第8話 後始末、そして新たなる裏切りの連鎖

 旧暦六月(現代の七月)の昼、長篠城主の前田利家からつかわされた早馬が清洲に駆けつけた。


 この頃には、街道整備のおかげで昼夜問わず二十五里(百キロメートル)を四時間で連絡が届くようになっていた。


 また、織田家には常備軍が編成されている。


 連絡を受けてすぐに出動の体勢が整えられた。


「水野信近が本家の信元殿を追放しようと画策しているようです。今川義元と三河へ侵攻を開始しました」


「サル!」と、信長が呼びつける。


「はい、こちらに控えておりまする」


「すぐに援軍に向かえ。光秀!」


「はい」と、俺も秀吉の隣に進み出た。


「あの銃を試す時が来たな。必ず仕留めて来いよ」


「かしこまりました。必ずやこの手で仇を仕留めて見せます」


 俺と秀吉はその日のうちに兵よりも先に馬で出発し、いったん三河の岡崎城へ向かった。


 背中に背負った銃が重く、馬に申し訳ないが、夜までには到着することができた。


 松平家もすでに出動の準備を終えていた。


「おお、明智殿。なんとも巨大な銃ですな」


『月手繰り』を見て酒井忠次が驚いている。


「十町先を狙えます」


「なんと、まことでござりますか」


「このたびのいくさで、これを実際に試してみようと思っています」


「うまくいけば、戦の様子が変わるかも知れませんな」


 さすがに歴戦の勇将だ。


 一目でこの銃の可能性を見抜いたらしい。


 城の御殿から赤ん坊の泣き声がする。


「あれは?」


「実は織田家にもご報告しなければならなかったのですが」と、酒井忠次が俺に耳打ちする。「殿に子が生まれまして」


「それはめでたいではありませんか」


「あ、いや、しかしですな」


 なんとも歯切れの悪い口ぶりだ。


「何かまずいことでも?」


「ご存じの通り、殿はまだ正室を迎えておりませぬ」


 本物の松平元康は桶狭間で戦死して、現当主の松平信康は影武者である世良田村の作兵衛だ。


 当然のことながら、正式な妻を迎えてはいない。


 織田家の傘下にある以上、武家の婚姻は信長の許可がいる重要事項だ。


「母親は誰なのです?」


「下働きの娘と、出入りの商人の娘でございます」


 ――ん?


 二人?


「下働きをしていた商人の娘ですか?」


「いえ、相手は二人でございます。ちょうど同じ時期に生まれまして、男の子と女の子が一人ずつでございます」


 あの野郎。


 殿様になった途端、調子に乗って同時に二人に手を出していたとは。


 俺なんかまだお市様とも何もしてないっつうのに。


 ヘタレなのは俺のせいだけど、勝手なことをされても困る。


「清洲へは私が書状を送っておきます。それよりも、このたびのいくさのことですが」


「はい、水野信近殿がついに本家の信元殿へ反旗を翻し、今川の軍を曳馬城から三河へ引き入れ長篠へ迫っておりまする。当家ではすでにその報を受けて陣触れを出しておりました。すぐに出立できます」


「その数は?」


「信近殿の手勢は二千ほどですが、今川が二万ほどかと」


 桶狭間の時よりは少ないが、大軍であることに変わりはない。


 こちらの織田軍は五千、松平も五千。


 半分の兵力で長篠を守り切らなければならない。


 もちろんそれだけでなく、俺の目標は美月の仇を討つことだ。


 翌朝、徒歩の織田軍が到着し、小休止の後、松平勢と共に豊川へ向かい、そこでいったん体勢を整え一泊、さらに翌朝二手に分かれ、松平勢は浜名湖に沿って東へ向かわせ、俺と秀吉は織田軍を率いて北側にある長篠へ向かった。


【長篠周辺の位置関係】


 岡崎                  長篠 黄柳つげ


                       三ヶ日

豊川

                       浜名湖  浜松

                           (曳馬城)


 前日のうちに長篠へ送っていた物見の兵からの報告によれば、信近は今川軍と合流して長篠城の東方に陣取っているらしい。


 史実では一五七五年五月に起きた長篠の戦いよりも十四年も前にこの地で合戦が起こるとは、この時代の連中には何の意味があるのか分からないだろうが、未来から来た俺にとっては教科書で習う内容が変わってしまうほどの大事件だが、そんな感慨にふけっている場合ではない。


