第7話 復讐と覚醒

 俺はぼろきれだった。


 文字通り、着物は破け、体中が傷つき、血まみれになりながら尾根を伝い、草の蔓につかまり崖を下り、沢をたどってひたすら逃げ続けた。


 空腹と寒さで力尽きた俺は意識が朦朧とし、残り一里くらいの地点で動けなくなってしまった。


 それからどうなったのかまったく覚えていない。


「おい、光秀、俺だ。しっかりしろ」


 目を開けると、そこには秀吉と寧々さんがいた。


「ここは……?」


「長篠の城だ」


 ――帰ってきたのか。


 喜びや安心感はまるで浮かんでこなかった。


 かといって、悲しみやつらさを感じることもなかった。


 俺は完全に抜け殻になっていた。


「いったいどうしたのだ?」


 秀吉に問われても何も言葉が思い浮かばなかった。


「清洲にはわしが使いを走らせておいた」


「ありがとうございます」


 寧々さんの侍女が粥を運んでくる。


「食えるか?」と、秀吉が俺の背中に手を入れて起こしてくれた。


「食べないと」


 早く体を治さなければ。


 食って食って早く立ち上がらなければいけないんだ。


 寧々さんがほどよく冷まして食べさせてくれた。


 かたわらで秀吉がたずねる。


「おぬしと一緒に甲斐国へ向かった連中はどうしたんだ?」


「みな、やられました」


「武田にか?」


「いえ、武田とは交渉がまとまっていたので、おそらく別の勢力かと」


「何者だ?」


「わかりません」


 寧々さんが秀吉をにらみつける。


「お話は食べてからにしなさいな。順番が逆ですよ。まだ回復してないんですから」


「いえ、大丈夫ですよ」と、俺は頬を引きつらせながら笑みを向けた。「大事なことですし」


 俺は秀吉に向かって話を続けた。


「鉄砲で襲われたので、おそらくどこかの武家でしょう」


「伊那に勢力を持つ国人か?」


「それは分かりません」


 ただ、と俺は続けた。


「道中、手紙を持たせた吉三郎という男が待ち伏せを受けて殺されました。手紙の内容自体は交渉がまとまったことと、出迎えをよこしてほしいと記しただけで、相手方の名前などは出していなかったので、第三者が見ても意味が通じないとは思いますが」


「その書状がどうなったかをたどれば良いわけだな」


「難しいでしょうが」


「わしもここに来てから国人連中との交渉をしておる。うわさ話くらいなら耳に入ってくるだろう」


 さすが天下人となる男だ。


 ただ単に言いつけられた仕事をするだけの凡将ではなかった。


「ほら、もう、そのくらいにして」と、寧々さんが俺の口に粥を押しつける。「たくさん食べて早く元気を取り戻すの。お仕事はそれから」


「はい、ご心配かけてすみません」


 秀吉が俺の肩をたたく。


「なあに、遠慮などするな。こうして生きておるだけでも良かったではないか」


「ありがとうございます」


 数日後、長篠へお市様付き女忍びの心結みゆがやってきた。


 起き上がって秀吉と話しているところへ、寧々さんが連れてきてくれた。


「ああ、心結殿、お久しぶりでございます」


「ご無事のご様子、安心いたしました」


「わざわざここまで何用ですか?」


「はい。清洲のお館様より明智様のことを承り、お市様から命じられて参りました」


「なんじゃ」と、秀吉が眉を寄せる。「おぬしのことをなにゆえにお市様が気にかけてくださるのじゃ。うらやましいにもほどがあるぞ」


「サル」と、寧々さんが秀吉の尻をつねる。「私の前で何言ってんのよ」


「いや、ただの冗談であるぞ。お館様のお身内に目をかけていただけるのは家臣としての誉れではないか。わしはただそう言いたかっただけじゃ」


「どうだか。高嶺の花に手を出して痛い目にあっても知らないわよ」


「わしは……ほれ」と、寧々さんの膝を撫で回す。「寧々殿一筋に決まっておるであろうが」


 どうでもいいが、ここでやるのはやめろ。


 だいたい、一筋とか言い訳するやつほど怪しいに決まってる。


 なのに、寧々さんは「ホントに?」などと、頬を染めながら秀吉の腕をつついている。


 ああ、もう、こんないい女房を持ってるくせに、浮気し放題なんて最低の男だ。


 だが、今はそんなことはどうでもいい。


 二人が仲睦まじく部屋を出て行ったところで、心結が話を切り出した。


「お館様はこのたびの武田家との交渉について、非常に明智様の功績を高く評価しておりました。あらためて友好の使者を派遣したいとのご意向です」


「そのためにも、私がまずは清洲へ赴いて詳細を説明せねばなりませんね」


「お体の方は?」


「だいぶ良くなりましたが、まだ歩ける状態ではありません」


「お市様もご心配なさっていらっしゃいます」


「姫様が?」


「医者を遣わすとおっしゃっておられましたが、お館様へのご配慮から、わたくしがお止め申し上げました」


「それはそうですね」


 あのシスコンに嫉妬されたら、俺が消されてしまう。


 そんなゲームオーバーは御免だ。


「お気持ちだけいただくとお伝えください」


 心結はうなずいて一歩間合いを詰めてきた。


「わたくしもお館様よりこのたびの裏を探れと命じられております」


「そうでしたか。どこから探りますか」


「このあたりの国人は羽柴様が掌握なさっているようなので、除外して良いかと。わたくしは別の方面から」


「心当たりは?」


 心結は言わなかったが確信を持った目でうなずいた。


 ならば今は任せておくべきだろう。


「では、お願いします」


「明智様は一刻も早くお体を治し、清洲へお越しください」


「はい、必ず」


 心結は懐から何かを取り出し、俺に差し出した。


「実は、甲斐国への御出立前に、あの女から預かっておりました」


 それは一房の髪だった。


「万一の時にはあの連中と共に供養を頼むと」


「美月はそこまで覚悟していたのですか」


 心結が静かにうなずく。


「わたくしも忍びゆえ、あの者たちの心情、分かる気がいたします。明日どころか今日をも知れぬ根無し草。いつどこで朽ち果てようとも、野ざらしの定め。せめてあの世での安寧をと、この髪をわたくしに託したのでございましょう」


 俺は天を仰いだ。


「私は約束を守れませんでした。彼らの『姐さん』を連れて逃げる約束を」


 あふれる涙は頬を流れ落ちていく。


「なのに、一人おめおめと帰ってきてしまった」


「それでいいのです」と、うつむきながら心結がつぶやいた。「あの連中はそれを望んでいたのでしょう。明智様はあの者たちの死を無駄にはしなかった」


 だが、美月を連れて逃げるという約束は果たせなかった。


 俺が弱すぎるからだ。


 自分の身も守れないで、全員を犠牲にしてしまったのだ。


 何が最強の軍師だ。


 最弱どころか、最悪最低のただの役立たずだ。


「では、わたくしは出立いたします」


「お願いします。なんとしてでも背景を突き止めて、彼らの無念を晴らしてやりたいですから」


「かしこまりました」


 心結が出て行った後、入れ替わりに秀吉が戻ってきた。


 妙に肌がつやつやしているが、今はあえて触れないでおく。


「鉄砲は手に入りますか」


「もちろん、ここにも百挺ばかりあるぞ」


「では、使い方を私に教えてください」


「おぬしが鉄砲を撃つのか」


「はい。今回の仇を自分の手で討ちます」


「なるほど、では、詳しい部下をおぬし付きの師範としよう」


「ありがとうございます」


 なんでも仕事の早い秀吉は、その日の午後にも一人の中年男を呼び寄せてくれた。

「鈴木兼重かねしげでございます」


 ん?


 鈴木?


