第6話 雪山の死闘

 諏訪までの道中は雪かきもおこなわれ、武田の護衛もつけられて快適な旅だった。


 伊那谷へ入ったところで雪が降り続き、俺たちの歩みは極端に遅くなった。


 護衛はなくなったが、それでも武田家の配慮で宿場ごとに連絡がついていたおかげで、道中それなりの便宜を受けることはできた。


 街道筋にデイブが伝えたスポーツドリンクで体力を回復し、宿場ではその土地のもてなしを受けた。


 俺は馬場信房にスポーツドリンクの配合割合について手紙を書き、武田の家臣に託した。


 また、長篠の秀吉と清洲の信長にも、このたびの会談について成功したことを手紙に書いて足の速い吉三郎に先に行ってもらうことにした。


「雪道なんであまり進めそうにありませんが、なるべく早く届けます」


「お願いします」


 吉三郎を送り出した日から、雪はどんどん激しくなり、道も分からないほどすっぽりと谷が埋もれてしまうようになった。


 俺の脳内モニターに表示される天気予報に寄れば、この天気は三日ほど続くらしい。


 遭難しそうな天候で足止めを食らった俺たちはしかたなく宿場で無駄に時を過ごしていた。


 この時代には娯楽がない。


 そもそも、時間があるなら何かしらの作業をしたりして物を作ったり修理したりして生活の足しになることをしなければならないのだ。


 だが、旅の途中の俺たちは体を休める以外にすることがない。


 ただだらだらとしているうちに、逆に体がなまってくる。


 美月の配下たちは博打を始めたようだが、俺は眺めているだけで参加しなかった。


 そんな俺たちから距離を置いて美月は壁にもたれてただじっとしていた。


「退屈ではないか」


 俺がたずねてもかすかに首を振るだけだ。


「よけいなことをしなくていいし、考えなくていい。楽だ」


 多くは語らないが、盗賊を率いていたときに比べたら、生活の心配をしなくていいとか、捕まったり殺されたりといった命の心配をしなくていいから、ということなんだろう。


 三日後、天気予報通り雪がやんだが、道は雪に埋もれていてすぐに出立できるわけではなかった。


 昼過ぎに村人の往来で雪が踏み固められ、なんとか出発できたものの、やはり一里(四キロメートル)も進めないうちに日が暮れてしまった。


 次の宿場まではたどり着けなかったから、その日は寺に宿を借りた。


 寺の住職は飯は出せないという条件で受け入れてくれた。


「何も出せず、申し訳ありませんな。なにしろこの雪で、蓄えも尽きておりましてのう」


 いきなり大人数で駆け込んだのだから贅沢は言えない。


 逆に俺はいくらかの金を寄付して感謝の気持ちを伝えた。


 その金のおかげか、住職は干した大根と麦と米を薄めるだけ薄めた粥を振る舞ってくれた。


 温かいお湯でほんの少しだけ体が温まるが、それも一時だけで、すぐに手足の指は冷たくなってしまう。


「このあたりで冬に旅をするのは無謀ですな」と、誰に聞かせるともなくつぶやいて住職は引っ込んでしまった。


 自然には勝てないが、人力で解決できる要素もある。


 安全に移動するためには、道そのものを整備するインフラ以外にも、食料の備蓄を増やすといったサービス面の改善も必要だろう。


 食糧の増産が難しい山間部だから、外部から持ち込まなければならない。


 それは商人の役割だ。


 迅速な行軍、商人の往来を活発にするためにも、街道整備の必要性をますます感じたのだった。


 火の気のないお堂は寒さが背骨に染み入るようで寝つけない。


 盗賊たちはこういった境遇になれているのか、いびきをかいて眠っている。


 なんだかんだ恵まれた令和の時代から不便な戦国の世に来た俺は、やはりこういう基本的なところが対応し切れていない。


 冷えてきて体がこわばっていくのを、俺は自分をさすりながら体力の温存に努めた。


 と、背中が急に温かくなった。


「冷えるのかい」


 暗闇の中で美月が俺の耳に吹き込むようにささやいた。


 俺は配下の連中に聞かれないように黙ってうなずいた。


「あたためてやるよ」と、美月が俺に体を密着させてくる。


 ――ちょ、ま、待てよ。


 幸い背中からなので思春期男子の下腹部の硬直は触れられずに済んだが、心臓はバクバク、寒いのに鼻の頭には汗がにじみ出し、たしかに体は温かくなった。


 そんな俺の動揺を背中からからかうかのように、美月がますます密着してくる。


 いい匂いに包まれて、俺の体は理性を切り離されて勝手に膨張を始めてしまう。


 ――いや、ち、違う、これは……。


 非モテボッチ陰キャ男子の弱みを刺激されて、寺のお堂なのに煩悩だけが膨張していく。


「こっちを向いておくれよ」


