【中世ヨーロッパ短編少女小説】七日間の旋律 ―ある貴族令嬢の目覚め La Rosa sulla Rupe ―(9,973字)

藍埜佑(あいのたすく)

【中世ヨーロッパ短編少女小説】七日間の旋律 ―ある貴族令嬢の目覚め La Rosa sulla Rupe ―(9,973字)

## プロローグ:アルバ・デッラ・ロッカの肖像


 ティタノ山の岩壁に、最初の朝日が差し込んだ。淡い光は、幾重にも重なる石壁の襞を優しく照らし、まだ目覚めぬ町を静かに包み込んでいく。その岩肌に寄り添うように建つ邸宅の一室で、一人の少女が深い眠りについていた。


 アルバ・デッラ・ロッカ。サンマリノ共和国の有力貴族デッラ・ロッカ家の一人娘である。今年で十六を数える春に、彼女は初めて「大人」という言葉の重みを感じ始めていた。


 寝台に横たわる少女の髪は、熟れた栗のような深い茶色。その名の由来となった「暁」のような白みを帯びた肌は、貴族の子女にふさわしい清廉さを湛えている。長い睫が影を落とす横顔は、父方の血を引く古いローマの血統を思わせた。


 デッラ・ロッカ家の当主ジュリアーノは、評議会の重鎮として知られる人物だ。ティタノ山の開拓に貢献した功績により、この地に最初の居住権を得た家系の一つである。妻のベアトリーチェは、ラヴェンナの名家の出身。その気品ある立ち居振る舞いは、今なお多くの貴婦人たちの範とされている。


 アルバは、そんな両親のもとで、厳格かつ慈愛に満ちた教育を受けて育った。聖書の教えと古典文学、織物や刺繍の技芸、そして何より、この新しい共和国の理念??。それらはすべて、深窓の令嬢にふさわしい教養として、彼女の血肉となっていった。


 だが、そんな彼女の心に、この春から小さな疑問が芽生え始めていた。


 この岩壁の上で、守られるように暮らしてきた日々。それは確かに安らかで慈しみに満ちていた。しかし、時折吹き込んでくる風に乗って、彼女の耳に届く下界の声は、どこか魅惑的な響きを持っている。市場のざわめき、商人たちの活気ある声、遠くから聞こえてくる馬車の轟き――。


 そんな彼女の前に、一つの転機が訪れようとしていた。


 この一週間は、従姉妹マルゲリータの結婚式に向けた準備の日々となる。十八を迎えたマルゲリータは、ラヴェンナの商人の息子との縁組が決まった。その祝宴には、遠くビザンツからも来賓が訪れるという。


 これまで経験したことのない世界との出会い。それは、アルバの心に、どんな変化をもたらすのだろうか。


●第一章:月曜日 - 目覚めの朝


 夜明け前の静寂を破って、マトゥティヌム早朝の祈りの鐘が鳴り響いた。


「お嬢様、お目覚めの時間でございます」


 侍女長のアンナの声が、寝室の扉越しに優しく響く。アルバは、まどろみの中から意識を取り戻していく。


 石造りの寝室に、まだ薄暗い空からの光が差し込んでいた。寝台の天蓋から垂れる深緑のカーテンの隙間から、朝もやに包まれたティタノ山の稜線が見える。


「はい、起きております」


 アルバは返事をしながら、ゆっくりと体を起こした。侍女たちが静かに入室し、朝の支度を手伝い始める。


 まず、長い下着の上から、麻製の白いカミーシャを着付けられる。その上から、淡い青色のダルマティカを羽織った。袖口と裾には、金糸で精緻な刺繍が施されている。これは、去年の誕生日に母から贈られた大切な衣装だった。


