後編

 母親の〈部屋〉は狭いものだ。部屋の中心から腕を伸ばせば、家具の全部に手が触れるような狭い部屋はあめの寝室とも似ている。暖かくてよい匂いがして、どんな綺麗な風景を持つ〈部屋〉よりもここにいるのが好きだった。

 それから、寝室の下の階の水場へ繋がる外階段。〈霧の部屋〉の愛称の通り、この〈部屋〉はいつも霧がかかっていて、きらきらと小さな水滴がいつも輝いていた。あめとひかりはそれを掴もうと錆びた手すりから身を乗り出すから、上の階の窓から慌てて腕を伸ばす母親に首根っこを掴まれて、『ちゃんと見ててよ』『あとタバコ吸わないでって』と母親が父親を叱って、『ごめんきりちゃん』といつものように謝るのだ。

 ずび、と階段に座ったひかりがぼんやり霧の光を見つめながら鼻をすする。壁にもたれて一つ上の段に座ったあめは、迷った末にぽすんとその頭の上に手を置いた。まだこの場所は、あめにとって心地よかった。ほとほと愛想を尽かして、怒鳴り合ってケンカしても、まだ母親に希望的観測を持ち続けた幼い男の子が手のひらの下に座っているような心地がした。


「なんか、記憶より狭いねー」


ひかりが呟くように言う。


「おっきくなったんだねー」

「……」


 兄妹の追想の邪魔をしないよう、そらは寝室のなかでそれを聞いていた。くつしたと同じ部屋にいるとどうしても症状が出るので、いっそのことと思って抱き上げる。ふわふわである。


「俺たちはシーだね、くつしたちゃん」


 くつしたはそらには返事をしなかった。後ろをきょろきょろして部屋の中の丸テーブルを気にするので、そらは彼女を机の上に差し出してやる。子ども用の折り紙や文房具がいっぱいに置かれている中で、ひとつだけ書き込まれた便箋があるのを見つけて、なにげなく文字を目で追った。


「……あめ、あめ!」


 そらが勢いよく部屋の窓から顔を覗かせるのに、二人は慌てて涙を拭いながら顔を上げた。そらが差し出す便箋に、「それどしたの?」とひかりが言う。


「これ……あめとひかりちゃん宛てっぽい」


 あめは手を伸ばせず、ひかりが受け取るのに顔を寄せて文面を覗き込んだ。自分が母親の字を判別できるなんて思いもしなかった。もう何年も見ていない、小さくて癖のある字が『おてがみありがとう』と綴る。


ふたりからすてきなてがみをもらえて、おかあさんはうれしいです

またこうえんで、


 あそぼうね、と続くけれど、その五文字と、次の行は少しだけ筆跡が違った。まるで数日日を開けてからまた書き始めたような小さな差が、そのあとも数行ごとに現れる。


あめとひかりは、わたしのだいじな宝物です

パパもママのことはきらいだけど、ふたりのことはだいすきだよ


でも、信じてもらえないよね

はたらいたこともなくて、私もお母さんしかいないからふたりのことを育ててあげられないと思ったけど、私はまちがえた こんなことになるなんて知らなかった

でもお金がない

あめのねつが下がらない ごめんね


 それは、母親の心の中に仕舞い込まれた二人への本音だった。もうどこにも繋がらない扉の先に失われてしまったものが今、唯一彼らの心の中を渡り歩いたキジ白の猫によって届けられる。


今から入院しに行く。

パパに色々とお願いしたから、きっと二人は大丈夫。私が帰れても、帰れなくても、もうホテルは閉めよう もう閉められる

ひかり、私とあめがうまくしゃべれなくなってから、ずっと助けてもらったね

ひかりが一番不安で怖かったと思います。ごめんね

あめへ、どうしようもないママでごめんね。帰ったあとぎゅーしたら怒る?