 そんな甘いささやきに戸惑う俺を抱く美月の腕に力がこもる。


 俺は寝返りを打って向かい合うと、美月の体を抱きしめた。


 身長差があるから、俺の顎の下に美月の頭がある。


 動揺した顔を見られずにすむのが非モテ男子にはありがたかった。


 女の人のぬくもりがこんなにも心安らぐものだと俺は初めて知った。


 俺だって子供の頃は親に抱っこされたりしていたんだろうが、はっきりとした記憶はない。


 男として、初めて女の体の形と温かみを意識して抱きしめたのだ。


 女の髪と背中を撫でる。


 いい香りが鼻をくすぐる。


 美月は俺の肩に額を押しつけてくる。


 その瞬間、俺の脳裏にお市様の顔が思い浮かんだ。


 膨張していた下半身が急激に萎えていく。


 それはお市様への忠誠心からではなかった。


 目の前の女を抱きながら別の女のことを考えた自分に対する嫌悪感からだった。


 ――俺はただ利用するためだけに、こういうことができる男なのか。


 それは潔癖とか純真とか、律儀とかそういった倫理観から出るものではなく、もっと野獣的で根源的な苛立ちから湧き上がる吐き気だった。


 自分が男であることに嫌悪感を抱いたのは初めてだった。


 俺の思いなど知るよしもなく、美月は俺にしがみついている。


 ただ、それ以上のことは求めてこない。


 経験のない男の見栄と動揺をただ受け止めてくれていた。


 俺はただ暖を取るためだけに美月を抱きしめている卑怯者だった。


 ――最強の軍師が笑わせるぜ。


 ただの非モテ男のくせに。


 体と心の矛盾を抱えながら、どれくらいの間そうしていたのかは分からない。


 いつの間にか俺は眠っていたらしい。


 目が覚めたのは寒さで体が震えたからだった。


 美月は俺から離れて背中を向けて眠っていた。


 再起動した俺の脳内モニターの表示によれば五時だったが、冬の遅い日の出はまだで、お堂の中は暗い。


 と、暗闇の中から誰かが近づいてくる気配がした。


「旦那」


 ささやいているのは権造だった。


「何ですか?」


「あっしはなんか嫌な予感がするんですよ」と、権造が俺に耳打ちする。「いや、ただの気のせいならいいんですけどね。盗賊の嗅覚っていうか、順調だとかえって落ち着かなくて」


 ただの勘とは言っても、修羅場をくぐり抜けてきた連中だ。


 俺は権造の言葉に耳を傾けていた。


「考え過ぎならいいんですが、この先もし万一のことになったら、俺たちが食い止めますから、旦那は姐さんを連れて逃げてください。姐さんは俺たちと残ると言うでしょうが、そうなったら共倒れだ。だから、俺たちが命を張る代わりに、旦那は必ず姐さんを助けてください」


「分かりました」


「旦那」と、権造が俺の肩に手を置く。「あんたは嘘はつかないお人だ。安心して任せられますぜ」


 だが俺は臆病者だ。


 こんな俺が美月を守り抜けるか自信はない。


 権造は俺が役に立たないことを見抜いてるからこそ、万一の時は逃げろと言っているのだろう。


 ためらわず、躊躇せず、逃げろ、あらかじめ覚悟しておけと釘を刺されたのだ。


 先に俺がこの連中に捕まったのがきっかけだったとはいえ、その後で巻き込んだのは俺の責任だ。


 彼らにとって大切な『姐さん』を守ってやるのは俺の使命なのだ。


   ◇


 明るくなって出発することになった。


 晴れているが、道は相変わらず雪に埋もれている。


 脳内モニターのナビは機能しているから方向を間違えることはないが、実際の道は細く、踏み外せば隠れた池などに落ちる可能性がある。


 人が通った跡を慎重にたどりながら俺たちは谷から山へ入っていった。


 森に囲まれた地域の街道は木々が屋根になっているからか雪の量は少なく歩きやすいが、昼でも暗く傾斜もきつく、結局は体力を消耗していく。


 ――カア、カア、カア。


 森の上空をカラスが飛んでいる。


 一羽ではない。


 二羽、三羽と、鳴き声が重複しこだまする。


「気味が悪いっすね」


 小助が肩をすくめながら自分の腕をさするのを、入道が笑う。


「臆病だな、小助は」


「でも、なんか不気味だぜ」と、十蔵も辺りを見回す。


 権造が立ち止まった。


「おい、さっきよりも増えてないか」


 たしかに、森の木々で見えにくいが、四方八方でカラスが舞っているのは間違いないようだ。


 嫌な予感がする。


 これが権造の言う『万一のこと』なんだろうか。


 俺は美月に視線を送った。


 鼻で笑うような表情が返ってくる。


 昨夜のことで男として軽蔑されているなら、それはそれでいい。


 前を歩いていた権蔵が立ち止まる。


 ――ん?