 髪は、侍女のマリアが丁寧に梳かしていく。栗色の長い髪を、編み込みながら後ろで束ね、白い布で覆う。これが、未婚の貴族の娘にふさわしい装いとされていた。


「今日から、お従姉様の結婚式の準備が始まりますね」


 マリアが、櫛を入れながら話しかける。


「ええ。母上も、今日からは普段以上に気を引き締めるようにとおっしゃっていました」


 アルバは小さく溜息をつく。結婚式の準備とはいえ、普段の生活よりも更に規律正しい振る舞いを求められることに、少しばかりの重圧を感じていた。


 身支度を整えたアルバは、両親の待つ食堂へと向かう。石造りの廊下を歩く足音が、静かに響く。壁に掛けられた聖母子の絵の前で、彼女は短い祈りを捧げた。そして食堂に入る。


「おはよう、アルバ」


 父の声は、いつもながら温かく力強い。


「おはようございます、父上、母上」


 アルバは丁寧に挨拶を交わし、自分の席に着く。テーブルには、すでに朝食が用意されていた。


 パンと蜂蜜、乾燥イチジク、そして温かいヤギのミルク。質素ではあるが、デッラ・ロッカ家の朝の食卓には、常に感謝の祈りが捧げられる。


「今日から一週間、マルゲリータの結婚式の準備が始まります」


 母が、端正な顔を向けながら語りかける。


「ええ。何かお手伝いできることがございましたら」


「ありがとう。今日は、まず結婚式で着用する衣装の仕上げを手伝っていただきたいの。午後からは、お客様の接待の作法の復習もいたしましょう」


 アルバは静かに頷く。刺繍には自信があった。幼い頃から、母の指導の下で研鑽を積んできたのだ。


「ビザンツからの賓客も来られる」


 父が、珍しく食事の手を止めて口を開く。


「どうか、デッラ・ロッカ家の誉れを保つように」


「はい、父上」


 アルバは、背筋を正して応えた。だが、その胸の内では、小さな期待が芽生えていた。ビザンツからの来客――。それは、この岩壁の上では決して触れることのできない、遠い世界の風を運んでくるかもしれない。


 食事を終えると、アルバは母と共に、邸宅の東棟にある仕事部屋へと向かった。そこには、すでに数人の侍女たちが、布地や糸を整えて待っていた。


 大きな窓から差し込む朝の光の中、アルバは静かに針を手に取る。祝宴の衣装となる白い絹地に、金糸で花模様を縫い取っていく。一針一針に、祝福の想いを込めながら。


 正午の鐘が鳴り、昼食の時間となった。この日の食卓には、父の姿はない。評議会の仕事で、市の中心部へ出かけているという。


 午後は、母の指導の下、来客の接待作法を確認する。ビザンツからの賓客に対する礼儀作法は、特に重要とされた。


 夕暮れ時になると、再び祈りの鐘が鳴る。ヴェスペルス夕べの祈りの時間だ。家族そろって、邸宅の小礼拝堂で祈りを捧げる。


 夕食後、アルバは自室に戻った。窓辺に立ち、暮れゆく空を眺める。山の斜面に連なる家々の明かりが、宝石のように輝き始めていた。


 遠くの市場からは、まだかすかに人々の声が聞こえてくる。それは、この高い岩壁の上からは決して触れることのできない、もう一つの世界の音だった。


 寝台に横たわりながら、アルバは考える。この一週間は、きっと自分の中で何かが変わる予感がする。それは期待なのか、それとも不安なのか。答えは、まだ見えない。


 暗闇の中で、彼女はゆっくりと目を閉じた。明日もまた、新しい一日が始まる。


●第二章:火曜日 - 刺繍の糸


 火曜日の朝は、いつもより早く目覚めた。夜明け前の空気は、まだひんやりとしている。


 窓辺に立ち、山々を覆う薄明かりを眺めていると、昨夜見た不思議な夢を思い出す。見知らぬ街の市場を歩く夢。色とりどりの織物や、エキゾチックな香辛料の匂い。そして、どこからか聞こえてくる異国の言葉……。