「ご出身は?」


「紀州の雑賀にございます」


「やはりそうでしたか」


『信長のアレ』には、鉄砲使いで有名な紀州の国人鈴木氏の一人として、架空の武将が登場する。


『鈴木兼重』という名前は、それに関連しているのではないかと思ったのだ。


「兼重殿は、なぜこの地へ?」


「伊勢から紀州にかけての通商を担っておる商人から尾張のうつけと呼ばれる殿様はかなりの大物だと聞いたのでね」


「紀州に残してきた鈴木家の方々には反対されませんでしたか」


「我々は雇われればどこへでも出向きます。そこでお仕えしたあるじの期待に応えるのが仕事ですからな。それに、私は本家とは別の分家の分家筋ですので、どこで何をしようと、誰からも文句など言われませんよ」


 史実では織田信長と対峙した本願寺と組んで相当苦しめた敵の一族になるわけだが、一五六一年の段階ではまだ織田家に対するわだかまりはないのだろう。


 俺は念のために秀吉にたずねておいた。


「鈴木殿に私が関わることはお館様にも許可をいただいているのでしょうか」


「問題なかろう。そもそもこのわしにつけられた配下なのだからな」


「そうでしたか。では、お願いいたします」


 俺はまだ病床にあるうちから、鉄砲の仕組みや、撃ち方の講義を受けた。


 本物を持ったこと自体初めてだが、ずっしりどころか、最初は構えることすら難しかった。


「かなり重いものですね」


「はい、本体そのものが重いですし、それが長いので、重心をうまく意識して構えないと、腕が支えきれません」


 布団の上に座ったままの中途半端な姿勢で構えるのはますます困難だったが、俺は執念で兼重の講義を受け続けた。


 そして、自分で起き上がれるようになると、実際の射撃練習を始めた。


 銃口から火薬と弾を詰め込み、朔杖さくじょうという棒で押し込める。


 火皿に別の口薬くちぐすりという着火薬を置き、いったん火蓋を閉じて火縄をつける。


 これで準備完了。


 狙いを定め、引き金を引くと、火縄が口薬を爆発させ、その爆発が銃身内部の火薬に引火し、弾が発射されるという仕組みだ。


 まずは二丈(六メートル)先の的を狙うことから始めた。


 ほんの目の前のようだが、これがなかなか当たらないのだ。


 引き金を引いた瞬間、ズドオオオオンと、鼓膜が破裂するのではないかという轟音が場内に響き渡る。


 火薬の爆発の威力はすさまじく、しっかり構えているのに銃身が空へ跳ね飛び、銃床を支える肩が外れそうになる。


 そのため、いくら狙ったところで、火薬が爆発した段階ですでに照準がずれてしまうのだ。


 下手をすると、背後の壁を飛び越えて、あらぬ所へ飛んで行ってしまう危険な武器なのだった。


「明智殿はまるで力がありませんな。あまりにもひ弱すぎる。紙風船が銃を構えているようですな」


 鈴木兼重はあきれると言うより、哀れむような顔で俺を見ている。


「そんなのだと、弾はみな空へ飛んで行ってしまいますよ」


 師匠は銃を構えると空に向かって銃を撃った。


 飛んでいた雁がひらひらと落ちていく。


 同じ空を撃つのでも俺とは大違いだ。


「体を鍛えることから始めないといけませんね」


 まだ病み上がりの俺はさすがに鍛錬を始める余裕はなかったから、逆に、銃を固定して発射できるような装置を作ってもらうことにした。


 銃身に脚をつけ、台座に固定できるようにし、狙撃手のように狙いをつける練習を重ねた。


 あまりにも毎日俺が熱心に練習をしたせいで、城内の兵士たちが銃声を聞いても昼寝ができるようになっていた。


「まったく、いいことなのか何だか分からぬが、おぬしのその執念は見直したぞ」


 秀吉も時々俺と一緒に射撃の練習をするようになった。


 小柄な秀吉はやはり銃を持つのが難しいようで、二発も撃てば腕が疲れたと放り出していた。


 歩くことから鍛錬を始めて、重い物も持てるようになった頃、心結が長篠城へ戻ってきた。


 首尾は上々であった。


   ◇


 俺は秀吉の立ち会いの下で心結の報告を聞いた。


「調べた結果、明智様一行を襲ったのは水野家の一派と判明いたしました」


「水野と言えば松平の傘下ではないのか」と、秀吉が首をかしげる。


「はい、その通りですが、このたびの件は、ご当主水野信元様ではなく、その弟の信近様の仕業でございます」


「つまり水野の本家筋ではなく分家の独断でおこなわれたということでしょうか」


 俺の質問に心結がうなずく。


「水野信近様は兄の信元様とは仲は悪くはないのですが、昨年の桶狭間の戦いにおいて、今川勢が尾張東部から撤退したことで痛手を受けておりました」


「それまで伊勢湾の通商をおさえていたのが水野家でしたね」


「はい。当主の信元様は松平家が織田家に鞍替えしたことに従いましたが、信近様は伊勢の通商権益を織田家に奪われたことを恨みに思って、今川と通じておりました。元々水野家は今川とも婚姻関係を結ぶなど、つながりは深かったため、一枚岩ではなかったようです」


 秀吉が深くうなずいている。


「その伊勢湾の権益を押さえたのはおぬしだからな、光秀」


「織田家のためにやったことで恨みを買っていたわけですね」


「筋は通るな」と、秀吉はニヤリと笑みを浮かべた。「で、どうする?」


 心結は水野家の内情も調べていた。


「当主の信元様は最近体調がすぐれないらしく、弟の信近様に頼る局面が多くなっているようです。そのため、家臣たちの間でも、信元様を離れ信近様に近づこうとする者が後を絶たないようです。すでに半数以上が信近派と見られます」


「のう、光秀」と、秀吉が俺にたずねた。「弟の信近が、兄から家督を奪うことになると、松平から離反して、今川につくことにならぬか」


「なるでしょうね」


「それはまずいだろう。影武者を擁立した松平家は織田家の傀儡だが、家臣団がごっそり抜けたら今川義元に立ち向かうことなど不可能だぞ」


「ええ、桶狭間以前の状態に戻ってしまいますね」


「そうなると、この長篠が一番にやられるな」


 俺はうなずくしかなかった。


 秀吉がフムムとため息をつく。


「早急にお館様にご報告して、水野信近の成敗を許可していただかなければならぬな」


「我々も清洲へ参りましょう」


 俺の提案に秀吉は首を振った。


「いや、俺はここを離れるわけにはいかない。城主不在となれば、その隙を水野に突かれる可能性が高い。おぬしが行ってくれ」


 やはり天下人となる男は違う。


 一城の主らしい覚悟と貫禄がついたものだ。


「分かりました」


 俺は秀吉に早馬を出して先に信長に報告できるように手配してもらい、それと同時に心結を伴って清洲へ出立した。


 馬に乗るのは久しぶりで、歩くよりはましかというゆっくりとした速さだったが、まずは途中の岡崎城へ向かった。


 出迎えた酒井忠次は俺の様子を見て驚いていた。


「明智殿、何事でございますか。やまいにでもかかっておられたのか?」


 そう見えても仕方がないだろう。


「その話もありますが、まずは人払いのできるところへ」


 おお、とすぐに察して酒井忠次は奥の部屋へ案内してくれた。


 心結も同行させ、俺は道中で起きたことを話した。


「ううむ、なんと、そのようなご苦労をなさっておったとは。知らせを受けておれば援軍を向かわせたものを。なんとも申し訳ござらん」


「実は、その相手はこの心結が調べたところでは、水野信近の手の者だったそうです」


「なんと……」と、声を張り上げそうになった忠次があわてて声を潜めた。「水野の当主信元殿とはもちろん旧知の間柄でございますが、昨今は寝込んでおられると聞いておりました。弟の信近殿の専横がそれほどだったとは」