「臭いますぜ」と、小助もくんくんと鼻を鳴らす。「血の臭いだ」


 言われてみれば確かに、風に乗ってさびた鉄棒のような臭いが漂ってくる。


 全員の表情がこわばる。


 俺は拳を握りしめていた。


 慎重な足取りで道を進んでいく。


 カラスはますます増えているし、集まっている場所はだんだん近くなっている。


 権蔵が後ろに手を突き出して立ち止まった。


 他連中はさっと木の陰に隠れた。


 俺は一歩遅れて美月のそばに寄り添って隠れた。


 道を外れた森の中にカラスが群がっている。


 権蔵が刺激しないように姿勢を低くして少しずつ近づいていく。


 嫌な予感だけが増していくのに、寄り添う美月の体から鉄分の臭いを打ち消すようにいい香りが漂ってくる。


 こんなときですら、俺は非モテ男子の本能を消せないらしい。


 カラスとの中間地点まで進んだ権蔵が、しゃがんだままチラリと振り向き俺たちを手招きした。


 小助と十蔵、俺と美月、後ろに入道の隊形で権蔵の所まで歩み寄る。


「どうしたんだい?」と、美月がたずねる。


「死体ですよ、姐さん」と、権造が指をさす。「おそらく吉三郎ですぜ」


 なんだって!?


 カラスの群れが何羽もたかっていてはっきりとは分からないが、何かをつついていることは間違いない。


 血の臭いはするが、雪で冷えているせいか、それ以外の臭いは漂ってこない。


 周囲を警戒しつつ立ち上がった権蔵が刀を抜いて近寄っていく。


 カラスを威嚇して追い払いながらそばによると、それは間違いなく仰向けに転がった死体だった。


 だが、それはすでに無残にもカラスにつつかれ、目がくぼみ、表面の皮膚を剥ぎ取られ肉や骨が露出した吉三郎の残骸といった方が正しい姿だった。


 戦国の世に来て死体を見るのは何度目だろうか。


 もちろん、見慣れるなどということはない。


 まして、戦場の死体よりもむごい状態だ。


 俺は吐き気を必死にこらえつつ、目をそらさなかった。


 これがこの世界の現実なのだ。


 令和の世の中では日常の中に人の死はほとんど存在しない。


 だが、ここでは目をそらしても逃げることなどできない日常なのだ。


 権蔵が素早く死体をあらためる。


 ぼろ布となった着物は血に染まって固まっている。


「姐さん、見てください」


 裏返して背中を調べた権蔵が着物を引き裂いて示したのは背中に刺さって体内に残った矢とやじりだった。


「吉三郎は弓矢でやられたのかい?」


「毒が塗ってあったんでしょう」


「いったい誰が?」


 美月の質問に、権蔵が俺を見上げてつぶやいた。


「旦那を狙ってるんでしょう」


 俺を?