 しかも、相手は武田ではない。


 水野信近と今川義元だ。


 確実に俺のこの手で仕留めて歴史を変えてやるんだ。


 長篠城へ入ると、前田利家が俺と秀吉を出迎えた。


「おお、こんなにも早く味方が来るとは」


「利家のためなら、わしらはいつでもすぐに駆けつけるぞ」と、秀吉が辺りを見回す。「まつ殿はどうしておられるのだ?」


「実はな、身ごもっておってな。戦場においておきたくはないので城からは下がらせた」


「なんと、そうであったか」


 まったく、作兵衛信康といい、前田利家といい、子だくさんで結構なことだ。


 史実でも、この二人は正室側室合わせて男女二十名以上の子をなしたとされている。


 長篠城周辺は川で囲まれ、その対岸には山が迫っている。


「今川勢はあの山の向こうに陣取っている」


「道はあるのか」


「あるが、当然待ち伏せしているだろう」


 史実における長篠の戦いは城の西側にある設楽原という丘陵地で起きている。


 起伏を生かして馬防柵を築いた織田軍が鉄砲で待ち構え、武田の騎馬隊を蹴散らしたのだ。


 今は逆に、今川の兵が山の向こうに本陣を置いている。


 細い山道をたどって攻め入れば狙い撃ちにされるだろう。


「明智殿」と、前田利家が俺にたずねた。「どのような策をお考えで?」


「松平を浜名湖方面へ迂回させています。側面から攻撃を仕掛ければ、狭い山間部では向きを変えることもできませんから、今川勢がこちらへ押し出されてくるでしょう」


「なるほど、そこを我々が迎え撃てばいいわけだな」


「よし、そうと決まれば城の防御を厚くしよう」と、秀吉が物見櫓から全軍に指示を下す。「みなの者、矢盾を並べろ。戦は近いぞ」


「おーう!」


 織田軍の士気は高い。


 俺たちが運び込んだ食料で炊き出しがおこなわれ、たっぷりと振る舞われた兵たちは力を持て余したかのように奮い立っている。


 決戦は明日だ。


 俺も秀吉とともに腹ごしらえを済ませ、銃を傍らに置いて眠りについた。


   ◇


 翌朝は朝からよく晴れていた。


 梅雨の終わり頃で蒸し暑いが、視界は悪くない。


 敵が接近してきたら、俺が一発で仕留めてみせる。


 念入りに銃の手入れをし、俺は物見の報告を待った。


 昼過ぎに風に乗って何やら音が聞こえてきた。


 鉄砲の音に交じって阿鼻叫喚の声が山を越えてくる。


 ――いよいよだ。


 物見に出ていた兵が城に駆け込んできた。


「報告します。松平勢に押された今川方の兵が黄柳つげ川沿いの谷間を通ってこちらへ向かっております」


 前田利家が拳を打ち合わせる。


「よし、谷口を固め、迎え撃つぞ!」


「いや、待ってください」と、俺は止めた。


「なんじゃ、どうした」と、床几から腰を浮かせていた秀吉が口を挟む。


「この長篠城の周辺は川で囲まれた盆地。谷口で抑えるのではなく、むしろ城へ充分に引き寄せ、松平勢と連携して背後の退き口を塞いでしまえば、袋の鼠です」


「なるほど」と、前田利家が大きくうなずく。「ならば俺が手勢を率いて谷口に行くとしよう。敵をおびき寄せつつ退いてみせれば良いわけだな」


「よし、その策で行こう」と、秀吉も槍を持ち上げた。「光秀、おぬしは水野信近ただ一人を狙え。あとは俺たちが蹴散らしてやる」


「はい。頼みます」


 前田利家は黄柳川の合流点へ向かい、秀吉は半分の兵を城から出して、伏兵として散開させた。


 谷間から聞こえてくる声がどんどん大きくなってくる。


 松平家の酒井忠次には、当たらずとも派手に鉄砲を撃ち鳴らして追い詰めるように言ってある。


 長篠城に対峙していた今川方は側面から現れた敵に動揺して思惑通りこちらへ向かってきている。


 銃身に脚を取り付け、土を積んだ土塁に固定し、俺は膝を突いた姿勢で谷口へ銃を向けた。


 前田利家の旗印が見える。


 それが翻り、こちらへ戻ってくる。


 今川の旗が谷口から押し出されるようにあふれてくる。


 作戦通り、おびき寄せられているとも知らず、今川軍が前田利家の手勢を討とうと迫ってくる。


 ――いたぞ!


 水野家の旗印に囲まれて水野信近の姿を捉えた。


 距離はまだ十二町(千二百メートル)ほど先で顔はよく分からない。


 もう少しだ。


 あと少しだけ接近してこい。


 だが、そこで風向きが変わった。


 松平勢に追い立てられた今川勢は谷から出たところで散開して城へ向かってくるかと思われたが、一転して谷口へ向きを変えると、追撃してきた松平軍を迎え撃ち始めた。


《今川義元が『鼓舞』を発動しました》


 恐慌状態に陥っていた兵を勇気づけ、陣容を立て直したのだ。


 黄柳川の谷間に深く入り込んでいた松平勢へ今川の兵が矢の雨を降らす。


 さすが海道一の弓取りと称えられた名将、立場が一気に逆転し、松平勢は総崩れとなった。


 前田利家におびき寄せられていた軍勢も落ち着きを取り戻し、こちらへはそれ以上近づいてこない。


 あと二町(二百メートル)ほどで射程距離の十町なのに……。


 肉眼では旗印が確認できるが、俺の脳内スコープにはまだ水野信近の顔はとられられない。


 心臓の鼓動が激しさを増し、指先が震え出す。


 ――焦るな。


 焦っていては手元が狂って、とてもではないが十町先の水野信近の脳天を手繰り寄せることなどかなわないだろう。


 師匠の鈴木兼重は平常心を保つ訓練をしていると常々俺に語っていた。


 怒りや憎しみを排除し、恐れや不安引き入れ同化し、ただ風の流れにのみ心を委ねる。


 そんな坊さんみたいなことを今ここでやれと言われてもできるわけがない。


 ただ、俺にはもう一つ秘策もあるのだ。


 軍師たる者、つねに複数の案をそろえて不測の事態に備えておくべし。


 それがこの長篠へ敵をおびき寄せた理由でもある。


 焦るな。


 その、『時』を待て。


 と、城の周辺からときの声が上がった。


 動きを変えた今川勢に谷の左右から秀吉の伏兵が襲いかかる。


『鼓舞』によって松平への攻勢に転じていた今川勢が再び崩れだし、水野と今川の兵が交錯するのが城から見て取れた。


 ――よし、行くぞ!


 俺は銃を抱え、一人城を出た。


 笹の生える荒れ地を熊の如くかき分け、泥を跳ね上げながらぬかるみを突っ切り、まっすぐに水野の本陣へ向かって突き進んだ。


 敵が来ないなら、こちらから行くしかない。


 今を逃したら仇を逃してしまう。


 全身から汗が噴き出し、息が上がるが、銃の重さなどもはや風船ほどにも感じない。


「光秀!」


 俺を見つけた秀吉が森の木を伝うサルの如く軽快に駆け寄ってくる。


「左手に土手がある。あそこから狙え」


 俺は秀吉のあとについて土手に向かった。


 湿地を囲むように竹林に覆われた土手が見えた。


 俺たちはそこへ駆け上がり、日に照らされた盆地に向かって手をかざした。


「あっちだ!」


 秀吉の指す方を見ると、黄柳川と伊那街道が出会うあたりの盆地に水野の旗と今川の馬印が並んでいる。


 焦る気持ちを抑え込みながら火薬と弾を込め、土手に据えて準備を整える。


 距離は十町(千メートル)。


 構えた俺の脳内に照準スコープが現れた。


 ――よし、捉えた!


