中編 〈雨の町の部屋〉
いつになく雨足は穏やかだった。多分、そらの〈部屋〉へ行ったからだ。
玄関の土間の部分を大股で越えてくつしたを床に離すと、くつしたは慣れた足取りで部屋の奥へ進んだ。長毛気味な上に太っているから、なんだか軽やかさのないのそのそした動きである。湿度調整のために空調だけは立派な散らかった1Kの部屋を、外からの波打つ光を頼りに歩き、あめはベッドに腰掛けると窓の外を見た。雨にかすんだ景色の中に、明かりのついたコテージ式の客室とホテルの本館が見下ろせた。
空の建物が数えきれないほどある町スケールの〈部屋〉にも、主寝室というものはあった。もう一度この部屋の玄関扉のノブを握れば、あめは〈雨の町の部屋〉を散歩することもできるし、再度家の廊下に戻ることもできる。だけど誰かがホテルとしての敷地外を歩く男子を見て、ああ、今日は雨足が穏やかなのは彼の機嫌がよかったからかと知るなんて考えただけで恐ろしかった。
「くつした……寝よう」
声をかけると、くつしたは心得たと言わんばかりにまっすぐあめの枕元へ来て丸くなった。彼女は十五歳で、人間ならあめやひかりよりずっとおばあちゃんなせいか、面倒見がよく時々二人の姉のように振舞う。離婚や〈部屋〉を改装されたあめのショックを癒すように付き添って過ごしたのが習慣になり、今はあめの寝室で眠るのが日課となっていた。
ざあざあ、しとしと、と雨音が暗い部屋に響くのに耳を澄ませながら、くつしたの白い前足を手で包み込んで撫でる。そうしているとあめに常に付きまとう不安感がふっと消えていって、すぐに眠り込むことができるのだった。
*****
「ねぇ! お兄ちゃん!」
次の日の二時間目あとの休み時間、三年のフロアに黄色い声が響き渡った。ただでさえ称号持ちが二人いて、しかもつるむから常に目立っている教室に一つも躊躇することなく飛び込んできて、ひかりがあめの前の席の椅子に座る。
「……ためらいないね、ひかりちゃん」
窓際の壁にもたれてあめと話していたそらは苦笑いをして言った。「見て!」と彼女がガラケーを改造したモニター付きリモコンを突き出すのに、あめとそらはその小さな画面をのぞき込む。ざらついた画面に映っているのは、家のキッチンだった。
「今、『やせるくん』起動しようとしたら、家のどこにもくつしたがいないの! しかも、よく見たらキッチンの窓が開いてて!」
ひかりは、本人が〈ガラクタの庭の部屋〉と名づけた、寝室の外の丸い敷地の上にスクラップの山積みになった〈部屋〉で発明品を作るのが趣味だ。『やせるくん』とは、彼女がくつしたのために作ったものの、くつしたがビビって近づいてもくれなかった『あそぶくん』に移動機能を加えたロボットである。その外観は男の子を模しており、スイッチを入れるとくつしたを認識して階段をものともしない大きなキャタピラで追いかける。また、ペットカメラとしての機能もあり、ひかりが学校にいる間くつしたの様子を見るために使っていた。
あめが『やせるくん』についてそう説明すると、そらは「痩せそう」とコメントした。
「あー、くつしたの首輪にGPSつけとくんだった……。あぁ~~……」
ひかりが珍しく落ち込んで、あめの机の上に突っ伏す。
「大丈夫だろ、くつしたが脱走するのは初めてじゃないし、すぐ自分で帰ってきた」
「でも、それもウン年前でしょー……あー、おばあちゃん猫のくせに元気なんだから……。お兄ちゃん早退して探してきてよぉ~」
「行きたいやつが行けよ」
「あたしは、今日再テストなの……」
そんな話をしている間に次の科目の教師が入ってきて、しかもひかりに再テストを命じた教師だったらしく、彼女に早く教室に戻るように促した。「人のクラスでだべってないで予習しなさい」とひかりが追い出される。
ちりっと黒板の上のスピーカーが独特のノイズを流し始めて、そらも自分の席に戻ろうと窓にもたれているのから姿勢を立て直す。チャイムが鳴り始めた瞬間、「うおえあおわ」から始まる言葉にならない叫び声が階段の方から響き渡った。ざわつく教室にどたばたと頬を紅潮させたひかりが戻ってきて、両手に抱えたものをあめに向かって掲げた。
くつしたが興味深げにきょろきょろとして、あめは頭を抱える。その肩にそらが手を置いた。
「にゃあん」
飼い猫が勝手に来てしまったということで、二人に授業を遅刻した以上のお咎めはなかった。くつしたは困った末に、教師の一人が教科書やらを持ち歩くために持っていたカゴに入れられて大きなファイルで蓋をされ、会議室で隔離されている。