「こんな雪山にただの山賊が出るわけありませんよ。通ることを知っているやつを待ち伏せていたんですぜ。それに、山賊が毒まで使うとは思えませんし」


 権蔵の言うとおりだろう。


「だから、誰なんだい?」


 美月が詰め寄るが権造は首を振るだけだ。


「それは分かりませんよ、姐さん。武田か、それとも……」


「今川に情報が漏れたか?」と、俺が思いついたことを口にしてみたが、やはり権造は首を振るばかりだ。


「分かりませんよ。ただ、敵がいることは間違いない」


 伊那谷はこの時点で武田の勢力圏と言っても、完全に服属したわけではなく、地元の国人の中には別の勢力とつながりの深い連中もいるだろう。


 そういった連中がたとえば今川などと手を組んで妨害してくることはあるかもしれない。


「吉三郎に預けた手紙は?」


 権蔵は首を振った。


「ありませんね」


 内容については、大筋をぼやかして記しただけだから読まれても構わないのだが、吉三郎が織田家の使いだということは知られてしまったことになる。


 まったく、何が戦国最強の軍師だよ。


 情けないほど間抜けな失態だ。


 頭上の木の枝から、追い払われたカラスが俺たちを威嚇してくる。


「旦那、長居は無用だ。ここを離れましょう」


「遺体はどうするんですか?」


「しゃあねえですよ。俺たちゃ盗賊だ。どうせ野垂れ死にだって常日頃から覚悟してますよ」


 と、その時だった。


 グルルゥ……。


 獣のうなりが聞こえてきた。


「やばい、アニキ、犬だ」


 小助の指す方を見た時にはすでに犬がこちらに突進していた。


「姐さんを!」


 立ちはだかる権蔵に任せて俺は美月の手を引いて逃げた。


 野犬の獰猛さはこの時代に来てすぐ襲われて身に染みている。


 一匹が臭いを嗅ぎつけたなら、他にもいるに違いない。


 権造たちの足手まといにならないようにとにかく俺はこの場を離れることに集中した。


 犬の狙いは吉三郎の死体に残された肉と骨だろう。


 ならば、よけいな抵抗をしなければ、権造たちも逃げ切れるはずだ。


 あとはカラスの群れと戦わせればいいだろう。


 夢中で走っていたが、すぐに俺は息が切れてしまった。


 令和から来た軟弱者に山道はきつい。


「なんだい、もうへばってるのかい?」


 途中から俺の手を引いて走っていた美月が立ち止まって振り向く。


 少し後から権造たちも追いついてきた。


 へたり込んでいる俺をあきれ顔で見下ろしながら権蔵がつぶやいた。


「旦那、どうします?」


 考えてみても、いい方法など思いつかない。


 戻って武田家の護衛を呼ぶか、このまま進んで逃げ切るか。


「吉三郎を襲った連中がどちらから来たかだな」


「おそらく待ち伏せでしょう」と、権蔵が即答する。「途中でそれらしい気配はなかったんですから」


 ということは敵はこの先にいるということになる。


「ただね、旦那」と、権蔵は続けた。「戻っても、安全とは限りませんぜ。俺たちを織田家の使者と知って通過させた連中が、後ろから追ってきてるかもしれませんし。こうなった以上、敵は前にも後ろにもいると思っていた方がいいですぜ」


 十蔵も冷静な表情でうなずいている。


「あの寺の坊主だって、今頃俺たちのことを村人に知らせてるでしょうね」


 ああ、だから、俺たちに飯を出すのも渋っていたのか。


 もしかしたら、毒を盛られていたり、夜中のうちに襲われていたかもしれないのか。


 雪のおかげで身動きが取れなかったから、知らされずに済んだのは幸運だったのだ。


 誰も信用できない状況に陥って、立ち往生した俺たちの体温を冷たい風が奪い取っていく。


 いつまでもここにいるわけにはいかない。


 俺の脳内モニターのナビでは、この先一里(四キロメートル)ほどの所に集落がある。


 秀吉のいる長篠まではまだ八里ある。


 日は短いから次の集落で宿を借りて様子を見るのが現実的だ。


 ただ、その集落の連中が落ち武者狩りのように俺たちを襲わないという保証もない。


 こんな雪に閉ざされた山の中なら、殺して埋めてしまえば誰にも見つからない。


 または、今川なり別の勢力なりに俺の首を差し出せば賞金が稼げるかもしれないのだ。


 頭の中にこの時代では手に入らない情報が表示されたところで、生身の格闘ではやはり俺はただの弱者に過ぎないのだ。


「おいらが先に進んで様子を確かめやしょうか?」と、小助が名乗り出た。


 偵察の役割をさせるのが必ずしも良い作戦とは限らない。


 長く伸びた隊列を横から攻撃されたら格好の餌食だ。


 俺も美月を連れて逃げる間もなく殺されるだろう。


 狭い谷筋の街道は一本道だ。


 待ち伏せしている敵が絶対的に有利なのだ。


「あっしと小助が二人で先行しましょう」と、十蔵が言った。「一里先行したところで一人を残して戻ってきます。もし、二人とも戻ってこなかったら、何かが起きてるって事で」