これはおてがみでした。読み返していて思い出しました。

ふたりとも愛してるよ ママより


「これを見せたかったのか」


 あめが窓枠に立つくつしたの顎を撫でると、彼女は喉を鳴らしながらあめの指を舐めた。ひかりと、なぜかそらがぐすぐすと泣いていて、あめはくすりと笑う。すん、といっぺん鼻を鳴らして、腰に手を当てて立ち上がる。いい気分だった。


「これを持って帰ろう、ひかり。立てるか」

「……うん」

「も、もういいの」


 顔中がべしょべしょになったそらが立ち上がった兄妹を見て言う。


「ここでもうちょっとゆっくりしてもいいんじゃない」

「そらが泣き止む時間がほしいんだろ」


 あめが意地悪に笑って返すと、「うん」とド正直に答える。

 父親に手紙を見せて、そのあとはどうなるだろう。ホテルの扉をぱちりと締め切っても、〈雨の町の部屋〉はけして元通りにはならない。家族の分だけの傘は傘立てに残っているし、ホテルの跡は残るだろう。だけどそれが、あめがこの世界に生きた証だった。誰かがこの〈部屋〉にいた証だった。

 かちり、とドアノブを握ると軽い金属の音がした。あめが白い扉をくぐって、その後ろをくつしたとそらが追いかける。


「……ばいばい、きりちゃん」


 最後尾で、手紙を握りしめたひかりは暗い部屋に向かって小さく声を投げた。彼女が出て行くと、ついに部屋には誰もいなくなる。

 母親の扉から出ると、そこは朝焼けと白紙の金木犀の世界ではなくて、夕暮れと黄金色の花の舞い落ちる〈町〉だった。振り返っても腐りかけの扉が一つあるだけで、先ほどまでいた世界は幻だったように消え去っていた。


「なおん」


 仕事を終えてすっきりしたとばかりに、くつしたがにゃおにゃおと喋りながら三人の足元を跳ねまわる。あめがそれに表情を緩めると、くつしたは不意に虚空を見上げながらくるりとその場で八の字に回った。まるで、四人目の足がそこにあると言わんばかりに。


「——くつした!」


 ボロボロの扉の前でくつしたが突然倒れ込む。その胸が異様に痙攣するのは恐ろしい光景で、あめとひかりは慌てて老猫の前に膝をついた。


「吐いたっ、ああっ、ダメだよ、くつした」


 狼狽するひかりに、あめはくつしたをすぐに抱き上げて立ち上がる。墓場の階段を駆け上がって急いで町の方へ向かったけれど、腕の中で重くなっていく小さな体にだんだん足がもつれて、木の陰の下で立ち止まった。


「……あめ」


 追いかけてきたそらがあめの肩を抱く。顔を見ないようにしてくれるのがありがたかった。


「おばあちゃんだったんでしょ、きっと寿命だったよ」

「……、……」

「さ、ひかりちゃんとこ戻ろう……。それで、くつしたにありがとうって言おう」


     *


 ペンキを塗り直されたばかりのピカピカの扉の隣に、地面が掘り返された跡があった。あめはそらと一緒に屈んで、その後ろに小ぶりな真っ白の扉を設置し始める。


「きりちゃん、くつした、また来たよー」


 二人がこんこんと子気味よい音を鳴らしている間に、二つの花束を持ったひかりがにこにこと扉に話しかけた。母親の扉に丁寧に花束を立てかけたあと、二人がくつしたの扉を立て終わるのを待って、もう一つの花束も置く。


「よっこらしょ」

「あめ、しゃがむのに掛け声かけないで」


 そらが笑いながら扉の前にしゃがむと、三人は手を合わせて目を閉じた。その髪につむじ風が巻き上げた金木犀の花のシャワーが降り注いで、三人はお互いを見て笑い合う。

 冷たく甘い秋の匂いがした。

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くつしたの大切な白い扉 日ノ竹京 @kirei-kirei

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