「お嬢様」


 アンナの声で、夢想から現実に引き戻される。今日も、日課が始まる。


 朝食の席で、母から今日の予定を告げられる。


「今日は、マルゲリータが午前中に来ることになっています」


 アルバの心が、少し高鳴る。従姉妹との再会は、いつも楽しみだった。


「衣装合わせをしながら、結婚式の細かな打ち合わせをいたしましょう」


 母の声には、いつもより柔らかな響きがある。マルゲリータは、母の姉の一人娘。母にとっても、実の娘同然なのだ。


 果たして、午前中のうちに馬車の音が聞こえてきた。玄関に集まった侍女たちの間を縫うように、マルゲリータが姿を現す。


「アルバ! 久しぶり」


 従姉妹は、いつもの明るい笑顔で駆け寄ってきた。


「マルゲリータ、お久しぶりです」


 アルバも思わず笑みがこぼれる。マルゲリータは、自分より二つ年上。幼い頃から、姉のように慕ってきた。


「さあ、お二人とも。仕事部屋へ参りましょう」


 母の声に促され、三人で東棟へと向かう。


 仕事部屋では、純白の結婚衣装が、太陽の光を浴びて輝いていた。長いヴェールには、アルバが昨日から刺繍を施し始めた花模様が、まだわずかに姿を見せている。


「まあ、なんて素敵な刺繍!」


 マルゲリータが歓声を上げる。


「アルバの腕前は、本当に素晴らしいわ」


 母も、満足げな表情を浮かべる。


「これからお式の打ち合わせをいたしましょう」


 母が、大きな羊皮紙を広げる。そこには、結婚式の段取りが細かく書き記されていた。


「ビザンツからは、皇帝の使節も来られます」


 母の言葉に、マルゲリータの表情が少し緊張する。


「私……きちんとできるでしょうか」


「大丈夫よ。あなたは立派な花嫁になる」


 母が、優しく微笑む。


「それに、アルバも付き添いとしてそばにいてくれるわ」


 その言葉に、アルバは驚いて顔を上げた。


「私が……?」


「ええ。あなたは、従姉妹として、そして親族の代表としてマルゲリータの傍らに立つのよ」


 母の声には、揺るぎない信頼が込められていた。


「光栄です」


 アルバは深々と頭を下げる。だが、その胸の内では、期待と不安が入り混じっていた。


 午前中いっぱいをかけて、衣装合わせと打ち合わせが続く。昼食は三人で共にした。食卓では、マルゲリータの婚約者の話題で持ちきりとなる。


「ジョヴァンニは、本当に優しい人なの」


 マルゲリータの頬が、薔薇色に染まる。


「ラヴェンナでの新生活は、きっと素晴らしいものになるわ」


 その言葉を聞きながら、アルバは考え込む。いずれ自分にも訪れるであろう結婚。それは、この岩壁の上の生活からの旅立ちを意味するのだろうか。


 午後になり、マルゲリータが帰った後も、アルバは仕事部屋で刺繍を続けた。金糸が織り成す花々は、今や、花嫁の幸せを祝福するかのように、ヴェールの上で輝きを増している。