 完璧な案とは言えないだろうが、次善の策かもしれない。


「それじゃ、俺たち二人の足跡をたどってきてください。何かあったら乱れてるはずですから」


 今の段階でもすでに街道は大勢の足跡で踏み固められている。


「これは吉三郎を襲った連中の足跡なんだろうか」


「十人以上はいそうですね」と、権造がつぶやく。「ここで止まっててもどうにもならないんで、二人に行ってもらいましょう」


 とにかく次の集落まで行かないと、身動きが取れなくなって山で遭難してしまう。


「では、よろしく頼みます」


 十蔵と小助は古い足跡の上に新しい足跡を残しながら駆けていった。


 俺たちも周囲を警戒しながら進む。


 権造が前、俺と美月が並び、後ろに入道。


 半分ほど進んだところで、峠を越えて視界が開けた。


 重たい曇天の下に白と黒で描かれた水墨画のような風景が広がっている。


 前方の狭い盆地に集落が見える。


 だが、休んで景色を楽しんでいる余裕などない。


 新しい二人の足跡は続いている。


 俺たちはそれをたどりながら先を急いだ。


 道端の灌木に別の木の枝が刺してある。


「こいつは十蔵が残した印ですね。とりあえず、二人ともここを通ったことは間違いない」


 だが、それだからといって安全というわけでもない。


 あえて敵が二人をやり過ごした可能性だってある。


 どんなやつらかは分からないが、狙いは俺だろう。


 この先すぐのところで、待ち伏せているかもしれないのだ。


 と、そこへ前方からやって来る人の気配があった。


 俺たちは立ち止まって、脇へよけた。


 姿を見せたのは十蔵だった。


「アニキ、姐さん。小助は向こうの集落で待ってますぜ。今のところ何もありませんでしたよ」


「おう、ご苦労」と、権造は十蔵の肩をたたいてねぎらった。「よし、俺たちも急ぎましょう」


 俺たちは十蔵を先頭に、小走りで移動を始めた。


 すぐに息が上がって脇腹が痛み出すが、弱音を吐いている場合ではない。


 令和の学校で持久走をもっと真剣にやっておくべきだったと後悔しても遅い。


 俺たちは日暮れ前に無事に集落に着くことができた。


 秀吉が待つ長篠の城までは残り七里だ。


「姐さん、怪しい気配はありませんでしたぜ」


「良くやってくれたよ、小助。ひと安心だね」


 出迎えた小助に美月がねぎらいの言葉をかけると、カサカサの頬を紅潮させながら鼻の頭をかいていた。


 問題は、今夜の宿をどうするかだ。


 この集落には宿はない。


 雪の量は少ないが、村人たちの家の屋根は白く、つららが下がっている。


 火を焚く余裕もないんだろう。


 食料を分け与える余裕もないのか、金と引き換えに売りに来る者すらいない。


 早くなんとかしないと暗くなるし、気温が下がって体力を消耗してしまう。


 寺に宿を借りられないか交渉してみるしかないだろう。


「あっしが行ってきますから、旦那は姐さんとここにいてください」


 権造に任せて、俺たちは神社の境内で風をよけて待っていた。


 俺には史実という絶対的な情報があり、大局を俯瞰して戦略を立てることはできるが、個別の現場で作戦を考え実行する能力はない。


 幻の桶狭間で実戦を経験したとはいえ、自分の力だけで敵を倒したわけではないし、死体を前にして吐き気をこらえていただけだ。


 交渉に行った権造が戻ってきた。


「旦那、寝る場所を貸してくれるそうですぜ」


「それは助かります」


 十蔵、小助、入道、そして美月を先に行かせ、権造が気づかれないように目配せしながら俺に並ぶ。


「どうかしたんですか」と、俺は小声でたずねた。


「気のせいならいいんですがね。順調すぎて嫌な予感がするんですよ」


「何か気になることでも?」


 盗賊として修羅場をくぐってきた権造のことだ。


 ただの勘とは思えなかった。


「いや、寺に水野の家紋があったんでね」


「松平家臣の水野家ですか」


「ここらへんは昔から水野の一族が治めてきた地域だから、べつに家紋があってもおかしくはないんだが、どうも気になるんですよね」


 俺の脳内モニターに情報がポップアップする。


 水野家は松平家の傘下にあるとはいえ、清和源氏の名家で、その点ではむしろ後から源氏を詐称した松平よりも武家としての出自は格上と言えるくらいだ。


 令和の学校でも習う水野忠邦など、江戸幕府の老中になる譜代の重臣とはいえ、決して松平家一筋だったわけではなく、戦国期には西の織田家と組んだこともあるし、同じ清和源氏の流れをくむ東の今川家ともつながりがある。