「実は今回私が清洲へ行くのは、その水野一派の成敗をお館様にご裁可いただくためなのです」


「なるほど、そういうことでしたか」と、酒井忠次は腕組みをして深くうなずく。「しかしながら明智様、こたびの件については、あくまでも分家の仕業ということで、本家のお取り潰しだけは避けるよう、なんとか取りなしていただけないでしょうか」


「はい、私もそれは望んでおりません。あくまでも実行役だけを成敗するべきだと考えております」


「それを聞いて安堵いたしました。水野信近の罪は重大ですが、水野家の軍事力を丸ごと削られてしまうと、松平の力はほぼ半減となり、今川がそれを見過ごすとは思えませんのでな」


「このたび武田との同盟が成立しましたので、今後は三河への狼藉もなくなります。その分、今川へ兵力を割り振れるようになるでしょう」


「おお、それはありがたい。さすがは明智殿、長きにわたる懸案を解決してくださったとは」


 安堵の息を吐く忠次に、俺は水野討伐の準備を依頼した。


「清洲へ着き次第お館様のご裁可を頂きます。すぐに出陣できるよう、準備をお願いいたします」


「かしこまりました」と、忠次が頭を下げる。「水野に悟られてはいけませんので、織田家からの動員要請と偽っておきましょう。実際、そう違いはありませんからな」


 さすが忠次だ。


 忠次がいる限り、松平家は安泰だろう。


「影武者たちはうまくやっていますか」


 松平家当主信康となった世良田村の作兵衛。


 榊原康政となった久作。


 平八に二つ足りぬ六太郎本多忠勝。


「殿を中心に三人が支え合い、一揆の鎮圧など、文武ともに着実に成長しておりまする」


「そうですか。それは何よりですね」


「最近、康政がそろばんをたしなみ始めましてな。出入りの商人たちに教わって帳簿を見たりしております」


 令和のように小学校で習うわけでもないのに、算数ができるとは意外な才能だ。


「明智殿の見立ての通り、これからは商業の力が重要になりましょう。康政が我が松平家の勘定方かんじょうがたとなれば、御家の発展に役立つことでしょう」


「そうですね。期待しておきましょう」


 忠次の顔には朗らかな笑みが浮かんでいた。


 それはまるで息子の成長を見るような笑顔だった。


 その夜は岡崎に泊まり、翌朝、俺と心結は清洲へ向かって出発した。


 整備された東海道はかなり通行が楽だった。


 俺は多少無理して馬を走らせ、日が暮れる前に清洲へたどり着いた。


 長篠から二十五里(百キロメートル)。


 ――ああ、帰ってきたのだ。


 見慣れた風景にほっとして、馬から落ちそうになってしまう。


「ここまできて落馬で死ぬのはおやめください」


 心結の嫌味ももっともだ。


 大事な報告だけでなく、俺はお市様に会いたいのだ。


 再会をどれほど夢見ただろうか。


 自分の屋敷で湯を沸かして身繕いをしているところに柴田勝家がやって来た。


「おお、明智殿、久しぶりであるな。長い間ご苦労であった。疲れているであろうが、お館様がお待ちである。さっそくわしと一緒に来てくれぬか」


「はい、ただちに」


「うむ。聞けばその方、ひどい怪我だったそうだが、具合はどうなのじゃ?」


「ええ、なんとか回復いたしました」


「それは何よりだ。おぬしにはまだまだ織田家のために働いてもらわねばならぬからのう。頼りにしておるぞ」


 柴田勝家の裏表のない言葉はとてもありがたかった。


 こういった実直な武将が報われるような世の中を作るためにも、俺は頑張らなければならないのだ。


 登城したときはすっかり暗くなっていたが、清洲城には篝火がたかれ、林秀貞、森可成、佐々成政、村井貞勝といった重臣たちも続々と広間に集まってきていた。


 心結はお市様へ到着の報告をしに別行動だった。


「お館様のお成りでございます」


 小姓が信長の登場を告げると、家臣たちが緊張の面持ちで整列する。


 顔を上げると、不機嫌な信長が俺をにらみつけていた。


「光秀よ、その方のこたびの働き、誠にあっぱれであった。武田との同盟を成立させてくるとは、たいした手腕。褒めてつかわす」


「ありがたき幸せ」


「しかし」と、信長はあからさまにため息をついた。「なんじゃ、その姿は」


「申し訳ございません。帰路において襲撃を受けました」


「報告は聞いておる。水野の一族だそうだな」


「はい。どうやら、伊勢湾の通商権益を奪われたことに対する報復だったようです」


「このわしに逆らう者はさっさと始末せよ。松平の傘下にある者の不始末とあれば、松平に責任を取らせよ」


「すでに、岡崎において、松平へは出陣の準備を整えさせております」


「よし、では、このことを松平へ伝え、やつらに成敗させよ。わしが怒っておるとな」


「かしこまりました」


 と、そこまで話したところで、信長は急に姿勢を崩して表情を緩めた。


「光秀、よけいな邪魔は入ったものの武田との同盟が成立したわけだ。今後について、その方の意見を聞かせろ」


 天下布武へ踏み出した織田信長にしてみれば、過ぎたことは始末させ、さっさと先の見通しを立ててしまいたいのだろう。


「そのことですが、まず、わたくしめに鉄砲の入手するための権限を与えていただきたいのですが」


「それはどのようなものだ?」


「これまでの火縄銃を改良し、高精度な長距離射撃を可能にする鉄砲を開発したいのです」


「それは、つまり……」と、信長が一瞬口ごもる。「その方の知識によって開発できるのだな」


 織田信長は俺が未来から来た人間だと知っている。


 だが、それを大勢の家臣の前で明かさぬように、慎重に言葉を選んでいるのだ。


「はい、それを試してみたいのです」


 薬莢の火薬で流線型の弾丸を発射する元込め銃は銃身内に溝を掘り、弾丸を回転させて発射することで、独楽こまの軸のように射線上をぶれずに飛ばすことができる。


 丸い弾丸を飛ばす火縄銃はその点で不利だが、元込め銃を開発するには、戦国時代の技術力では弾丸を込めた部分を密閉することができないため、知識はあっても実現はできない。