「アルバ」


 夕暮れ時、母が静かに声をかけてきた。


「はい」


「結婚式の準備は、あなたにとっても大切な経験になるでしょう」


 母の声は、いつになく深い響きを持っていた。


「自分の立場と責任を理解し、しかし、同時に自分の心も大切にする――。それが、私たち貴族の娘に求められることなのよ」


 アルバは黙って頷く。母の言葉の意味を、少しずつ理解し始めていた。


 その夜、寝台に横たわりながら、アルバは今日一日を振り返る。従姉妹の幸せそうな表情。母の言葉。そして、自分の心の中に芽生えた、小さな憧れ。


 窓の外では、月が岩壁を優しく照らしていた。


●第三章:水曜日 - 雨の訪問者


 水曜日の朝は、どんよりとした雨雲が空を覆っていた。


 朝食の席で、父が珍しく長居をしている。


「今日は、ビザンツからの使者が事前の挨拶に来られる」


 父の声には、普段より緊張が感じられた。


「二人とも、万全の準備をするように」


 母とアルバは、厳かに頷く。


 午前中、アルバは母と共に、応接間の準備に追われた。最高級の絨毯が敷かれ、壁には家紋が掲げられる。銀の燭台が磨かれ、香炉には新しい香が置かれた。


 正午過ぎ、遠くで馬の蹄の音が聞こえ始めた。


「来られたようね」


 母の声が、静かに響く。


 玄関に集まった家人たちが、恭しく頭を下げる中、一行が姿を現した。先頭を行く使者は、紫がかった深い青の衣装に身を包み、威厳に満ちた様子でそびえ立っていた。


「ようこそ、デッラ・ロッカ家へ」


 父が、流暢なギリシャ語で歓迎の言葉を述べる。


 使者の名は、テオドロス。皇帝の信任の厚い外交官だという。その後ろには、数人の随員が控えていた。


 応接間での歓談が始まる。アルバは、母の傍らで黙って座っていたが、耳に届くビザンツの言葉の響きに、密かな心躍りを覚えていた。


 やがて、結婚式の話題となる。


「陛下も、この地での結婚式にご関心をお持ちです」


 テオドロスの声には、どこか打ち解けた響きが混じり始めていた。


「サンマリノは、ビザンツ帝国の重要な同盟者。この結婚を通じて、更なる絆が深まることを願っております」


 ごくごく政治的な意味を持つ言葉だったが、その表情には人間的な温かみも感じられた。


 雨音の響く応接間で、アルバは母の傍らに座りながら、そっと視線を巡らせていた。ビザンツからの使節団の様子は、彼女の目には新鮮な驚きに満ちていた。


 テオドロスの随員たちは、サンマリノの貴族たちとは明らかに異なる雰囲気を纏っていた。その立ち居振る舞いには、遠い都の洗練された文化が表れている。彼らの衣服の襞の一つ一つにさえ、異国の美意識が感じられた。


 特に彼女の注意を引いたのは、一人の若い書記官だった。他の随員たちより少し後ろに控えめに座り、時折主人の言葉を羊皮紙に記している。二十代半ばといったところか。端正な顔立ちと知的な眼差しは、どこか物語に出てくる学者のようだった。


 しかし、何より彼女の目を惹きつけたのは、書記官が携えていた一冊の書物だった。雨に濡れぬよう、大切そうに抱えられたその本の装丁は、アルバがこれまで見たどの書物とも違っていた。


 深い紫の革で装われた表紙には、金箔で精緻な文様が施されている。幾何学的な模様の中に、見たこともない花々が咲き誇っていた。背表紙には、ギリシャ文字らしき金文字が浮かび上がっている。本を留める留め金も、繊細な細工が施された金具だった。


 その書物は、まるで遠い都の物語そのものが形を成したかのようだった。アルバは、その中にどんな世界が描かれているのか、強い好奇心に駆られた。宮廷の様子だろうか、はたまた聖者の物語だろうか。あるいは、詩や哲学の言葉だろうか。


 夕方近く、雨が小止みになったところで、一行は出発の準備を始めた。


「素晴らしいおもてなし、ありがとうございました」


 テオドロスが、今度はラテン語で礼を述べる。


 見送りの際、その若い書記官が一瞬アルバの方を振り返った。知的な輝きを湛えた瞳が、一瞬彼女と合う。アルバは慌てて目を伏せたが、その胸の内では、小さな動揺が渦を巻いていた。