 影武者傀儡の松平家から離反する可能性はかなり高いと言えるだろう。


 俺の首を手土産に今川家へ駆け込もうとしているのかもしれない。


 つくづく、桶狭間のシナリオが狂って今川義元を討ち漏らしたのが今になって響いている。


「吉三郎を襲ったのは水野でしょうか?」と、俺は思ったことを口にしてみた。


「そこまでは分かりませんよ」と、権造は空虚な笑みをこぼす。「ただ、油断はならねえって事ですな」


 そして、俺に肩をぶつけながら耳打ちしてきた。


「いざというときは姐さんを頼みますぜ。あっしらは命がけで旦那を逃がしますから」


「分かりました。必ず逃げて見せます」


 フッと鼻で笑われる。


「旦那は生まれる時代を間違えたんでしょうな。正直すぎていけませんよ」


 べつに権造は俺が未来から来たなんて見抜いているわけではないんだろう。


 ただ、すべてを見透かされているようでもあり、その上で俺のことを信頼してくれているのが嬉しかった。


 寺では宿坊を貸してくれて、粥と暖房の炭を分け与えてくれた。


 俺は代金としてではなく寄付として、少しばかりではあったが住職に金を渡した。


 囲炉裏で炭をおこし、温かい粥を食べて、俺たちはすぐに眠ることにした。


 だが、眠ろうとすると、さすがに炭火だけでは体は温まらない。


 贅沢を言える立場ではないので我慢しているうちに、頭の方が疲れたのか、うとうとといつのまにか眠っていた。


 だが、嫌な予感は的中した。


 みなが寝静まった真夜中、十蔵が俺の所へ来て耳打ちした。


「旦那、寺の小僧が今頃出て行きましたよ」


 寝ぼけ眼をこすりながら俺は体を起こした。


「どこかへ知らせに行ったってことでしょうか」


「でしょうな」と、権造もそばに来ていた。「早いところ出た方がいい」


 すぐに美月たちを起こし、室内にいると思わせるために炭火を残したまま、俺たちは忍び足で宿房を出た。


 幸い外は雲がなく、月明かりで闇に慣れた目にはむしろ明るいくらいだった。


「敵も夜中に大勢で襲撃はできないでしょうから、行けるだけ行きましょう」


 俺たちは権造を先頭に走れるだけ走った。


 雪が固まっていて滑りそうになるが、砂利が露出しているところをあえて選ぶようにしながらとにかく前へ進んだ。


 次の集落は火が消えていて、敵が集まっている気配はなかった。


 人に悟られないように木々や岩陰に隠れながら慎重に通過し、森の中へと入った。


 月明かりが遮られてやや暗くなったものの、夜目が利くようになっていたから俺でもなんとか走り続けられた。


 苦しいが、脇腹の痛みはない。


 少しは持久走にも体が慣れたのかもしれない。


 ――清洲に帰ったら、ランニングを習慣にしよう。


 今さらながら、こんな軟弱な体で戦国の世を生き抜くのは難しいとつくづく思い知った。


 だが、今、この瞬間、襲われたら終わりだ。


 一里(四キロメートル)走ったところで、体の大きい入道が遅れ始めたので、街道のそばに沢が流れているところで、いったん休憩することにした。


 美月が用足しに行くから俺についてこいと言う。


 権造たちはその辺で立ち小便をしている。


 女性が用足しをする場に居合わせるなんて、令和の非モテボッチ陰キャ男子には気まずいことだが、闇の中で襲われる可能性を考えると、付き添いが必要なことは間違いないので、俺は自分自身に、何の下心もないのだと言い聞かせながらついていった。


 沢の両側には雪が積もっているが、雪の下ではちょろちょろと水の流れる音が聞こえる。


 ここなら排泄の音も沢の音にかき消されて、俺も気をつかわずに済むと思ったら、美月が思いがけないことを言い出した。


「あんた、手を出しな」


 ――手?


 俺は自分の両手を眺めた。


「早くしなよ。ほら」と、美月は俺の両手をつかんで引っ張り、自分の股間の下に持っていくと、着物の裾をはだけた。


 昔の女性は下着など着けていない。


 女の匂いと共に現れたのは、俺が初めて見る実物だった。


 月明かりとはいえ、陰になっているから肝心なところは見えない。


 いや、見るつもりはない。


 タワシみたいに毛が濃くてその奥の部分は隠れている。


 思春期男子の本能が食らいつきそうになるが、理性では、目をそらせと鐘を鳴らす。


 見たいのに見てはいけない気がするのに見たくて目を背けることができず俺は目をギュッと閉じてごまかした。


「あんた、本当に初めてなんだね」


 岩で頭を殴られたように打ちのめされた俺は完全に無の境地へと突き落とされていた。


 男の価値が経験で決まるわけではないだろうが、経験のない男が何を言ってもむなしいだけだ。


 しばらくしてようやく目を開けることができたが、月明かりに周囲の雪がぼんやりと浮き上がり、俺は美月の股間に手を差し出したまま身動きが取れなかった。


 と、その時だった。


 ――じょろろろ……。


 美月の股間から熱い湯が流れ落ちてきた。


 俺はそれを両手のひらで受け止めていた。


 じょろじょろと降り注ぐその熱い湯は俺の指の間からこぼれ落ち、雪を溶かしていく。


「あったかいだろ」


 排尿を終えた美月は股を広げたまま俺を見下ろしていた。


「こういう寒い時にはさ、少しでも体を温められる物は使わないともったいないだろ」


 たしかに、凍えていた俺の手は美月の熱でほぐされていた。


「触ってみるかい?」と、美月が尿まみれの俺の手を握ろうとした。


 俺は本能的に手を引っ込めてしまった。


 触りたい、感触を確かめたい。


 自分とは違うそれがどんなものなのか、俺は知らないし、知る以上のことをしてみたいくせに、ヘタレの俺はいざとなったらひるんでしまったのだ。


 美月は脚を上げて右足を俺の左肩においた。


 俺は月明かりを背にした美月を見上げた。


「生まれ変わったら、あたしを抱いてくれるかい?」


 俺は答えられなかった。


 ただ、それはお市様への義理とかではなかった。


 お市様の顔などまったく思い浮かびもしなかった。


 ただ単に、ひるんでいたのだ。


 まだ俺の知らない、立ち向かってもかなわぬ大きな存在に押しつぶされそうで、俺はびびっていたのだ。


 と、次の瞬間、俺は美月に左肩を蹴飛ばされて雪の上に尻餅をついていた。


 せっかく温まっていた手が一瞬で凍りつく。


 と、その刹那、俺の頬に熱い滴が一滴落ちてきた。


 ――ん、雨?