 だから、今の段階では、火縄銃としての改良を進めるしかないのだ。


 だが、その計画自体も、この尾張国にはそもそも鉄砲鍛冶がいない。


 そのために、俺は次の攻略目標について織田信長に進言した。


「お館様、この改良には、鉄砲鍛冶を味方につけることが必要です」


「しかし、尾張には商人はおるが、鉄砲を作れる鍛冶屋はおらぬぞ」


「はい。今の段階では、その商人たちを通して近江国の国友村へ発注しようと考えております」


「その伝手つてはあるのか」


「はい、伊勢屋惣兵衛から紹介を受けた能登屋重四郎という商人が近江から北陸への通商を担っております。その商人を仲介役として、国友村へ発注しようと思います」


「あい分かった」と、信長は扇子で膝を打った。「費用も必要なだけ使え。妥協はするな」


「ははっ」


 俺の懸念はその費用だったのだが、あっさり許可が下りるとはやはり織田信長は理解が早い。


 俺は話を続けた。


「ゆくゆくは近江の鉄砲鍛冶そのものを支配下に入れなければなりません。そのために、まずはその手前にある美濃攻略を次なる目標といたします」


「ほう」と、信長が髭を撫でた。「聞かせろ」


「美濃の斎藤家は奥方様のご実家ではございますが、すでに道三殿は亡く、義龍殿が当主となっておりますので、義父の敵討ちという名目であれば、充分大義になるかと」


「なるほど、それはわしも考えておったところだ」


 俺は信長に隠していることがある。


 史実では、今年一五六一年に斎藤義龍は病死するのだ。


 そしてその後を息子の義興が継ぎ、織田信長は美濃侵攻を開始する。


 だから、俺の進言などなくとも、最初からそのつもりだったのだ。


 ただ、史実を知っているおれば、それを先取りして進言することで都合良く自分の手柄にできるというわけだ。


 さらに俺は秘策を披露した。


「美濃の斎藤家には竹中重治という非常に優秀な人物が仕えております。その者を我が織田家に迎え入れることができれば、戦わずして美濃を手に入れたも同然でございます」


《竹中重治(竹中半兵衛):黒田官兵衛と共に両兵衛と称された軍師:統率96、武勇61、知略102、政治57》


 この戦国史上最も有名な軍師は僅かな手勢で岐阜城を乗っ取ってしまったのだ。


 それを史実通り実行させれば、兵を動かさずに美濃を奪い取ることができる。


 俺はその裏事情を伏せた上で、竹中半兵衛を招くように進言したのだ。


 信長は即座に同意した。


「ならば早速使いを出そうではないか」


「しかしながら、非常に謙虚な人物ゆえ、お館様の直臣となることは辞退するでしょう」


「なんとも気難しい男よ。では、どうしたらいい?」


「羽柴秀吉殿に迎えに行かせてはいかがかと。策士は策士と相性が良いかと存じます」


「サルか。なるほど、人たらしの本領発揮というわけか」


 信長は俺に顎を向けた。


「長篠はどうする。サルの代わりに誰を向ける?」


「前田利家殿ではいかがでしょうか」


「又左か」と、信長がニヤける。「そろそろあいつめにも一城を任せてもよかろうて。勝家」


「ははっ」と、柴田勝家がにじり出る。


「又左をすぐに呼び寄せよ」


「かしこまりました」


「長篠のサルへは今から早馬を出せ」


 その命令に家臣たちがざわつく。


 外はもう真っ暗だ。


 ふつうなら、馬を走らせることなどできない。


 だが、信長はまったく意に介す気配がない。


「こういうときのために街道筋に常夜灯を整備したのであろう。やれぬとは言わせぬ」


 みな黙り込んでしまうが、それを進言したのは他でもない俺だ。


 一度推し進めた計画を放置せず、その効果を確かめようとするのも、実務家としての有能さの表れだろう。


 さすが織田信長だ。


 どんなことにも抜け目がない。


「サルめの書状には、明日の夕刻までに清洲へ登城せよと書いておけ」


 柴田勝家が額をかく。


「お言葉ながら、お館様、ふつうは早くても今から書状を届けても三日はかかるかと」


「そのような当たり前のことを当たり前にしかできぬ無能な者が織田家中におると申すのか」


「あいや」と、柴田勝家が恐縮して平伏する。「ただちに手配を」


「それでいい」と、信長は鷹揚にうなずいた。「サルならやってのけるであろう。間に合わぬと言うのであれば、光秀!」


 ――え、俺!?


「街道の整備を進言したその方の落ち度であるぞ。ゆえに、サルが来なければその方も同罪として処刑する」


 ちょ、え、何の気まぐれ?


 どういうこと、『走れメロ……』、いや、『走れ秀吉』ってこと?


 いやいや、いくら戦国時代でこっちの方が数百年早いからって、文豪の名作をあからさまにパクったらいろいろ問題になるだろうよ。


 あいつ、途中で山賊に襲われたり、飽きて昼寝したり、実は歩く速さとあまり変わらないとか、最後の最後、放送時間に間に合わせるように清洲城に登場してみんなで大合唱とか、なんか他のやつと混ざったようなよけいな演出しないでちゃんと来てくれるんだろうな。


 距離もちょうど百キロだし。


 嫌な予感しかしない。


「俺を待たせるなど、言語道断」と、困惑する俺を眺めて満足したらしく、信長は上機嫌に立ち上がった。「よし、では、本日はこれまで、みなの者、夜分ご苦労であった」


「ははっ」


 信長が奥へ去り、家臣たちが散会する。


 俺は柴田勝家から命じられて書状を作成している右筆に、一言言い添えた。


「書状の最後に、『お市様が待っている』と書き添えてください」


 あいつのことだから、鼻息荒く駆けつけることだろう。


 早速早馬が長篠へ向けて出発し、それを見送った俺は自宅に戻ってようやく一息ついた。


 あとは松平家が水野信近を討伐すれば今回のことは一件落着。


 美月たちの敵討ちと供養になるだろう。


 病み上がりの俺に付き添ってくれていた心結が床に手をついて丁寧に頭を下げた。


「明智様。お疲れ様でございました」


「ああ、心結もご苦労様でした。今夜はゆっくりと休んでください」


「いえ、お市様より添い寝をするように指示を受けております」


 ――はあ?


 添い寝?


 だからその……。


 俺はお市様にこの身も心も捧げると誓ったのだ。


 いくらお市様御本人のご意向とはいえ、他の女性にょしょうに手を出すなど、できるわけがない。


「いや、その、俺はまだそのような……体力は回復しておりませんので」


 心結がキッとにらみつける。


「それはどのような意味でございますか。姫様がおっしゃっていたのは、病み上がりの明智様が安心して寝られるようにとのご配慮でございますが」


「あ、ああ……そうですよね。あはは、ご配慮痛み入ります。では、すぐにでも休みましょう」


 冷たい布団にくるまって眠りについたところで、闇の中から声がした。


「ただ今の勘違い、お市様には内緒にして差し上げます。くれぐれも下心など抱かぬよう。あらためて身を振り返ってくださいまし」


 ――ふう。


 とんだ勘違いだよ。


 だけど、お市様への忠誠心を試そうと、わざとそういう言い方をしたんだろ。


 まったく危ないところだったぜ。


   ◇


 驚くべき事に、秀吉が到着したのは夕刻どころか、翌日の昼過ぎだった。


 登城して待っていた俺のところへ駆け込んできた秀吉の姿を見た清洲城の面々はあまりの速さに驚愕し、秀吉に群がり、労をねぎらっていた。


「おい、光秀!」と、上司たちへのあいさつを済ませた秀吉が俺の胸ぐらをつかむ。


「はい。来てくださると信じておりました」


「いや、おまえなどどうでもいいのだ」と、呼んだくせに俺の肩を押しのける。「お市様がこのわしを待っておると聞いて駆けつけたのだ」


「ああ、あれは……」


「ふん、おぬしの策略であろう」と、あっさり真相がバレたらしい。


「すみません。そうでも書いておかないと、約束の刻限に間に合わないかと思いまして」


「そのくらいのこと、このわしが見抜けぬと思うたか」と、胸を張るが、すぐに背中を丸めて俺に耳打ちした。「寧々殿にあの書状を見られてしまっての。なにしろ、浅野殿のご息女とあってわしより字が読めるものだからな。お市様がわしに用などあるはずがない。これは明智殿の策略だとすぐに見抜いておった」


 さすが寧々さんだ。


「秀吉さん、あんた、絶対に寧々さんを離しちゃだめですよ」


「何をゆうておる。わしは寧々殿一筋じゃといつも言っておるだろう。他の女子(おなご)と遊んでもそれはすべて遊び。本気なのは寧々殿だけじゃ」


 最低な言い訳を堂々と言い放つクズ野郎だが、とにかくこんなにも早く到着するとはさすがに予想外だった。


「ま、お市様だけは別格だがな」


 まったく、どこまでもこいつらしいところは逆に憎めない。


 見習いたいとは思わないが、非モテボッチ陰キャ男子から卒業したい気持ちはある。


 しかし、そんな馬鹿な話をしている余裕などなく、すぐに信長に呼ばれ、俺たちは広間に上がった。


「サル、その方、ずいぶんと早く来たものだな」


「お館様のご命令とあればいついかなる時にもこのサル、命など惜しまず駆けつけまする」


「うむ、見事、褒めてとらすぞ」


「ありがたき幸せに涙で前が見えませぬ」


 畳に額をこすりつけていたら何も見えないのは当たり前だろうに。


 まったく、誰にでも調子のいい男だ。


「光秀よ」と、信長が俺をニヤけ顔で眺める。「命拾いしたな。その方の整備した街道の効果、しかとこのわしも目の当たりにしたぞ。今後、より一層各地に常夜灯を設置し、往来の安全を確保せよ」