 その夜、父は珍しく機嫌が良かった。


「よくやってくれた」


 夕食の席で、父はそう言って母とアルバを褒めた。


「特に、アルバの立ち居振る舞いは見事だった」


 だが、アルバの心は、まだあの書記官の本のことを考えていた。表紙に描かれていた美しい装飾画。それは、きっと遠い都の物語を伝えているに違いない。


 就寝前、母が彼女の部屋を訪れた。


「今日は大変でしたね」


「はい。でも、とても興味深い一日でした」


 アルバは正直に答えた。


「ええ。でも、あまり遠くを見過ぎないように」


 母の言葉には、優しい警告が込められていた。


「私たちの幸せは、この岩壁の上にあるのですから」


 アルバは黙って頷く。だが、その心の中では、まだ見知らぬ世界への憧れが、小さな火のように燃え続けていた。


●第四章:木曜日 - 市場の喧騒


 木曜日は、市の立つ日だった。


 普段は静かなティタノ山の麓も、この日ばかりは人々で賑わう。遠くラヴェンナからも、商人たちが織物や香辛料を携えてやって来る。


 朝食の席で、母が告げる。


「今日は、結婚式の料理の買い出しに行きましょう」


 アルバの目が輝いた。市場に出かけることは、彼女にとって珍しい機会だった。アルバは念入りに身支度を整えた。侍女たちを引き連れ、母と共に邸を出る。


 石畳の階段を、慎重に下りていく。普段は遠くから眺めているだけの町並みが、徐々に近づいてくる。耳に届く人々の声も、次第に大きくなっていった。


 市場に着くと、そこはまさに別世界だった。色とりどりの商品が並び、様々な言語が飛び交う。香辛料の芳しい香りが、潮風に乗って漂ってくる。


「まずは、魚屋から」


 母の指示で、新鮮な魚を選んでいく。結婚式の宴に供される魚は、最高級のものでなければならない。


 次に香辛料屋を訪れる。ここでは、はるかビザンツから運ばれてきた珍しい香辛料が並んでいた。サフラン、シナモン、胡椒――。それぞれの香りが、異国の物語を語りかけてくるようだ。


 母が商人と値段の交渉をしている間、アルバは市場の喧騒に耳を傾けていた。商人たちの掛け声、荷物を運ぶ人々の足音、そして遠くから聞こえてくる教会の鐘の音。


 ふと視線を上げると、昨日見かけたビザンツの書記官と目が合った。彼も市場を見て回っているようだった。アルバは慌ててヴェールを引き寄せ、母の後ろに隠れるように立つ。


「アルバ、こちらへ」


 母の声に、我に返る。


 果物屋の前で、新鮮なイチジクを選んでいると、どこからか笛の音が聞こえてきた。旅の音楽師が、小さな広場で演奏を始めたのだ。


 哀愁を帯びた旋律が、市場の空に流れていく。アルバは思わず足を止めた。


「懐かしい曲ね」


 母もまた、演奏に聴き入っている。


「私が子供の頃、ラヴェンナでよく聴いた曲だわ」


 母の横顔に、珍しく郷愁の色が浮かぶ。


 買い物を終えて帰り支度をしていると、再び書記官とすれ違った。今度は、彼の手に昨日と同じ書物は見当たらない。代わりに、小さな包みを抱えていた。


 邸に戻ると、早速料理人たちが集められ、結婚式の献立についての打ち合わせが始まった。新鮮な魚をどう調理するか、香辛料をどう使うか――。細かな指示が、次々と飛び交う。


 夕食後、アルバは自室の窓辺に立ち、下界を見下ろしていた。市場はすでに片付けられ、いつもの静けさを取り戻している。だが、彼女の心には、まだ昼間の喧騒が残っていた。


 特に、あの笛の音が。そして、二度も見かけた書記官の姿が。


 寝台に横たわりながら、アルバは考える。この岩壁の上の生活と、下界で見た世界。その間には、どれほどの距離があるのだろう。そして、その距離は越えられるものなのだろうか。