放課後、再試のひかりを待つついでに、あめはそらと会議室へ向かった。デレデレしながらカゴを覗いていた校長先生に幽霊を見たような顔をされたあと、くつしたを回収する。平べったい指定カバンには力不足だったため、しかたなく抱いて一年のフロアに向かうと、死ぬほど二度見された。
「……ぐっ……しゅんっ」
ひかりと監視の教師だけがいる教室の前で待っていると、そらが湿ったくしゃみをして首を傾げた。「あれーもしかして俺猫アレルギーかなー」と鼻声で言い、しぱしぱと目を瞬かせる。
「さっき撫でちゃったからかもー、手がかゆい」
「外歩いたから毛づくろいしたか」母親も毛づくろいあとに撫でて顔をぐしゃぐしゃにしていた。あめはくつしたを見下ろしながら言って、「手と顔洗ってこい」とそらに勧めた。
「うん……」
そらがトイレに向かうと、教室内から時間切れを告げる声と抵抗する妹の唸り声が聞こえた。少しして教員とひかりが教室から出てきて、そらもいくらかすっきりした顔で戻ってくる。
「英語はなー、やっぱり日本人にないものじゃん?」
「でもひかりちゃん、プログラミング書くじゃん」
「あれはまた全然違うのー」
あめを挟む二人のとりとめのない話を聞きながら、あめは人の腕の中で昼寝をし始めたくつしたに気づいた。抱え直してやりながら、三人の高校があるのは〈駅〉を挟んだ別の〈町〉なのに、どうしてくつしたはここまでたどり着けたのだろうと思う。
「猫って、犬みたいに人の匂い追えたっけ」
「ん?」「ほえ?」
〈駅〉は一つの政府が統制する〈町〉への扉を全て集めて移動できるようにした大きなドーム状の建物だ。四桁の数えきれないような数の〈町〉の扉や、開放されている称号持ちの〈部屋〉へ直接遊びに行ける扉もあって、勘であめたちのいる場所へ向かえたりなんてできたもんじゃない。くつしたが賢すぎて、文字でも読めるようになっているんなら別だけど……。
「あっ」
改めて〈金木犀町〉に入ったとき、くつしたが不意に目覚めて、あめの腕から飛び降りた。ちらりと三人を見上げると、長いしっぽをふりふり先立って歩き始める。
「くつした?」
三人が困惑して目で追うと、彼女は待つように振り返ってその場でこてんと腹を見せた。ひかりが撫でに行くと、すかさず起き上がってまた歩き始める。
「に、人間の扱いをわかってやがるぜ……!」
「ついてこいってことかな?」
そらがくすくすと笑いながら言った。
くつしたは一切の迷いなく、どこかへ向かってまっすぐに歩いた。ただしそのルートは猫製で、人間たちは人の家の塀の上を歩いたり、金網をもぐったり、絶対見つかったら怒られるような場所を闊歩することを迫られることとなったが。
「家通り過ぎたね」
木漏れ日の落ちるさびれた道を進みながら、ひかりが機嫌よさそうに言う。そろそろ〈町〉のはじまで来る。くつしたは変わらず三人の前でぽてぽてと進み続け、ある交差点をふらっと曲がった。そこから、数段下る短い階段を降りたそうだが降りられずにまごまごとする。
「お墓、か……」
三人は、他の場所より少し低い位置の広場を見下ろした。どうしても口は重くなり、一匹にゃあにゃあと鳴くくつしたを抱き上げ、あめは無言のまま黄色い花の敷き詰められた階段を降りる。なにより、ここにはあめとひかりの母親の墓標があった。
「にゃん」
「わかったよ、次はどこだ」
「なむ」
くつしたはあめの腕から降りると、いくつも並んでいる古い扉の間を縫って、ある白いペンキのはげた扉の前であめを振り返った。
「墓参りさせたかったのか?」
花束を添えられた周囲の墓に対して、そのボロボロの扉の前には青々とした夏の名残が残っていた。
「にゃうん」
くつしたは、あめたちの母親の扉の隣に建てられた一回り小さな扉に近づくと、それを爪でかりかりと引っかいた。それは以前まではなかったものだ。三人がそれに気づいて近くを囲むと、くつしたが前足を上げて立ち上がり、真っ白い扉のレバーに足を引っかけた。
かちゃ、と小さな扉が開く。とすんと重たそうに前足を着地させて、彼女はまばゆい光を漏らす世界へ消えていく。中から、にゃんと催促する声が聞こえて、三人は顔を見合わせておずおずと彼女のあとを追った。
目を閉じながら真っ先に足を踏み入れたひかりは、かつん、と足がきちんとした地面に触れたのに片目を開けた。扉の先に広がっていた世界に、ふおおと興奮した歓声を上げる。
「すごい! お兄ちゃん、これくつしたの〈部屋〉だよ!」
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