「ははっ」


 信長が庭に視線を流しため息をつく。


「持つべき者は竹馬の友だな」


 いや、俺と秀吉は去年知り合ったばかりなんだけど。


「わしにもそのような心許せる友がおればいいのだがな。できればその方どもに交じりたいものよ」


 いや、これ以上名作のラストシーンをなぞるのはやめてくれ。


 ただでさえ、タイトルが『信長のアレ』なんてごまかしてるんだから。


 なのに、いきなり秀吉が着物を脱ぎ始めた。


「お館様のために、このサルめが裸踊りをご披露いたしましょうぞ」


 やめろこら、裸で登場とか、どこまで寄せる気だ。


 と、そこへ侍女がやってきた。


「おそれながら、お市様がお目通りを願っております」


「何、そうか」と、信長が背筋を伸ばして真顔に戻る。「これ、サル、その粗末な物をしまえ」


「申し訳ござりませぬ。ただちに」と、秀吉があわてて着物をかき集めた。


 ――ふう。


 助かったぜ。


 戦いに敗れるのならまだしも、この物語がこんなくだらない理由で強制終了させられたら、俺の野望までゲームオーバーになるじゃないかよ。


 着替え直した秀吉に信長が命令を伝えた。


「光秀の進言により、この先我が織田家は美濃攻略に着手することとなった」


「ははっ。僭越ながら、このサルめも、武田との同盟で東への備えができた今こそ、光秀の申す通りかと」


「うむ、そこでだが、サルよ、美濃にいる竹中重治なる男を連れて参れ」


「それは何者でございますか」


 俺が代わりに説明した。


「非常に軍略に優れた武将です。彼一人で、一国の兵を使わずとも戦いを制することでしょう」


 信長が扇子で秀吉を指す。


「金に糸目はつけぬ。なんとしてでも竹中重治を我が織田家へ迎え入れよ」


「かしこまりました」


「金で動かぬ場合は、その方がサル躍りでもして引っ張ってこい」


「困りましたな」と、秀吉がウッキッキと頭を掻く。「金で動かぬ堅物ならば、酒や女も効きませんでしょうな。この光秀のように」


 俺に視線を送って信長が笑っている。


 ――堅物か。


 この二人には俺がそういうふうに見えているわけか。


 ただの経験のない非モテボッチ陰キャ男子なんだけどな。


 だがまあ、お市様への気持ちが漏れてはいけないから、そう誤解されている方がいいだろう。


「大丈夫ですよ。秀吉殿なら、竹中殿も心を開いてくれましょうぞ」


「またおぬしの予言か。先の読めるやつにはかなわぬわい」


 と、そこへ予告通り侍女を引き連れたお市様が姿を現した。


 俺と秀吉は畳に額をこすりつけて頭を下げた。


「市、どうした?」


「兄上に菓子をお持ちいたしました」


「ほう、そうか」


「南蛮渡来のカステイラなる焼き菓子にございます」


「何、それはどのような物じゃ。早く見せてみよ」


 甘い物に目がない兄の好みを熟知してご機嫌を取るのが巧みだ。


 戦国の風雲児がうまい具合に飼い慣らされている。


 信長は差し出されたカステイラを一切れ手でつかんで早速かぶりついた。


「おお、なんとも柔らかな菓子であるな。まるで真綿の布団を食っておるようじゃ。むむむ、この茶色く焦げたところが絶品じゃな」


 南蛮菓子が俺と秀吉にも下げ渡された。


 令和ではありふれた菓子だが、秀吉がパクリと頬張って、もぐもぐと茶色いかすを飛ばしながら飲み込む。


「まことに美味でございまする。お市様に会えると……いやその、お館様のためにと懸命に駆けつけた疲れも吹っ飛んだでござる」


「もうお一ついかが?」


「なんと、よろしいのでございますか。ぜひぜひ」


 お市様が自ら差し出す皿に手を伸ばそうとする秀吉を信長がにらみつけていた。


「サル、食い過ぎて腹を壊すなよ」


「腹だけは丈夫でござる。万一の時には、行商の折に売っていた薬もございますので」


 あれは確かヨモギを干しただけの怪しい薬だとか言ってなかったか。


 遠慮を知らない秀吉をにらみつけながら、信長がお市様に菓子を下げろと手を払った。


 口いっぱいに頬張った秀吉もさすがに気づいたのか、二切れ食べたところでようやく手を引っ込めていた。


 信長があらためて指示を与える。


「サルよ、長篠へは前田利家を派遣させる。その方が美濃へ赴いている間に寧々殿も清洲へ呼び戻すが良い」


 お市様が俺に視線を流しながら横でつぶやく。


「愛する奥方と離ればなれだったとは、さぞかしお寂しゅうございましたでしょう」


 秀吉は顔を真っ赤にしながら頭を下げた。


「いえ、めっそうもない。このサルめは、お館様のためならいついかなる時でも、どこへでも赴きまする、ムゴッ……」


 食いながらしゃべっていたせいか、喉に詰まらせたらしい。


 違う理由で顔を真っ赤にした秀吉に侍女がお茶を差し出す。


「こ、これはかたじけのうございまする……ぷはー、生き返ったでござる。危ないところじゃった」


「サル、今日中に美濃に着け」と信長がカステイラを頬張る。


「な、なんと、またこれからでございますか」


「知恵者のサルならば可能であろう」


「秀吉殿」と、お市様が微笑む。「兄上のためにご苦労様です。わたくしからもお頼みいたします」


「こ、これは、姫様からのお言葉、この秀吉しかと肝に銘じます。今すぐにでも出立いたします」と、いきなり腰を浮かす。


 まったく、落ち着けよ。


 舞い上がりすぎだろ。


 信長の御前を辞して俺は秀吉と一緒に城を出た。


「のう、光秀」と、別れ際に秀吉が鼻歌交じりに俺を呼んだ。「又左を推薦してくれたのはおぬしだそうだな」


「はい」


「若き日の血の気の多き失態で長らく又左も不遇の身だったが、これによりまつ殿を安心させられるであろう。わしからも礼を言うぞ」


 前田利家は刃傷沙汰を起こして一度は追放されていたのを、桶狭間の手柄で復帰が認められ、今回一城の主まで出世したのだ。


 俺もこの時代に来てずいぶんと世話になっている。


 これくらいの恩返しは当然だ。


「秀吉殿も竹中重治を呼び寄せ、次なる美濃攻略でもっと手柄を立ててください」


「ふむ、そうなればお市様もわしの功績を認めてなびいてくださるかもしれぬな」


 つくづく死亡フラグを立てるのがうまい男だ。


 なびくどころか、娘たちにも恨まれるとは、夢にも思わないんだろうな。


 秀吉を見送って家に戻ってくると、伊勢屋惣兵衛が能登谷重四郎を伴ってたずねてきた。


 国友村の鉄砲鍛冶への仲介の件で今朝使いを送ったのに、もう来るとは。


「明智様、お久しぶりでございます」


「わざわざご足労頂きありがとうございます」


「明智様に整備していただいた街道と常夜灯のおかげで我々の売り上げもうなぎ登りでございます。呼ばれればどこへでも伺いますよ。ちょうど能登屋さんも来店していたので、善は急げとご同行願いました」