 十字スコープの焦点に拡大された水野信近の顔がはまっている。


 そのかたわらには今川義元がいた。


 二人で対応を話し合っているらしい。


 水野勢も今川勢もほぼ兵力は半減している。


 織田軍の損害は軽微、脳内モニターの情報によれば松平勢もまだ持ちこたえている。


 もはややつらに長篠城へ攻め込む余裕はない。


 戦場の情報を俯瞰して眺め、今回の作戦を立案した軍師としての俺の能力の勝ちだ。


 ただ、勝ち目がなくなったやつらにも、全滅を防ぐ手立てはある。


 退路を塞がれているが、弓矢で迎撃された松平勢も深追いをためらっている。


 長篠城からの押し出しに挟撃される前に撤退すれば逃げ切れるだろう。


 ――だが、そうはさせるかよ。


 水野信近、裏切り者のおまえの死に場所はここだ。


 引き金に指を当てた瞬間、美月の顔が思い浮かんだ。


 権造、吉三郎、十蔵、小助、入道。


 俺に関わって死んでいった仲間たちの顔が次々と浮かんでは消えていく。


 そういえば、丸根砦で死にかけていた雑兵も武井村の権造って名前だったな。


 この時代に来てから、いろいろな人が死んでいった。


 令和の世なら犬死にとされるような死に方ばかりだった。


 人の命が軽い。


 今の俺にできることはただ、この引き金を引くことだけだ。


 待っていてくれ、美月。


 殺し合うのが当たり前のこの時代を俺がこの銃で終わらせてみせる。


 弱い者同士で奪い合うのではなく、商業や工業でまっとうに稼いで皆が笑って暮らせる世の中を俺が作ってみせる。


 そのために俺は水野信近を殺すんだ。


 それがまた新たな憎しみの連鎖を生むのだとしても、運命に逆らうことなどできない。


 深く息を吸い、止め、俺は脳内に仇の顔を刻み込んだ。


 ――よし!


 ズゴオオオオン!


 天地を揺るがし、時を止め、弾が放たれ、視界が硝煙で真っ白に曇る。


 戦場が静まりかえっている。


 脳内モニターにアラートがポップアップした。


《伝令:水野信近が討ち死にしました》


 それはこの戦場に散った軽い命の一つに過ぎなかった。


 ――終わった。


 俺の復讐は終わったんだ。


 もはや俺の脳内にはスコープはない。


 白い煙の向こうに霞む今川義元の本陣を肉眼で凝視すると、水野信近の頭は吹き飛んで、胴体だけが床几のかたわらに転がっていた。


 その前で今川義元は腰を抜かして地面に手をついてへたり込み、腰回りには水が流れ出している。


 わななきながら小便を垂れ流す大将を抱え上げ、側近たちがまわりを取り囲む。


 連中はおそらく今川義元を狙った弾が逸れて水野信近に当たったのだと思い込んでいるのだろう。


 だが、俺の狙いは間違ってなどいない。


 憎しみで人を殺すことが罪だというのなら、俺はこの手に握りしめて地獄の果てまで投げつけに行ってやる。


 ――今川義元よ。


 おまえなど、俺にとっては何の価値もない塵だ。


 撃とうと思えばおまえを撃てる。


 だが、俺はここではやらない。


 あんたにはまだやってもらうことがある。


 戦国一の笑い者としての道化を演じてもらう。


 それがこの復讐劇の総仕上げだ。


 と、その時だった。


 北側の伊那街道に新たな軍勢が現れた。


 脳内モニターに情報画面がポップアップする。


《武田軍が到着しました》


 それは馬場信房と飯富昌景の率いる武田の騎馬隊の姿だった。


 織田家によって整備された伊那街道を迅速に移動して、『疾きこと風の如く』この地に到着したのだ。


「武田家中に名の知れた馬場信房である。織田家の盟友として助太刀つかまつる」


「同じく飯富昌景、我らが武田の赤備え、その方どもの胸にしかと恐怖を刻み込んでやるわい」


 突如現れた騎馬隊が『侵掠すること火の如く』今川本陣へ中央突破を開始した。


 慌てふためく今川勢は義元の馬印もなげうって右も左も分からぬままに退却を始めた。


 川へ出れば秀吉の伏兵、谷へ突き進もうにも松平が待ち構え、行き場を失った今川勢は武田の騎馬隊に、穴の塞がったところてんのように無様に押しつぶされていく。


 今川義元は自ら槍を取ってなだれ込む敵を振り払う。


 ――見たか!