 月の光が、静かに部屋を照らしていた。


●第五章:金曜日 - 夕暮れの決意


 金曜日の朝は、いつになく早く目が覚めた。


 窓から差し込む光は、まだ青みがかっている。アルバは、ベッドから起き上がり、窓辺に立った。昨日の市場で見た光景が、まだ鮮明に心に残っている。


 朝食の席で、母から今日の予定を告げられる。


「今日は、結婚式で演奏される音楽の最終確認がございます」


 教会から楽師たちが来るという。


「そして午後は、マルゲリータの衣装の仕上げです」


 アルバは静かに頷く。昨日の市場での出来事は、誰にも話していない。それは、自分だけの小さな秘密として、心の中にしまっておくことにした。


 午前中、楽師たちが到着する。教会の聖歌隊の面々だ。応接間で、結婚式で歌われる讃美歌の確認が始まった。


 清らかな声が、石造りの部屋に響き渡る。アルバは、母の傍らで静かに聴き入っていた。讃美歌の中には、昨日市場で聴いた旋律に似た部分があった。


 昼食後、仕事部屋で衣装の仕上げが始まる。ヴェールの刺繍は、ほぼ完成に近づいていた。


 針を運びながら、アルバは考えていた。従姉妹の結婚式。それは、新しい人生の始まりを意味する。マルゲリータは、この岩壁を離れ、ラヴェンナという新しい世界へと旅立っていく。


 その時、昨日見かけたビザンツの書記官の姿が、ふと心に浮かんだ。彼の持っていた本。その中には、どんな物語が書かれているのだろう。


「アルバ」


 母の声に、我に返る。


「はい」


「針が止まっていましてよ」


 母の声には、穏やかな心配が滲んでいた。


「申し訳ございません」


 アルバは慌てて針を動かし始める。だが、その手の動きは、いつもの確かさを欠いていた。


「何か心配事でも?」


「いいえ、ただ……」


 言葉が途切れる。どう説明すればいいのか、自分でもよくわからない。


 母は、しばらくアルバの様子を見つめていた。そして、ふっと柔らかな表情を見せる。


「今夜、屋上で話をしましょう」


 その言葉に、アルバは驚いて顔を上げた。屋上は、母の特別な場所だった。眼下に広がる町を見下ろしながら、時折物思いにふけるという。そこに誘われるのは、初めてのことだった。