 さすがに商人は話が早い。


 織田家の御用となれば相当な金額が動く。


 儲けが見込めるとなれば驚くほどの速さで話が進むわけだ。


 座敷に上がってもらって、さっそくはなしを進める。


「国友村へ発注したい鉄砲について、図面のような物はございますか」と、能登屋がたずねた。


 俺はあまり絵がうまくはないので、織田家中から絵心のある者を借り受けて図面を作ってもらっていた。


「こちらをご覧ください」


「ほほう、これは」と、二人が息をのむ。「見たこともない鉄砲でございますな」


 それは銃身を倍以上に長くし、支えるための脚をつけた狙撃銃だった。


「有効射程距離を十町(約一キロメートル)まで伸ばしたいのです」


「十町!」と、二人がのけぞる。「これはまた大胆な」


「距離を長くするだけでなく、的を正確に射貫く精密さを求めているのです。銃だけでなく、弾丸も真円に近い物を作ってもらいたいのです。すでにお館様からは資金については任せるとのお言葉をいただいております。職人の言い値で発注します」


「かしこまりました」と、能登屋が図面を見つめたまま答えた。「国友村へすぐにでも赴き、伝えましょう」


「お願いします」


 事はうまく運んでいるかに思われた。


 だが、一番肝心のことが欠けていた。


 翌日、清洲城へ松平からの早馬が到着した。


「ご報告いたします。水野信近は討伐の動きを察知して遠江の今川義元を頼り、すでに三河を去りました」


「是非もなし」と、つぶやいただけで信長は使者を下がらせた。


   ◇


 後日、松平信康が清洲へわびにやって来た。


 これは酒井忠次から俺に信長の機嫌について問い合わせがあり、弁明をおこなうべきと助言したことから実現したものだ。


 実際のところ、信長はこのたびの失態に関して『是非もなし』以外の感想を言葉にも態度にも表してはいなかった。


 だが、だからこそ、相当な怒りであることが俺にも分かっていた。


 いつもの信長なら怒鳴り散らすはずだ。


 復讐の念を抱いているのは俺だが、面子を潰されたのは信長だ。


 表面上の落ち着きの裏にある真意は計り知れない恐怖だった。


 案の定、織田家の重臣たちの前で、松平家当主である影武者の信康と対面すると、信長は開口一番、厳しく叱責した。


「このたびの失態、いかがいたすつもりだ。その方どもの配下にある者が起こした反逆行為であるからこそ、その方どもの手で始末させようとしたわしの顔まで潰しよって」


「誠に申し訳ございません」


 信康以下、付き添いの酒井忠次も畳に額をこすりつけて謝罪するしかなかった。


 とはいえ、これは予想していたことであり、それを踏まえて俺には腹案があった。


「お待ちください」と、俺は頭を下げながら前に進み出た。


「なんじゃ」と、信長は癇癪を隠そうともせず扇子を俺に投げつけた。


「水野の残党を取り逃がしたのはたしかに落ち度かもしれませんが、むしろ、今川討伐の口実とすればよろしいのではないかと」


 水野と今川のつながりがはっきりしたことで、裏切られた松平と武田への使者である俺を襲撃された織田の両家に大義名分が生まれたのだ。


「なるほど」と、信長は落ち着きを取り戻して顎を撫でていた。「その方の申すこと、筋は通っておるな」


 柴田勝家がにじり出た。


「お館様、まずは今川義元に水野信近の引き渡しを要求いたしましょう」


「よし、すぐに使いを送れ。返答次第では、いくさになるぞ」


 そして、信長は松平の一行に向かって下知げじを与えた。


「このたびのことは不問といたす。二度と討ち漏らすことは許さぬぞ。しかるべき備えをしておけ。よいな」


 松平信康は額を畳にこすりつけて感謝の言葉を述べた。


「寛大なご処置ありがたき幸せに存じます」


 切り替えの早い信長は紅潮していた顔をすっかり落ち着かせて手元の饅頭を口に放り込み、茶をすすった。


「光秀!」


「ははっ」


「長篠にいる前田利家を織田家の大将として松平家に加勢させる。その方が軍師として必ず勝利を収めさせろ。いいな」


「かしこまりました」


「手段を選ぶな。必ず仕留めろ。今川に煮え湯を飲ませてやれ」


 そう言い残すと、信長はさっさと立ち上がって奥へ引っ込んだ。


 桶狭間以前は周辺からの脅威を感じて縮こまっていた織田家が、今はむしろ名門の今川家を脅かそうとしている。


 これも経済力の裏づけがあることで現れた自信なんだろう。


 それを実現させたのは軍師である俺だ。


 信長はそれを分かっているから俺に任せたんだ。


 この試練を乗り越えて、より一層の信頼を得なければこの先の戦国制覇ストーリー――そして、お市様と交わした『約束』――は描けない。


 ただ、そのために集めるべきパーツは次々とそろいつつあった。


 春になって山の雪が溶けた頃、織田家は正式に同盟の使者を甲斐国へ派遣した。


 俺が交渉してきた内容通りに同盟の約定やくじょうが成立し、さっそく織田家の出資によって伊那いな街道の整備が進められた。


 さらに、三河の港に武田家の拠点が置かれ、内陸国の甲斐国への通商路がつながった。


 それを受けて、内陸への権益を狙う伊勢屋や能登屋などの大商人が尾張の清洲や三河の岡崎に拠点となる店を置くようになり、伊勢湾の通商から得られる利益は昨年よりもさらに増え、楽市楽座による商人の往来もますます活発になっていた。