 義元よ、おまえは自らの運命から逃れることはできないのだ。


 戦場で無様な姿をさらし、『海道一の弓取り』と称えられた名門の誇りを踏みにじられろ。


 これが失われた桶狭間の後始末なのだ。


 馬場信房の軍勢が退却する今川軍の行く手を阻んで突撃を試みる。


 その横からは飯富昌景の赤備えが灼熱の溶岩の如く浸透していく。


「おい、光秀!」と、秀吉が銃を抱えた俺の背中を叩く。「俺たちも行くぞ」


「いや、しかし……」


 重すぎる荷物のせいで走り出せずにいると、俺からこの世に一つしかない銃を奪い取って配下の雑兵にぶん投げる。


「そんなもの置いていけ!」


 肩を突き飛ばされ、秀吉と一緒に俺も乱取りが始まった戦場に駆け込んだ。


 そこらじゅうで組み伏せられた敵兵の首が落とされ、鎧や刀を剥ぎ取って自分の物にした兵たちが城へ戻っていく。


「こら、おまえら、敵はまだ残っておるぞ!」と、秀吉が走りながら笑い出す。「目の前に金が転がっておるのにそんなので満足するのか!」


 もはや流れは止められない。


 確定した味方の勝ちに張り詰めていた気持ちが緩み、俺も笑ってしまった。


 笑うと体が楽になる。


 無数に転がる屍を乗り越え、いくらでも走って行けそうだ。


 一度笑い出すと止まらない。


 夏の青空に美月の顔が思い浮かぶ。


 権造たちも笑っている。


 俺の目からは涙があふれ出す。


 笑え、叫べ。


 復讐を成し遂げても誰一人かえってなど来ない。


 泣こうと笑おうと何も変わらない。


 笑え、叫べ。


 荒くれどもが巻き上げて目に染みる土埃も吐き気のする血の臭いもすべて俺にとっては現実から切り離された夢でしかなかった。


 ――ウオオオオオオオォ!