 夕暮れ時。ヴェスペルスの祈りを終えた後、アルバは母と共に屋上へと向かった。


 夕焼けに染まる空の下、町は徐々に明かりを灯し始めていた。遠くには、アドリア海に沈みゆく太陽が見える。


「私も、あなたの年頃には同じような気持ちを抱いていたわ」


 母が、静かに語り始めた。


「ラヴェンナで育った私にとって、この岩壁の上の生活は、最初は窮屈に感じられました」


 アルバは、黙って母の言葉に耳を傾ける。


「でも、この場所には特別な美しさがある。それに気づくまでに、少し時間がかかったけれど」


 母の目は、遠くを見つめている。


「私たちの役目は、この岩壁の上で、静かに、しかし確かに花を咲かせること。それは、決して小さな使命ではないのよ」


 アルバは、深く息を吸い込んだ。夕暮れの空気が、優しく肌を撫でる。


「でも、時には遠くを見ることも大切です」


 母の言葉に、アルバは驚いて振り返る。


「好奇心を持つこと、新しいものに触れること――。それは、若い魂には必要なこと。ただし」


 母は、アルバの手を優しく握った。


「その心の故郷が、どこにあるのかを忘れないように」


 アルバは、ゆっくりと頷いた。母の言葉の意味が、少しずつ心に染み込んでいく。


 二人は、しばらくの間、黙って夕暮れの景色を眺めていた。やがて、最後の陽光が地平線に消えていく。


 その夜、アルバは一つの決意を胸に抱いて眠りについた。自分の立場を守りながら、しかし、新しい世界への扉も、少しずつ開いていこう――。


●第六章:土曜日 - 結婚式の準備


 土曜日の朝は、邸全体が早くから活気に満ちていた。


 いよいよ明日、マルゲリータの結婚式。最後の準備に、誰もが気持ちを引き締めている。


 朝食も簡素に済ませ、すぐに準備に取り掛かる。アルバは、母の指示の下、様々な作業を手伝った。


 まず、応接間や廊下の装飾の確認。花々が生けられ、壁掛けが新しいものに替えられていく。侍女たちが、隅々まで掃除を行う。


 客室の準備も大切な仕事だった。ビザンツからの賓客のために、最上の部屋が用意される。寝具は新しいものに替えられ、香りの良い花が飾られた。


 昼過ぎ、マルゲリータが最後の衣装合わせのためにやって来た。


「明日なのね……」


 純白の衣装に身を包み、鏡の前に立つマルゲリータの声が、少し震えている。


「大丈夫よ」


 母が、優しく肩に手を置く。


「あなたは、とても美しい花嫁になる」


 アルバも、黙って頷いた。刺繍を施したヴェールは、今や完璧な仕上がりを見せている。


 夕方近く、父が評議会から戻ってきた。明日の段取りについて、最後の確認が行われる。


「明日は、サンマリノの歴史に残る日となるだろう」


 父の声には、誇りと期待が満ちていた。


 夜、アルバは窓辺に立ち、星空を見上げていた。明日、この岩壁の上で、新しい絆が結ばれる。そして、その瞬間を、自分も見届けることができる。


 胸の中で、期待と決意が、静かに輝いていた。


●第七章:日曜日 - 祝福の鐘


 結婚式の日の朝は、澄み切った青空が広がっていた。


 早朝から、教会の鐘が祝福の音を響かせる。アルバは、いつもより丁寧に身支度を整えた。今日の自分の役割の重要性を、しっかりと心に刻み込む。


 教会では、すでに多くの人々が集まっていた。ビザンツからの賓客、ラヴェンナの商人たち、そして町の有力者たち。その中に、あの書記官の姿も見える。今日は正装した姿で、一段と凛々しく見えた。


 マルゲリータは、この上なく美しい花嫁だった。純白の衣装に身を包み、アルバが刺繍したヴェールをまとう姿は、まるで天使のよう。


 式が始まる。荘厳な讃美歌が、教会に響き渡る。司祭の祝福の言葉。誓いの言葉の交換。そして、祝福の鐘。


 すべてが厳かに、しかし喜びに満ちて進んでいく。アルバは、従姉妹の傍らで、その瞬間瞬間を心に刻んでいった。


 宴も、盛大に執り行われた。デッラ・ロッカ家の庭園で、音楽が演奏され、料理が振る舞われる。ビザンツの使者テオドロスは、サンマリノとビザンツの友好を祝して杯を上げた。


 その合間に、アルバは書記官と言葉を交わす機会があった。彼の名は、アンドレアス。ビザンツで学問を修めた、若き知識人だという。


「あなたの刺繍、とても美しかったです」


 彼の言葉に、アルバは小さく頷いただけだった。だが、その瞬間、二人の間に何か特別な理解が生まれたような気がした。


 夕暮れ時、マルゲリータは夫と共にラヴェンナへと旅立って行った。見送る人々の中で、アルバは静かに祈りを捧げた。従姉妹の幸せと、新しい人生の門出を祝して。


●エピローグ:岩壁に咲く花


 結婚式から一週間が過ぎた。


 アルバは、いつもの生活に戻っていた。だが、何かが少し変わっていた。窓から見える景色も、日々の営みも、すべてが新しい意味を持って見えるようになっていた。


 母の言葉が、今では深く理解できる。この岩壁の上で花を咲かせること。それは、決して小さな使命ではない。


 時折、アンドレアスのことを思い出す。彼との出会いは、遠い世界への小さな窓となった。いつか、その窓を通して、もっと多くのことを学びたいと思う。


 だが今は、この場所で、自分にできることを。一針一針、丁寧に。それが、アルバ・デッラ・ロッカの選んだ道だった。


 窓辺に立ち、夕陽に染まる岩壁を見つめる。そこに咲く一輪の花が、静かに風に揺れていた。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【中世ヨーロッパ短編少女小説】七日間の旋律 ―ある貴族令嬢の目覚め La Rosa sulla Rupe ―(9,973字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画