 織田家だけでなく、松平家にも通商の効果は現れ、榊原康政が弾くそろばんの勢いは笑いが止まらないようだった。


 俺が戦国時代に来てからたった一年弱の短期間でも、何もなかったところに作り始めた発展の土台からはあっという間にいくつもの柱が立ち上がっているのだった。


 清洲城下ではこれまでの定期市に加え、町の東西に五日市と十日市が開かれるようになり、ほぼ毎日と言っていいくらいどこかで祭りのような賑わいが起きていた。


 わざわざ美濃や遠江から来る小商こあきないの行商人も多く、各地の情報が飛び交っていた。


「美濃の斎藤義龍様が亡くなられたんだってよ。まわりの大名に狙われていくさになるって、商人が逃げ出してるよ」


 史実に基づいて予想した通り、斎藤道三から美濃を奪ったばかりの義龍はあえなく病死したのだ。


「息子が後を継いだそうだが、マムシと呼ばれた先々代からわずかな間で、ずいぶんと様子が変わるもんだなあ」


 立ち話をしている二人の横では、商人たちが茶屋で休憩していた。


「今川は戦の支度を始めているそうだ」


「織田のお殿様を怒らせたそうじゃないか」


「ああ、織田の殿様が強気な要求をしたらしいが、突っぱねたんだってさ。昨年は織田の動きを察知して今川義元が撤退したから命拾いをしたんだが、今度はどうなるかね」


「いやあ、さすがに今川は負けぬだろう。なんといっても織田が足元にも及ばない名門だからな」


「だがよ、武田が横やりを入れたらまずいだろ。松平だって元々は今川の傘下だったのが織田に着いたわけだし」


「そうか、状況が違うか」


「どうだ、賭けねえか」


「お、いいね」


 賭けと聞いてまわりの連中が首を突っ込んでくる。


「俺もかませてくれよ」


「俺も入れてくれ」


「俺は織田家の勝ちと見た」


「大きい声じゃ言えないが、今川だろ」


「馬鹿野郎、言えねえって言うくせに声がでけえよ」


 俺はそんな街の連中の話を耳にしながら鈴木兼重のもとへ通い、毎日百発ずつ撃っていた。


『下手な鉄砲数撃ちゃ当たる』と簡単に言うが、まだこの時代、火薬は貴重品で雑兵が気軽に撃てるものではない。


 織田家では経済力に物を言わせ、射撃場を作って使い方を教え、少しでも命中精度を上げられるように訓練を開始していた。


 そのおかげで最近では銃の構えや照準の付け方が安定してきて、一町(百メートル)先の的に当たるようになっていた。


 だが、師匠は首を振る。


「上達は早いが、実際の戦場いくさばではまだまだこれではだめですな」


「一発外してしまうと、次の弾を込めているうちに逃げられてしまいますからね」


「それだけではありません。火薬の音と立ち上る煙で自分の居場所を知られてしまいますから、攻め込まれます」


「立場が逆転するわけですね」


「はい。音のしない弓と違って鉄砲は一発必中でなければならないのです。当たらない鉄砲はただの木の棒に負けてしまいます」


 鈴木兼重は的を二町先に据えた。


「これではいかがでしょうか」


 二百メートル先にある小さな木の板は、狙いを定めるどころか、点にすら見えない。


「まったくどう狙ったものか、見当もつきませんね」


「はい、目で見るのではなく、心で見るしかありません」と、鈴木兼重も冗談とも本気とも思えぬことを言う。


 だが、師匠は鉄砲を構えると二町先の的に向かって発砲した。


 俺が見る限り、これまでの撃ち方と何かが変わったようには見えなかった。


 なのに、二町先で小さな的が吹き飛ぶのがはっきりと分かった。


「見えるでしょう」と、師匠がつぶやく。「狙ったときの的は小さな点だった。それでも、今、吹き飛んだ的は見えたでしょう」


 そう言われてみればそうだ。


 真っ二つに割れて空へ舞い上がって落ちるところがはっきりと見えたのだ。


「人は目で見ているつもりで、本当は心で捉えているのです。目の前にあるものでも関心がなければ目に入らない。しかし、どんなに遠くにあるものでも、それを見ることは可能なのです」


「十町先では?」


 師匠はふっと笑みをこぼした。


「私ならできます。ただ、そこまで届く銃がありません」


 俺が国友村に注文した鉄砲なら一キロメートル先まで届くはずだ。


 それを使えば、Sランクの鈴木兼重なら外さない自信があるということだ。


 ならば、俺にだってできないはずがない。


 俺に二町先の小さな点をじっと見つめながら、まるで当たらない射撃練習を地道に続けていた。


   ◇


 竹中半兵衛と話をするために美濃へ赴いていた秀吉が帰ってきた。


「どうでした?」


「首尾は上々じゃ。我らが仲間になると約束を取り付けてきた」


 さすがは秀吉だ。


 だが、その半兵衛の姿はない。


「半兵衛殿はまだ美濃にいるのですか」


「うむ。実はな、今重要な秘策を練っておるところだと申しておって、それが終わらぬうちは清洲へは来られないそうだ」と、秀吉がサルのように頭をかいた。「わしはお館様へどうご報告したら良いのだ」


 史実では、斎藤義龍から龍興へと代が変わって政務が乱れた頃に竹中半兵衛は稲葉山城を乗っ取っている。


「それは構わないでしょう。来てもらわなくても、こちらが美濃を手中に収めて会いに行けば良いのですから」


「わはは、なるほど、それもそうか。おぬしのその言葉、そのままお館様に申し上げることとしよう」


 俺は稲葉山城を奪取する計画を記して竹中半兵衛のもとへ書状を送った。


 本人が考えた史実を未来の俺が横取りしているわけだが、知らせずに万一、作戦が実行されなかったら困るのだ。


 念には念を入れておくべきだろう。


 すると、数日後に、俺のところへ小柄な男がたずねてきた。


 顔は蒼白く見た目は女性のようで、病弱なのかしきりに咳をしている。


「拙者、美濃から参りました竹中重治と申す」


「これはわざわざ遠くから。織田家の明智光秀と申します」


 挨拶もそこそこに、竹中半兵衛は周囲を警戒しながら小声で話を切り出した。


「明智殿は、なにゆえにわたくしの考えていた計画をご存じなのですか」


「おそらく偶然でしょう。半兵衛殿のような優秀な軍師であれば、当然お考えになっていたことを私もたまたま思いついただけです」


 ずうずうしいが丸パクリだとは隠しておくしかなかった。


「実はわたくし、明智殿のお名前はかねてより存じ上げておりまして」


「そうでしたか」


 美濃国まで噂が伝わっているとは、俺も有名人になったものだ。


「南蛮商人のデイブ・スミッシーなる者が、『尾張国の織田家に明智光秀という最強の軍師がいる』と吹聴しておりまして」


 ――デイブ!


 あいつか!


「かの南蛮人は何をしておりましたか」


「いえ、ただの物見遊山らしく、遊郭で派手に騒いでおりまして。その後は、京へ上ると言っておりました」


 京都でも俺のことを噂するんだろうか。


 どうもあいつだけは気に入らない。


 織田信長の野望を根底から覆すようなとんでもないことをやらかしそうな不気味さがある。


 俺は竹中半兵衛と今後のことについて話をした。


「美濃国を手中にして、その後はどうなさるおつもりか」


「浅井と朝倉の同盟関係を割り、六角を攻めて京へ上がります」


「すでに東の武田とは手を打ったそうですね」


「はい。美濃国の前に今川とのしこりも取り除きます」


「水野信近ですか」


 そこまでつかんでいるとは、やはり戦国一の軍師と言われた竹中半兵衛だ。


「一つだけ差し出がましいことを」


 ん?


 なんだ?