 いや、月が明るい。


 そもそもこんなにも熱い雨などない。


「さっさと立ちなよ。行くんだろ」


 美月が腰を折って俺の胸ぐらをつかみ上げ、無理矢理立ち上がらせると、俺から顔を隠すように先に歩き出した。


 俺はうなだれながら美月の後ろを歩き、権造たちに合流した。


「姐さん、行きますかい?」


「ああ、入道、走れるかい?」


「大丈夫っす。行けます」


「よし!」


 権造を先頭に、俺たちは再び走り始めた。


 会話をする余裕がないのが救いだった。


 すべてお見通しだろうに、誰も俺と美月の微妙な空気など触れようともしなかった。


 生き延びるために、俺たちは夜の雪道をひたすら走り続けた。


   ◇


 一里(四キロメートル)進んだところで開けた場所に出た。


 残り六里(二十四キロメートル)、このまま無理に突っ切ってしまえば長篠までたどり着けるかもしれない。


 だが、先頭を行く権造が立ち止まったかと思うと、いきなりしゃがみ込んだ。


「姐さん、下がって」


 一瞬、ぼんやりと立ち尽くしてしまった俺は後ろから入道に頭を押され、雪の上に転がった。


 ――うおっ。


 ひっくり返って仰向けになり、きれいな月を見上げたその瞬間、花火が上がったような錯覚にとらわれた。


 全天に散らばる星が花火の散華にも見えたが、それは銃声だった。


 硝煙の匂いが流れてくる。


 ――うぐぐ……。


 起き上がると、俺のかたわらで入道が腕を押さえていた。


「やられたのかい?」と、美月が飛びつく。


「かすり傷っすよ」と、強がっているが、出血がひどい。


 次の銃声が響く。


 耳をかすめて弾が空を切る。


 駆けつけた権造が俺たちの背中を押す。


「森へ!」


 俺たちはかがんだまま来た道を戻りつつ森へ分け入った。


 だが、それは罠だった。


 森の中には鉄砲を構えた敵が数名待ち構えていた。


 俺たちは狩られているのだ。


 硝煙の匂いに気づいたときには手遅れだった。


 ダダンッと、一斉に放たれた銃弾が俺たちをかすめ飛ぶ。


「ぐおっ」


 うめき声を上げたのは入道だった。


 巨体を美月の盾として弾を受け止めたのだ。


「おい、しっかりしな」


 倒れた入道を美月は必死に起こそうとするが、胸を押さえたまま起き上がれない。


「姐さん、早く逃げてくだせえ」


 かすれる声を振り絞って入道が美月を突き飛ばす。


 背後で受け取った権造がその手をつかんで走り出す。


「権造!」


「姐さん、逃げるんだ」


「入道を!」


「あきらめてくだせえ。情けで俺らが死んだら、あいつも浮かばれねえ」


 振り返ろうとする美月を十蔵も押して逃げる。


 俺と小助も後を追ったが、どこへ逃げたらいいのかまったく分からない。


 街道は開けた平地の真ん中を通っている。


 もちろん格好の的になる。


 かといって森の中では敵が待ち構えている。


「走り続けろ。止まらなければ当たらねえ」


 周辺から次々に銃声が鳴り響く。


 反響し合って、どこから聞こえてくるのかも分からなくなった。


 敵は何人いるんだ?