 今川義元の本陣に駆け込んだ俺たちは旗本勢をなぎ倒し、一直線に大将に向かって突撃した。


「明智殿!」


 馬場信房もそこにいた。


「義元は?」


「あれだ!」


 馬上から突き出された槍の向こうに白化粧にお歯黒の今川義元がいた。


「サル、逃がすな」と、今度は俺が背中を突き飛ばす。


「おう、囲め囲め」と、ニヤつきながら秀吉が槍を振り回す。


 背後には飯富昌景の赤備え軍団が回り込んでいた。


 もはやこれまでとあきらめの表情が浮かぶ旗本たちの中で、ただ一人今川義元は装束を脱ぎ、刀を抜いて大粒の汗を散らしながら奮戦している。


 さすがは海道一の弓取り、足利源氏の名門、その気概だけは認めよう。


 だが、ここまでだ。


 槍を構え義元に突っ込んだが、いなされたくらいで俺はあきらめなどしない。


 肩からもろともに捨て身の体当たりを食らわせると、白粉おしろいこうと汗の混ざった匂いに包まれ、一瞬、体が浮遊した錯覚にとらわれる。


「いいぞ、光秀!」


 気がつくと俺が地面に仰向けに転がされていた。


 ――空が青い。


 俺の横で義元を踏みつけた秀吉が槍を突き立てていた。


 やったのか。


「ぐふぉっ……」と、虚空をつかみかけた手がくたりと地に落ちた。


 それが今川義元の無念の最期だった。


「みなの者聞けい! 織田家家中羽柴藤吉郎秀吉、今川義元を討ち取ったり!」


 うおおと地鳴りのような歓声が上がる。


 馬で駆け寄ってきた武者が声をかける。


「武田家より馳せ参じた馬場信房、羽柴殿のお手柄、しかとこの目で見届け申した」


「かたじけない」と、秀吉は今川義元の首を空に掲げた。「わしだ! このわしだぞ! 今川義元の首を取ったのはこのわしだ!」


 ホラ貝が鳴らされ、戦いが止み、「えいえいおーぅ」とときの声が上がる。


《戦場における経験により、統率と武勇が上昇しました》


《足軽属性『槍突撃』を習得しました》


 次々と立ち上がる脳内モニターのアラートも、俺にはもうどうでもいいことだった。


 終わったんだ。


 復讐も後始末も、なにもかも終わったんだ。


 立ち上がると、肩の重荷がどこかへ舞い上がってしまったかのように、体がふらつく。


「しっかりしろ、光秀。これもみなおぬしの功績であろうが」


 秀吉が俺の肩をつかんで揺さぶる。


 ――おいおい、目眩めまいがするじゃないかよ。


「そんなに興奮しないでくださいよ」


「これが落ち着いてなどいられるか!」


 秀吉が俺に抱きつく。


 こら、やめろ、汗臭い男なんかと抱き合いたくないっつうの。


「明智殿」と、馬から下りた馬場信房が俺たちに歩み寄る。「我らの絆、ここにありですな」


「はい、わざわざのご出馬、ありがとうございました」


「これもすべて春先から織田家が整備していた街道のおかげ。道中、何の障害もなく大軍を迅速に動員できましたぞ」


 馬場信房が俺の手をつかんで両手で包むと、じっと俺の目を見つめた。


「盟友の恩義は礼節を持ってお返しいたす」


 歴戦の勇士の目は優しかった。


「では、これにて御免」と、馬場信房がひらりと馬にまたがる。「明智殿のためなら、我ら、いつでもどこへでもすぐに馳せ参じますぞ」


「おう、わしらもいつでも駆けつけるぞ」と、秀吉が答える。「ただし、歩きだがな」


「よかろう。頼りにしておるぞ」と、馬場信房は馬を返すと後方に整列した飯富昌景の赤備え軍団に駆けていった。


 俺が手を振って頭を下げると、騎馬武者が一斉に槍尻で地面を突き、それを宙に突き上げる。


「「「おーぅ」」」


 騎馬軍団の雄叫びは山にこだまし谷を震わせ、それを合図に、さっそうと伊那街道へと帰って行く。


 俺はその姿が見えなくなるまで見送っていた。


「なんじゃ、どうした。しんみりして」


 秀吉に肩を叩かれ、城に向かって歩き出す。


 史実ではこの地、長篠で、十四年後に馬場信房は討ち死にすることになっていた。


 だが、このまま同盟が続けば、その悲劇は避けられるだろう。


 それまでに天下統一が達成されていれば、無益な戦いなど起こらなくてすむ。


 俺がこの時代に来たことで歴史が変わった。


 桶狭間の戦いで死んだのは今川義元ではなく、徳川家康となるはずだった松平元康で、いまは影武者が松平信康と名乗っている。


 そして、今、長篠の戦いで全滅したのは武田の騎馬軍団ではなく、今川義元と水野信近の連合軍だった。


 だが、なんだろう。


 いいようのない不安が俺の胸に沸き起こる。


 桶狭間の悲劇を回避した今川義元は、結局一年後の今、討ち死にしてしまった。


 この長篠の戦いも、もしかしたら、別の場所での悲劇にすり替わっただけなんじゃないだろうか。


 いやいや、よけいなことを考えるな。


 武田と織田の同盟は確固たるもので、馬場信房と飯富昌景の援軍は俺自身が要請して実現した、絆のあかしではないか。


 何を心配することがある。


 これからだって歴史はどんどん変わっていく。


 史実という知識と、情報という武器を駆使して、この乱世に終止符を打つ。


 俺にできないはずがないんだ。


 だって、俺は『信長のアレ』で千回も全国統一を成し遂げているんだからな。


 長篠城へ戻った俺たちを出迎えたのは、前田利家以下、織田家五千の兵だった。


 味方の兵にほとんど損害のない大勝利だったのだ。


「我ら最強の軍師明智光秀を称えて宴会だ!」


 秀吉のサル踊りが始まり、酒と飯が振る舞われる。


 血と汗と埃まみれの兵たちが握り飯を頬張り、米粒を飛ばしながら笑い合う。


 俺も差し出された握り飯にかじりついた。


 塩気が体に染みこんでいく。


 ――だが……。


 何なんだろうか、急に沸き起こってきたこの虚しさは。


 歌をわめく者もあれば、裸になって踊り出す者もいる。


 みんな勝利に酔いしれているのに、俺の心だけは凍りついている。


 浮かれた空気から切り離されて、俺はただ一人ぼんやりとその騒ぎを外から眺めていた。


   ◇


 一五六一年七月。


 十四年早い長篠の戦いの後、水野信元は一族の当主として騒動の責任を取る形で出家した。


 主筋に当たる松平家では、作兵衛信康に生まれていた男子を養子として送り込み、水野家を支配することとなった。


 これはもちろん、後ろ盾となっている織田家の意向である。


 意外にも、水野家の家臣たちはまったく抵抗することなく、信康が侍女に産ませた赤ん坊を新しい当主として受け入れた。


 まったく関係のない人物が当主となることに少しは不満が出るかと思っていたが、案外あっさりしたものだった。


 武士の忠義とはなんなのか、令和の俺にはよく分からないが、令和の世で言えば、社長が誰に交代しても社員には何の関係もないというところなのだろうか。


 給料がもらえればいいわけだし、なんならいくさを命じない案山子かかしでもいいくらいなのかもしれない。


 こうして三河に絶大な影響力を持っていた名門を一族に取り込んだことで弱小領主に過ぎなかった松平家の支配は盤石となった。


 また、今川義元亡き後の遠江はこれもまた松平がおさえ、信康は岡崎から曳馬城へと本拠地を移し、浜松城に名を改め、改修工事を始めた。


 すでに俺は浜松の商人たちと交渉した経験があったので、松平家に引き継ぐのは難しくはなかった。


 駿河の今川家はすでに家督を譲られていた氏真が名実ともに正式な当主となったが、今回の合戦で譜代の家臣や二万の兵を失い、もはや風前の灯火であった。


 伊豆方面からはかつて同盟を組んでいた北条が侵入を繰り返していたが、それを撃退する力はなく、今川氏真は織田信長の元へ恭順の意を表しに自ら清洲に来訪した。


 広間にておこなわれた会見で織田家の重臣たちに囲まれながら氏真は信長にあっさりと頭を下げた。


「駿河の国を差し出しますゆえ、織田家の庇護の下に、今川家の存続を認めていただけないでしょうか」


 織田家の重臣たちがざわめく。


 これまでさんざん苦しめられてきた今川の当主が降伏し、領土も差し出すというのだ。


 完全勝利と言っていいだろう。


「ほう、我が織田家の傘下に入りたいと?」


 長年苦しめられてきた名門が頭を下げてきたことに内心喜びを隠せない信長だが、あえて渋い表情で氏真をにらみつけている。


 それに対して氏真は開き直ったようなすがすがしさを見せていた。


「我々にはもはや駿河一国を守る力も残っておりませんし、わたくし個人にもこの乱世を乗り切っていく才能も覚悟もございません。しかしながら、駿河の領民達を苦しめることもまた望まぬことでありまする。先代義元までのいきさつはあれど、織田家の庇護の下で領民たちの安寧を願うことが今のわたくしにできる精一杯の選択かと思いまして」


「ふむ、殊勝な心がけ……」と、織田信長がニンマリと笑みを浮かべる。「と、言いたいところだが」


 急に真顔になった主君の様子に、ざわついていた広間の空気が凍りつく。


「その方の責任を問わぬわけにはいかぬな」


 それはそうだろう。


 戦いの指揮を執ったのは今川義元だが、そもそも、俺を美月の盗賊団に襲わせたのは氏真だ。


 さらに、甲斐国からの帰路で水野信近をけしかけ操っていたのは義元かも知れないが、当主である以上、氏真も知らぬとは言い逃れはできないだろう。


 とはいえ、個人的な恨みをここで出すわけにもいかず、俺は黙って成り行きを見守っていた。


「勝家」と、信長は柴田勝家を指名した。


「ははっ」


「その方に駿河一国を任せる」


「なんと、それがしを一国の太守に!」と、柴田勝家が目を丸くしながら氏真に視線を送りつつ頭を下げた。「それがしにそのような大役をお任せくださるとはありがたき幸せにございます」


「氏真殿よ」と、信長は厳しい口調で呼びかけた。「これで良いか」


「異存はございません」


「して、氏真殿はどのようになさるおつもりかな」


 信長は相手に進退を決めさせようというのだ。


「それにつきましては」と、氏真が俺を見る。「明智殿に教えを請いまして蹴鞠の道に専念しようかと思っておりまする」


 え、俺?