「今川氏真の使い道をお間違えにならぬよう。これは信長様にも充分にご理解頂く必要がありますので」


 氏真の使い道か……。


「なるほど。さすがは半兵衛殿。大変参考になりました」


「首尾良く片づいた後は、美濃のことについてはわたくしにお任せください」


「はい。お願いします。頼りにしております」


「わたくしは秀吉殿の配下として明智殿とも行動を共にすることになるでしょう。二人でこの戦国の世を太平の世へと作り替えていければと」


「はい、私もそう願っております」


 咳をしながら竹中重治は美濃へ帰っていった。


 そして、桶狭間からちょうど一年が過ぎた旧暦五月(現代の六月頃)、鉄砲が届いたと能登屋から知らせが来た。


 清洲にできた店で伊勢屋も同席して鉄砲が披露された。


 風呂敷に巻かれた二間(3.6メートル)の包みが運び入れられるが、間口でつっかえそうになり、能登屋が叱りつける。


「大切なお荷物だ。慎重に」


 畳の上に置かれた包みを広げると、そこに現れたのは槍のような銃身を持つ異様な長さの銃だった。


「おおっ、これは……」と、伊勢屋も息をのむ。


 ふつうの火縄銃と比べて四倍の火薬を受け止められるように本体部分も厚みがある。


 ホラ貝を抱えるように構えてみたが、重すぎて銃身の先が持ち上がらない。


 能登屋が付属の脚を銃身に取り付けてくれる。


 畳の上に腹ばいになって狙撃兵のように構えると、ようやく様になった。


 伊勢屋が声を震わせながらつぶやく。


「この銃は一体どれほどの威力があるのでしょうな。明智様は十町先を狙うとおっしゃってましたが」


「試してみないと分かりませんが、おそらく弾が届くことは間違いないでしょう」


 二人とも絶句してしまった。


 いったん銃を包み直したところで、伊勢屋が能登屋にたずねた。


「能登屋さん、これを作った職人さんの口から噂が流れることは?」


「それは大丈夫でしょう。職人は口が硬いですからな。特に、新しい物については、他の職人に盗まれないようによけいに隠しますから」


「明智様は心配はなさらないので?」


「ええ、職人さんのことは信頼してますが、逆に、この銃の威力を知らしめれば、織田家には有利になるでしょう。それくらいのつもりでいればいいと思いますよ」


「なるほど」と、伊勢屋が腕組みをする。「これはますます織田家に組みする我らの商いも発展しそうですな」


 俺はその足で鈴木兼重の屋敷を訪れた。


「おお、できあがりましたか」


 早速包みをほどいた師匠はそのずっしりとした重みを味わいながら構えていた。


「さすがに重すぎますな」


「脚を取り付けます」


 縁側に腹ばいになって脚を付けた銃を構える。


「これで撃つことはできますが、十町先の的に当たるかは別のことですな。それくらいの距離になると、風に流され狙い通りには行かないでしょう」


 前代未聞の銃を前に、師匠ですら慎重な物言いだ。


 俺たちは早速射撃場へ出た。


 十町では敷地に収まらないので、川沿いの開けた場所を使い、兼重の部下たちにまずは大きな木の板を五枚並べて立てさせた。


 一キロメートル先で準備ができたと旗が振られる。


 葦がゆらりとそよぐ程度の風が吹いている。


 兼重は撃たない。


 風が止むのをじっと待っている。


 そこだけ時が止まって切り抜かれたように、兼重はぴくりとも動かない。


 川に浮かんでいた水鳥が飛び立つ。


 と、その瞬間だった。


 ドゴオオオオオン!


 火山の噴火と間違えるほどの轟音が鳴り響いた。


 長い銃身の先から煙が舞い上がっている。


 俺は十町先にあるはずの的へ目をやった。


 遠すぎて何も見えないが、向こうにいる兼重の部下が旗を立てたから、とりあえず的に当たったらしい。


 俺は師匠と一緒に的まで歩いて行った。


 五枚並べた板のうち、左端の一枚にひびが入っている。


「どうやらこれが当たった跡のようですな」と、兼重がため息交じりにつぶやく。「やはり風の影響は無視できませんな」


「師匠は、的が見えたのですか」


「いや、遠すぎて見えませんよ。ただ、的のある位置は分かっていましたから、それを思い浮かべて撃ってみただけです」


 当てずっぽうということだが、それでも五枚の板に当てたところはさすがと言うべきだろう。


 と、そこへ馬の足音が聞こえた。


 信長だ。


 家来も連れずに――置き去りにしてきたのだろう――自らのご出馬だ。


「その方ども、何をしておる」


「お館様、新しい鉄砲の試し撃ちをしておりました」


「天地が裂けたかと驚愕したぞ」


「申し訳ありません。火薬の量がこれまでの四倍必要ですので」


「なんと、そんなにも……」


 さすがの信長も絶句している。


 実際、多量の火薬が炸裂したせいで、十町先まで歩いてきたにもかかわらず、まだ銃本体が熱を帯びている。


「数発連続で撃つのは難しいですな」と、鈴木兼重がうなる。


「かといってそもそも的が見えないのに一発必中も難しいとなると、実用性が皆無という事になってしまいますね」


 他にも、銃身が長いから継ぎの弾込に時間がかかるとか、盛大な煙で位置がバレるとか、短所ばかりが目立ってしまう。


 しかも、匠の技の結晶だから、量産化は難しい。


 この銃は失敗作だったんだろうか。


「光秀!」と、信長が俺を呼ぶ。


「はっ、なんでしょうか」


「もう一度撃って見せろ。わしもこの目で見てみたい」


 信長はこの銃の可能性を見極めたいようだった。


 俺たちは発射地点までもどった。


 信長が馬上から手をかざして十町先を眺める。


「なるほど、的どころか、向こうの様子すら分からぬな」


 今度は俺が撃ってみることにした。


 脚のついた銃身を土台の上に固定し、狙いを定める。


 もちろん、俺にだって何も見えない。


 鈴木兼重の言うとおり、あの辺りに的があるんだろうと見当をつけるしかない。


 やはり実用性のない銃など戦場では何の役にも立たないのではないだろうか。


 三町(三百メートル)程度先ならまだ肉眼でも狙いがつけられる。


 だとすれば、これまでよりも少しだけ距離を伸ばせる銃として割り切って使うしかないのかもしれない。


 と、諦めかけたその時だった。


 照準を合わせる俺の脳内に望遠スコープでのぞいたような画像がポップアップした。


 丸い画面の中に一キロメートル先の的が目の前にあるかのように拡大表示され、照準を合わせる十字線が現れた。


 はっきりと五枚の板が並んでいるのが見える。


 旗を振る兼重の部下の顔まで区別できる。


 俺はその顔のど真ん中に照準線を合わせた。


 照準はまったくぶれることがない。


 ――これなら水野信近の額だって撃ち抜ける。


 俺はあらためて五枚の板の真ん中を狙って照準を定めた。


 その瞬間、照準画面の真ん中に水野信近の顔がくっきりと浮かび上がった。


 ――美月、待ってろよ。


 必ず仇は取ってやるからな。


 俺は憎い敵の幻影に向かって引き金を引いた。


 グゴオオオオオン!


 ヒヒーン!


 信長の馬が暴れて前脚を跳ね上げる。


 転げ落ちそうになりながらも必死にしがみついて信長は馬をなだめた。


「光秀、来い!」


 そのまま馬を走らせていく信長に俺と師匠は走ってついていった。


 それにしても、この銃は長いし重いし、しかも爆発のせいで熱くて、いちいち扱いにくいな。


 とはいっても、そこらへんに置いていくわけにもいかないわけで、こんな物を肩にかけて担いでいく俺の身にもなってくれ。


 どんどん遠ざかる信長の後ろ姿に俺は愚痴をこぼしていた。


 だが、的までやってきたとき、信長は上機嫌だった。


「素晴らしいぞ、光秀」


 十町先に並べた五枚の板のうち、見事、中央の板のど真ん中に穴が開いていた。


「この銃があれば我が織田軍に敵なしであるな」


 と、お褒めの言葉をいただいたときだった。


 脳内モニターにアラートが表示された。


《新技術『狙撃』を獲得しました。鉄砲属性が特殊能力SSにランクアップします》


 鈴木兼重でさえSなのに、俺は師匠を超えて覚醒したのだ。


 銃を構えるだけで脳内に照準器が表示され、まるですぐ目の前にいる敵を撃つみたいに狙えるようになったわけだ。


 ――できる。


 これなら水野信近を遠距離から狙い撃てる。


「これは見事ですな」と、師匠もしきりに感心している。「私などもう、足元にも及びませんぞ」


「いえ、これも師匠のご指導の賜物です。これからもよろしくお願いいたします」


「鈴木兼重よ」と、信長が馬上から呼びかけた。


「ははっ」と、馬の足元にひざまずく。


「その方を、織田家鉄砲方の師範とする。費用は惜しまぬ。我が家臣団の指導にあたれ」


「ありがたき幸せ。身命を尽くして励みまする」


 史実では本願寺側として敵対する鈴木家の分家の分家とはいえ、その有能な一人を味方につけられたのは、織田家にとって幸運だろう。


 信長は空に浮かぶ白い昼間の半月を見上げた。


「その銃でならあの月ですら撃ち落とせそうだな」


 いやいや、さすがにそれは言い過ぎだろ。


 だが、信長は真面目な顔で銃を指さした。


「十町先の的を手繰り寄せるように撃ち抜く。その銃の名を『月手繰り』とせよ」


 月を撃ち抜ける銃……か。


 大げさだが、悪くない。


「良き名を授かり、光栄でございます。この光秀、必ずや月よりもたやすく水野信近を撃ち抜いて見せまする」


「期待しておるぞ、はっはっはっ」


 脳内モニターのステイタス画面に家宝『月手繰り』が登録された。


 いよいよ準備が整った。


 そして、まるでそれを待ち構えていたかのように、三河からは新しい知らせがもたらされたのだった。


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