 だが、俺の脳内モニターには何も表示されない。


 ただ単にナビ画面がポップアップしているだけだ。


 権造が西側の山へと駆けていく。


「どうするんですか?」


「知らねえっすよ」


 逃げているのか追い詰められているのか、誰にも正解など分からない。


 この先にも敵がいるのかもしれない。


 だが、いつの間にか銃声が止んでいた。


 と、権造が急に足を止めた。


「チッ」


 舌打ちをした権造の目の前には崖が立ちはだかっていた。


 追いついた俺たちも見上げると、二階建ての家くらいの高さがある岩の崖が左右に続いていた。


 崖の上にはさらに少し引っ込んだところに崖があるが、水平な棚のような場所を移動できそうだった。


 背後から敵が駆けてくる音がする。


 権造が十蔵と小助に目配せすると、崖に手をついた権造に飛びついて、十蔵が肩の上に立ち、さらにその上に小助が這い上がってあっという間に人間の梯子ができあがった。


「旦那、早く上がってくだせえ」


 権造が手で俺の足を押し上げ、十蔵に引っ張り上げられ、小助の肩に手をつき、俺も岩をがっちりつかみ、小助の肩を足場にして梯子と一体化した。


 崖上の岩棚まではあと人間一人半だろうか。


 下から美月が上がってくる。


 俺の背中にしがみつき、耳に息を吹きかけながら俺の肩に立つ。


「どうだ? 上がれそうか?」


「届かないよ」


「頭に乗れ」


 美月が左脚を俺の頭に置き、右足を俺が上に伸ばした手にかける。


「いいか、飛びつけ」


 俺が手を押し上げた瞬間、ふわりと美月が浮かび上がった。


 崖にとりつき、這い上がる。


「上がったよ」


 美月が俺に手を伸ばす。


 だが、届かない。


「ちょっと待ちな」


 美月が帯を解き、垂らす。


 俺はそれをつかんでなんとか崖を上がりきった。


 もう一度帯を垂らすが、小助まで届かない。


「待ってろ、俺のを結ぶから」


 しかし、帯を解く前に三人は梯子を崩して崖下から俺たちを見上げていた。


「旦那、後は頼みましたよ」


「おいっ」


 下で権造が唇に指を立てている。


「早く逃げてくだせえ」


 上から見ると、迫ってくる敵の動きがよく見える。


 躊躇している余裕などない。


 覚悟を決めるしかないのだ。


 俺は美月の手を引いて駆けだした。


 美月が俺の手を引っ張る。


「見捨てるのかい?」


「違う。あいつらのためだ」


「あたしはやだよ」


 俺は美月の目を見つめた。


「いいから、来い!」


 強引に引っ張り、俺は崖の棚を岩から岩へと飛んでいった。


 背後で鉄砲の音が鳴り響く。


 俺は自分が撃たれたような痛みを感じつつも足を止めなかった。


 ――約束したんだ。


 絶対に美月を連れて逃げ切ってみせると。


 美月は声を上げて泣いている。


「恨むよ。あたしはあんたを恨むよ」


 ああ、恨めよ。


 巻き込んだのは俺だ。


 いくらでも恨めよ。


 だが、それでも俺は逃げ切らなければならないのだ。


 こんなところでゲームオーバーにするわけにはいかない。


 俺は織田信長に天下を取らせ、こんな殺し合いばかりの戦国の世を終わらせる。


 権造だって、入道だって、十蔵だって、小助だって、吉三郎だって、みんなが笑いながら楽しく生きられる世の中に生まれていたら、こんな目に遭わなくて済んだんだ。


 崖の棚が行き止まりになっている。


 だが、足をかけて、もう一段上の棚へ上がれそうな岩がある。


 俺は美月を先に行かせ、肩を足場にさせて岩にとりつかせた。


 もう文句も泣き言も言わず、美月は岩を這い上がっていく。


 俺も後に続いた。


 上の棚に登りきったところで俺たちは座り込んで休憩した。


 もう銃声は聞こえない。


 追っ手の足音も聞こえない。


 月はだいぶ傾いていた。


 もうすぐ空が明るくなり始めるだろう。


 それまでにどこまで行けるだろうか。


 明るくなれば敵は本格的に武装して俺たちを捜索するだろう。


 街道筋は固められて進めなくなる。


 俺は月明かりを背景にぼんやりと闇に浮かび上がる山の稜線を見上げた。


「あれを越えよう」


 美月は黙ってうなずいた。


 と、その時だった。


 ――いたぞ!


 ――こっちだ!


 遠くから声が聞こえる。


 まさか、追っ手が来ているのか。


 だが、声は崖に向かってくるのではなく、平地のあたりを平行に移動していた。


 どうやら俺たちではない誰かを追っているらしい。


「あたしは戻るよ」


 美月が立ち上がる。


「やめろ」と、俺は手をつかんだ。


「離しておくれよ」


 振りほどこうとする手をつかみ直し、俺は美月を岩壁に押しつけた。


「行くな。せっかくあいつらが命を張ってくれたんだ。俺たちは生きなくちゃならないんだ」


「ふん、亭主気取りか」


 俺は美月の肩を押さえたまま、じっと目を見つめた。


 ふっと笑みを漏らして美月は目をそらした。


「今さらあんたがあたしを抱けるのかい?」


 平地では銃声が鳴り響いている。


 ――ぐぅおっ……。


 躊躇したその瞬間、俺は激痛にもだえ、岩の上に転がっていた。


 美月の膝が俺の股間を一撃で捉えたのだった。


 立ち上がった美月は悶絶する俺を見下ろし、しゃがんだかと思うと、唇を押しつけてきた。


 涙にまみれた頬を押しつけ合い、ぎこちない口づけを交わし、再び離れた女の顔は晴れやかだった。


「生まれ変わったら続きをさせてあげるよ」


 そう言い残し、美月が去っていく。


 ――行くな。


 俺は体を起こしたものの、しびれた下半身が言うことを聞かず岩の上でただそれを見送るしかなかった。


 涙で視界がぼやける。


 冷たい風が吹きつけるのに、全身から脂汗が吹き出てくる。


 体温を奪われ、体が震え出す。


 ――こんなところでくたばってたまるかよ。


 俺は股間に手を当て痛みが治まるのを待った。


 断続的に銃声が鳴り響く。


 だが、こっちの崖の方へは敵は近づいていないようだ。


 俺は岩にとりつき、崖を這い上がった。


 生きるんだ。


 生き残って帰るんだ。


 約束も果たせず、権造たちを犠牲にした俺に生きてる資格なんかない。


 ならば、だからこそ、俺はその罪を背負って生き抜いてみせる。


 涙を拭い、すりむけた手からにじむ血を舐め、俺は崖を登った。


 ようやく尾根までたどり着いたとき、東の空が明るくなった。


 平地を駆け回る人の姿がごま粒のように見える。


 追い立てられる男が白一面の雪原に倒れた。


 そこに黒い点が殺到し、あっいう間に重なり合って倒れた男の姿が見えなくなる。


 それでもまだ銃声は止まない。


 ごま粒の群れが動き出し、数発の銃声の後、真っ白な平原にもう一つ、ぷすりと針で突いたような黒い穴が開いた。


 顔を出した朝日に照らされて雪原が輝く。


 その黒い影はピクリとも動かなかった。


 もうそれ以上銃声も聞こえない。


 ――カアカアカア。


 しんと静まりかえった雪原の上をカラスが横切っていく。


 ――カアカアカア。


 もう一羽、それを追いかけるようにカラスが飛び立っていく。


 俺は目を閉じ、手を合わせ、頭を下げると、尾根伝いにその場を立ち去った。


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