 漫画はパクれるけど、サッカーなんてできないぞ。


 そんな事情を知らない信長は氏真の申し出にうなずいている。


「ただし、今川の名は残したいと?」


「はい、それだけはなんとか」


 やはり名門の家名に未練はあるのだろう。


 俺は前に進み出た。


「お館様、少々ご相談したきことがございます」


「なんじゃ、光秀」


「少しばかり内密に」


「かまわぬ。ここで申せ」


「いえ、なにとぞ、内密に」


 信長も俺の様子から悟ったのか、立ち上がった。


「いったん下がるゆえ、みなはこの場にて待機せよ」


 家来達一同が頭を下げる中、俺と信長は小姓を伴って隣室へ下がった。


 この時代はまだ森蘭丸は生まれていない。


 金森長近の親戚の少年らしいが、俺と信長が小部屋に入ると、襖を閉めて縁側で待機していた。


 俺は織田信長と二人で向かい合っていた。


「その方の言いたいことなんだ?」


「今川氏真殿を私の配下にしていただけないでしょうか」


 竹中半兵衛からも言われていた今川氏真の使い道だ。


「その方の?」と、信長はいったん言葉を切った。「蹴鞠だけでなく、ということか?」


「駿河においたままでは、氏真殿を担ぎ上げて反乱を起こそうとする残党が現れるかもしれません。家名を存続させるのであれば、清洲へ置いておくべきでしょう」


「なるほど一理あるな」


「それに、やはり今川は足利の一族。今後上洛した際に、足利家との交渉役として氏真殿は利用できます」


「あい分かった。光秀、その方の言うとおりにしよう」


「あと、もう一つございます」


「なんじゃ」と、苛立った様子で信長が俺を促す。


「柴田殿が治める駿河国に武田の商館を置いていただきたいのです。すでに三河の港を武田家に開いておりますが、甲斐国に近い駿河の港を明け渡すことが、同盟をより一層強固とすることは間違いありません」


「ふむ。よかろう」


 返事はあっさりしたものだった。


「それだけか」


「はい」


「光秀」と、信長が鋭い目で俺を見つめる。「何を隠しておる」


 やはり一筋縄でいくはずがないか。


 だが、見抜かれているわけではない。


 ならば、俺もここは手の内を明かさず、しらばっくれるしかない。


 いずれ来る本能寺の日に向けて、自分の味方は多い方がいい。


 史実の明智光秀は味方する者がいなくて三日天下で終わったのだ。


 使える物は犬の糞でも拾っておくべきだ。


「いえ、わたくしに二心はございません。あくまでも、氏真殿に我々の思惑を知られては交渉がやりにくくなると言う判断から内密にとお願いした次第でございます」


「ふむ、そうか」


 信長は自らの手で襖を開け放つと、俺をおいてさっさと広間へ戻ってしまった。


 その後ろを慌てて小姓が追いかけていく。


 広間へ戻ると、信長は氏真に俺の要望通りの内容を告げた。


「これより氏真殿はこれなる明智光秀の与力として清洲にて勤めるが良い。駿河の経営については、すべて織田家すなわち勝家に任せてもらうことになるが良いか」


 氏真は畳に額をこすりつけた。


「すべて異存はございません。仰せの通りに」


 こうして今川家はあっさりと織田の傘下に下った。


 城を退去した俺は氏真を伴って屋敷へ帰ってきた。


 これまでに書きためていた『隼ストライカー瞬』の続きを見せる。


「ほほう、これはまた熱き展開でございますな」


 氏真は発売日前の早売りを手に入れた少年のように目を輝かせて食いついている。


「氏真殿」


 俺の呼びかけに氏真は手を止めた。


 だが、視線はこちらに向けない。


「盗賊たちをけしかけたのはあなたですね」


 うつむいたままつぶやく。


「あの者たちが白状したのですか」


『あの者たち』という言い方が知っていると自白しているようなものだ。


 名門のお坊ちゃまらしく、駆け引きにはとことん向かない性格なのだろう。


「なにゆえに私の命を狙ったのですか」


「父に命じられただけのことです」と、ようやく顔を上げた。「父は明智殿を恐れていました」


 ――今川義元が?


「昨年の会見の後に松平を織田家に引き入れた手腕を知り、脅威を感じていたのでしょう。生かしておいては今川家のためにならぬと、わたくしに手配をさせました」


 そこで氏真はため息をついた。


「明智殿には漫画のことで世話になっておりましたが、わたくしが父に逆らうことはできませんでした。父は今川家に君臨し、すべてを取り仕切っておりました。わたくしは家督を継いでいたとはいえ、名目上の当主に過ぎません」


 ただありのままを述べているだけで、言い訳をするつもりではないようだ。


 名門に生まれた跡継ぎの悩みを吐露したところで、ふっと笑みを浮かべる。


「あの者たちが明智殿に味方するとはわたくしには予想などできませんでした。また、明智殿が甲斐の武田との同盟を成立させることも、それがさらなる脅威となって父が明智殿の暗殺を水野信近に指図することも、あの時点では考えようもなかったことです」


 俺の行動がそれほどまでに今川義元を焦らせたというわけか。


 ただ、氏真の語り口は、俺に責任をなすりつけるような言い方ではなく、あくまでも自分の無力さを吐露しているに過ぎなかった。


 そして、氏真は思いがけないことを口にした。


「わたくしはあの者たちを死なせてしまったことに責任を感じ、織田家の女忍びに父と水野信近のことをありのままに話しました」


 ――なんだって!


