賀と滝沢、一見
滝沢がパソコンに向かう隣で、川端が事前にアスラとしたやり取りをかいつまんで説明する。
「
志賀の言葉に「おてんとうさまだもんねぇ、安直だよねぇ」とアスラが唇を尖らせる。
「ねぇアスラ。とりあえずその
スクリーンを見つつ問う滝沢に、アスラは背凭れへふんぞり返ったまま「うぃ、おなしゃーす」とやる気なく答えた。
「最初に出たのは、いつものオカルト掲示板ね。二十数年前、名無しのAを名乗る女が小学生のころに見た怪談的な夢をきっかけにして、自分にはおてんとうさまっていう怪異がとり憑いたっていうのを語り部調で公開した話があるんだけど」
「おお?」
「それが投稿された翌日には削除されててさ、まあいつもの通りうちの怪談オタメンが蒐集してデータ取ってたんだけど。ああ、これこれ」
滝沢が開いて見せた画面に、全員が席を離れて目を通した。
https://kakuyomu.jp/works/16818093088983248283/episodes/16818093089092455069
「うええ……これ完璧におてんとうさまのとり憑き譚じゃん」
画面を覗きこんだアスラが腰を曲げつつ顔をしかめて見せるのに、滝沢は「そういうこと」とくるりスツールを回して彼に向き合った。
「一応追加で調べてくれてたんだけど、この話に出てきたM県T小学校、ほんとに火事で焼失してるわね。その火事で一年生の担任が一人亡くなってるわ」
「つまりそのAの作り話じゃなかったってことか」
志賀の確認に滝沢は「みたいね」と首肯した。
「滝沢ぁ、そのいつメンさんに、ほんとお礼言っといてー」
「うん。でね、この書き込み、削除前に書き込み主に対してコメントでDM許可とってたヤツがいたわけ」
「ほほう」
「メン曰く、そのDMしたヤツが教団設立の立役者なんじゃないかって」
「ああ、なるほどつまり」
横から川端が声をはさんだ。
「このおてんとうさまが実在の怪異であると承知していた者が、この書き込みから現在のおてんとうさまの所有者がこのA某であると把握し、A某に対してコンタクトを取って、怪異を本尊として回収。これを用いて実のある宗教として展開させたと。そしてそれが繋がった痕跡を消すために書き込みを削除させた」
「うん。そういうことだろうね。あたしもそう思った」
川端に頷いて返すと、滝沢は唇を尖らせ自分の前髪に息を吹きかけた。
アスラが顔を険しくしつつ天井に顔を向ける。
「しっかし、昨今は怪異も神もみんな科学技術だのみだねぇ」
「あんたが言えた義理じゃないでしょうが」と滝沢が呆れ声を出す。「その科学技術に頼って仮体を志賀に用意してもらわないと使命も全うできない〈死神〉が何言ってんの?」
「はいはいだから皆々様には感謝してますってば!」
近くにあった椅子を引き摺り、アスラは背もたれを跨ぐ形で腰をおろす。
「人間社会に干渉してこれを利用するためには身体が要る。そしてそれを用意してもらうためには金が要る。情報収集してもらうためにも金が要る。金カネかね! 地獄の沙汰はぜーんぶ金次第だよほんと厭になっちゃう! 人間の謙虚な信心はいったいどこいっちゃったのさ! 身を粉にして神のためにお役に立ちましょうってヤツは現代にはもう存在してないの⁉」
「その神のくださる御利益が現世じゃ役に立たないからでしょうが。大体その人間の信心がないと存在すら維持できない神が何言ってんの?」
「ぎゃー! ほんと若い女って口に容赦ないんだからもう!」
姦しい二人を後目に「なるほど」と呟いてから川端は瞬きした。
「これは、いわゆる転バシ、の変異種のようなものなんでしょうね」
と、眼鏡のブリッジをくいと押し上げつつ、川端は結ぶ。
「転バシ?」
椅子の背もたれに身を預けつつアスラが小首を傾げて聞き返したのに対し、川端は「妖怪の一種です」とやわらかく微笑みながら昆布茶色の着物で
「例えば高知のタテクリカエシや福島の
「テンゴとやらが欲したものを自らの意志で転ばせた――てことか」
難しい顔で呟く志賀に、川端は「はい」と首肯する。
「何によって転ばしたかは明言されていませんが、文脈からして〈怨恨〉――黒毛玉が用いられていることは明白でしょう。ここからは私の想像の域を出ませんが、この滝沢さんが下さった情報を加味して総合するに、これは人間を介して移動しつつ呪詛に相当する物を収集するタイプの怪異と見なしてよいと思われます」
「というと?」
「お話中すいません、川端さんどうぞ」
マスターが用意した茶を、彼に代わって志賀が受けとり、川端の前へ置く。川端は志賀を見て目礼すると、皆の方へ視線を戻した。
「このA某というの――恐らく、桑名春絵さんの姉の、山路秋帆さんではないですかね」
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