 それはつまり……心結みゆだよな。


 ああ、そういうことだったのか。


 靄に包まれていた部分が急に晴れてあらゆる筋がはっきりと分かった気がした。


 そうか……。


 だから心結は確信を持って仇を指名できたのか。


 あの時俺は復讐の念に駆られるばかりで、情報の出処でどころに疑問を感じることがなかった。


 それまでも心結には使いを頼んでいたから氏真と面識があったわけで、そこから情報を得ていたとしても何らおかしなところはない。


 ただ、それを知っていれば、俺は今回の行動に出ていただろうか。


 もしかしたら、氏真に配慮して、ここまで今川家を追い詰めようとはしなかったかもしれない。


 まさか、心結は、そこまで考えて伏せていたというのだろうか。


 もしかして……。


 俺は何者かに操られているのか?


「氏真殿」と、俺は内心を隠してたずねた。


「はい」


「これで良かったのですか? 名門の家を没落させて、こんな結末で良かったのですか」


「ええ、むしろ心晴れやかな気分ですよ」


 その言葉が強がりでも見栄でもないように、氏真の表情は本当に明るかった。


「父に押さえつけられ、父の言いなりになり、つねに偉大な父と比べられ、あの家はわたくしにとっては牢獄に過ぎませんでした。蹴鞠に夢中なうつけを演じていたのも、何をしても無駄だったからです。学問を修めても政治に口出しは許されませんでした」


 氏真の口元には薄い笑みが浮かんでいた。


「父が長篠へ出馬するとの知らせは当日聞かされました。わたくしはその程度の存在に過ぎなかったのです。織田家への恨みはありません。むしろ、感謝しているくらいですよ」


 氏真は手をついて俺に頭を下げた。


「どうかわたくしを明智殿の配下として働かせてください。わたくしはうつけではありません。名門今川の血を受け継ぐ者として、必ずやお役に立てると存じます。そのために今川の名だけは残してもらえるようにお願いしたのです」


「分かりました」と、俺は氏真を受け入れた。


 死んだ美月たちも反対はしないだろう。


 いや、そんなことはもちろん分からないことだ。


 俺はすべてを飲み込んだのだ。


 天下のため、野望のため、その先にあるお市様との約束のために。


 俺の勝手な都合のために。


 しょせん、俺は裏切り者の宿命を背負った明智光秀なのだ。


   ◇


 織田家が駿河を手に入れた翌八月、甲斐国から武田信玄の名代として弟の信繁が清洲に来訪した。


 越後の上杉を牽制するために武田信玄は北信濃に兵を進め、その途中で信繁が使者として伊那街道を通ってやってきたのだ。


 甲斐の虎が最も信頼すると言われる三十六歳の堂々とした風格をたたえた男の登場に、清洲城の広間は緊張した空気に包まれた。


「このたびの戦における勝利、まことにおめでとうございます」


「武田家の加勢について、織田家からも篤く御礼申し上げる」


 儀礼的な挨拶の後、信長が俺を呼び出した。


「光秀、その方自慢の銃を信繁殿にご覧に入れるが良い」


「かしこまりました」


 俺は『月手繰り』を武田信繁に披露した。


「おお、これでござるか。馬場殿から話を伺っておりましたが、見事でございますな」


 信長が思いがけないことを言い始めた。


「我ら織田と武田の盟約のあかしとして、この銃を進呈しようと思うがいかがかな」


「ほう、この銃を、でございますか」と、信繁が俺に視線を送った。「しかしながら、これは使いこなすには相当な熟練を要するものでございましょう。やはりこれは使い手が持ってこその名器であると存じますゆえ、ありがたきことなれど辞退申し上げまする」


 武田信繁は丁重に銃を掲げ、俺に返却した。


「そうか、それであるならば、我が織田家の宝を信繁殿に進呈することとしよう」


 信長は小姓に命じて何かを取りに行かせた。


 甲斐国の様子や北信濃の情勢など、しばらくの雑談の後、奥御殿の侍女が廊下に現れた。


「姫様がお越しになりました」


 ――ん?


 お市様が?


 侍女たちの間から光り輝くようなお市様が姿を現し、広間に入ってくる。


 その後ろには心結みゆも控えていた。


 広間の空気が一気に華やかになった。


「おう、市、参ったか」


「兄上、お呼びだそうで。何事でございますか」


「こちらは武田家名代の信繁殿である」


「お初にお目にかかります。市でございます」


 丁重に頭を下げてあいさつをすると、武田信繁は額を赤くしながらあいさつを返した。


「武田家当主晴信の弟で信繁でございます。噂に名高い麗しい御方にお目にかかれて清洲まで来た甲斐があったというものでございます」


「のう、信繁殿」と、信長は事もなげに告げた。「この市を貴殿に嫁がせようと思うがいかがかな」


 ――はあ?


 ちょ、おい、待てよ。


 ほぐれていた座が一瞬で凍りつく。


 柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、河尻秀隆、退き佐久間もみな息をのんだまま失神したように固まっていた。


 お市様は表情を変えず、ただうつむいている。


 ――嘘だろ。


 そりゃたしかに史実では浅井長政に嫁ぐことになっているわけだけど、このシナリオでは、俺と結婚することになっているんだぞ。


 俺はすべてを捧げると誓ったんだ。


 すべては本能寺のために。


 なのに、信長はすべてをぶち壊しにかかったのだ。


 信長は満足げに扇子を振るう。


「これまで手元に温めてきた切り札を使う時が来た」


 戦国の世の習いとはいえ、大事な妹を政略結婚の駒として扱う信長に怒りを覚えるが、だが、逆に、シスコンの信長にとって一番価値のある宝を差し出そうという誠意の表れなのだろう。


 申し出を受けた武田信繁も恐縮しつつ、まんざらでもないようだ。


 耳まで赤くしながら平伏している。


「織田家の信頼のあかし、しかとこの信繁受け止めました。信濃に戻りしだい、兄に伝えまする」


「うむ、輿入れについては、また改めて信玄殿とも詰めてからといたそう」


 ああ、なんということだ。


 なんのために俺はこの同盟を成立させたのだろう。


 こうなったのもすべて俺のせいだ。


 お市様は俺に視線を送ることすらしてくださらない。


 後ろに控えた心結もわざとらしく俺から顔を背けている。


 武田信繁は信長と会見を終えるとすぐに信濃へ帰って行った。


 ――お市様と話をしなければ。


 だが、焦るばかりで、俺にできることはなかった。


 こちらからお市様に面会を願い出ることはできない。


 個人的に接触を試みたことが知られたら、シスコンの信長に疑われる。


 俺は心結の連絡を待つしかなかった。


 今川氏真とのいきさつもまだ問いただしてはいない。


 無為な時間が過ぎていく日々の中で、能登屋からの手紙が届いた。


《でいぶすみしいなる南蛮人が輪島に来訪。その後、越後へ向かったとの噂でございます》


 あいつめ、今度は北陸へ姿を現したのか。


 何を企んでいるというのだろうか。


 越後と言えば、上杉だ。


 その上杉の動きも当然気になる。


 なにしろ、この一五六一年の九月は第四次川中島の戦いが起きるのだ。


 武田信玄と上杉謙信が一騎打ちで激突したとされ、史実では山本勘助と武田信繁が討ち死にした戦国史上有数の激戦だ。


 俺の腹の底にどす黒い奈落が口を開いた。


 もとの歴史に名を刻む最悪の裏切り者、明智光秀。


 その本領を発揮するべき時は今だ。


 奈落の底へとすべてを引きずり込んでやる。


 と、そこへ、心結が俺の屋敷へやってきた。


「待っていたぞ」


「頃合いだと思いまして」


 まずはお市様からの書状を俺は受け取った。


《我が身の定めを受け入れる覚悟はできておりますが、光秀殿との誓いは忘れてはおりませぬ。たとえ遠く離れようともわたくしの心はつねにあなた様のおそばにあると思ってくださいまし》


 令和のチョロい非モテボッチ陰キャ男子を手懐けるには充分なお気持ちだった。


 お市様、俺も覚悟を決めました。


 あなた様をお守りするためなら、俺はいかなる罪、どんな汚名でも背負います。


 俺は心結にお市様への伝言を頼んで、あらためてたずねた。


「水野信近の件、今川氏真と接触していたことを、なぜ知らせなかった」


「知らせなかったのではございません」と、悪びれる様子もなく答える。「確実な筋からの話として申し上げただけでございます」


 たしかにその通りだが、名前を隠していたのは事実だ。


「俺に何をさせるつもりだった?」


「織田家にとって何か問題はありましたか?」


 はぐらかすように逆に問いを返す。


 ――いや、何もない。


 俺は復讐を遂げ、織田家は宿敵今川を滅ぼし、駿河を手に入れた。


「わたくしは何も嘘は申し上げておりませんし、隠してもおりません。どこから聞いてきたことかなど、重要ではないから申し上げなかっただけです」


「重要かどうかは俺が決めることだ」


「聞かなかったのは明智様です。だからわたくしも申し上げませんでした。それだけのことです」


 心結の言うとおりだ。


 情報源をたずねなかったのは俺の落ち度だ。


「わたくしは姫様付きの忍び。その姫様が最も信頼なさる明智様は前にも申し上げたとおり、姫様同様にお仕えするあるじでございます」


「他意はないというのか」


 心結は静かにうなずく。


 単にまだまだ俺が甘かったというだけか。


 これからは情報源や裏付けについても確認しておくべきだろう。


 心結がぽつりと口を開いた。


「これはわたくしの独り言でございます」


 それは鞭で打たれるような衝撃的内容だった。


「姫様は明智様のことを心配なさっておられました。心お優しい御方であると。それゆえに、いざという時には背中を押して差し上げなければならないでしょうともおっしゃっておられました」


 ああ、そうだったのか。


 俺の心の弱さ、男としての足りなさをすべて見抜かれていたのだ。


 ただ単に未来から来て史実を知っているにすぎない男がその情報だけを武器にしたところで、この戦国乱世をのし上がるどころか、生き残ることすら難しいだろう。


 お市様はそんな俺のために、心を鬼にしろと……。


 いや、違う。


 鬼になったのはお市様自身なんじゃないのか?


 兄の天下統一を壊すために、自ら鬼の面をかぶった――いや、逆だ――鬼となった自分に従順な姫の面をかぶって兄のための人身御供となろうとしているのだ。


「それで、明智様は、どうなさるおつもりですか?」


 心結が俺に決断を迫る。


 すでに俺の腹は決まっている。


 迷いなどない。


 俺はすぐに書状をしたため、心結に託した。


「これを越後から川中島に向かっている上杉方の武将柿崎景家に届けてくれ」


「かしこまりました」と、心結はすぐに出立した。


 第四次川中島の戦い勃発まであと一ヶ月。


 すでに武田も上杉も兵を動かしている時期だ。


 ならばそれを利用させてもらうまでだ。


 もう後戻りはできない。


 お市様をよそに嫁がせることなど俺が許さない。


 俺は甲斐国における武田信玄との交渉で『啄木鳥の計』について山本勘助に話している。


 武田家は当然、俺が伝えたとおりその作戦の失敗を回避するために別の策を練るだろう。


 だから俺はさらにその裏をかいて武田信繁を葬り去るために、川中島で『逆・啄木鳥の計』を発動させるのだ。


 盟友となった武田家に損害を与えるために動く俺は裏切り者だ。


 だが、それは明智光秀となった俺にとって最高の称号だ。


 俺の心にはつねに本能寺がある。


 すべてはお市様のため。


 そして彼女を手に入れる俺のため。


 自らの欲望のために天下を転覆させてやる。


 織田信長を支える軍師としての俺の冒険は新しい章の幕開けを迎えていた。


(第2部・完)

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信長のアレを千回クリアした俺が戦国最強の軍師に転生して甲斐の虎に会いに行ったら、赤べこだったんだが(ていうか、男だらけの温泉回なんて誰得なんだよ) 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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