くつしたの大切な白い扉
日ノ竹京
前編 〈夜の町の部屋〉
どうも頼りないアームに引っかかったマイナーなキャラクターのぬいぐるみが持ち上がって、ついぞ素直に運ばれるのを黒髪の女子高生がかぶりつきで見つめている。アームが人形を離し、ドデカいそれが取り出し口にぼとりと落ちるのを見て、「くはー!」とビールをあおったおじさんのような声を上げた。ばたばたとしゃがみこむとクレーンゲームの機体の中に入りそうになりながらぬいぐるみを引っ張り出し、勢いよく頬ずりをする。
「サイコー! にーに大好き!」
景品を取ってやったあめが苦笑いを浮かべるのに、ふふ、と三つのカバンを持つ白髪交じりの髪のそらが微笑んだ。普段、よく似た黒髪の妹が『にーに』だなんて呼ぶのはあめに買い物をさせたいか彼女のよくわからない発明品の実験をさせたいかの二択なのだ。
「調子のいいやつだな。次のバイト代で返せよ」
「お兄ちゃんのお金でお兄ちゃんが取ったから返さなくていいもーん。へへっ」
「僕の金でなんべんも取り損ねた分は?」
ひかりはぬいぐるみを振り回しながらあめに背を向けると、「そらくん、カバンありがとー」と二人のカバンを預かっていたそらに片腕を伸ばした。そらが首を横に振ると、彼の短いポニーテールがぷるぷると揺れる。
「いいよ、俺が持ってるからひかりちゃんはそれ持ってな」
「たはーっ」ひかりが腰を落としながらそらを指差して、マンガのキャラのようなポーズを取る。「モテ男」
「満足したんなら帰るぞ。夕飯も作らなきゃだしくつしたの世話もしなきゃ」
あめは腰に手を当ててため息交じりに言った。学校が終わってから、もう二時間はゲームセンターで遊んでいた。いくらここと家が近いからって帰るのが遅くなりすぎる。
「やだ! もうちょっと遊ぶ!」
ひかりが子どものようにだだをこねると、そらがなにかを思い出したようにぱっと表情を明るくした。「ね、上の層で最近新しいスイーツ屋さんができたらしいからさ、そこに寄るのは? 俺もまだ遊び足りないしさぁ」と提案する。
兄妹は普段あまり外食をしないから、ひかりはあめを見上げた。それはもう、かわいくぬいぐるみに顎をうずめ、目をくりくりと丸くして。
「にーに……お腹減っちゃったな~……」
「……、……しかたないな」
「よしっ」
そういうわけで、三人はゲームセンターの外に出た。自動ドアが開くと、立体的に入り組んだ回廊とどこまでも黒い夜空が彼らを迎える。時間感覚が狂って、あめは思わず携帯で時刻を確認した。まだ五時半を過ぎたばかりだ。
常に夜。それから、スケールが〈町〉スケール。それが〈夜の町の部屋〉の特徴だった。少し冷ややかな鉄製の道に根元の見えない細い支柱がついただけの地面に大小さまざまな建物がぽつぽつと建っていて、そこに入っているテナントの明かりが星の一つのように煌々としていた。
あめは意外と、下層の提灯やネオンサインが上の層をぼうっと照らすのが好きだ。今いる中層にはよりさまざまな店舗や研究施設なんかがあって、上層は公園と、景観を重視した見た目のカフェなんかがいくつかあるだけで、静かに満天の星空を楽しむことができる。〈夜の町の部屋〉は有名な繁華街であると同時に、定番のデートスポットだ。そらの言う新しいスイーツショップというのは、上層にあるらしかった。
「こういうパフェが売ってて、星空と撮ると映えるんだってさ……」
「わたあめのってる。かわいー」
かんかんと薄い縞鋼板をローファーが蹴る。そらがひかりにSNSの写真を見せていた。上層に上がると、街灯ひとつない道に目が慣れて隠れていた星がひとつひとつ輝き始める。空中を歩く足が竦みそうな浮遊感も、錆びた手すりがべたつく感触も、アイスを食べるには冷たい風も全て星空のためにあるような、完成された美しい世界にいた。初めて訪れた瞬間と変わらずに心を奪われて、冷たくて澄んだ星空が額から自分の中に満ちるような感覚に体を預ける。
「あめ」
あめがすっかり星空に意識を飛ばしていると、とん、と肘でつつかれる。そらが照れ臭そうに笑みを浮かべながら、ファンシーな色合いのアイスパフェをあめに差し出していた。
「ここに来るといっつも魂抜けるよね、あめは。俺の〈部屋〉大好きなんだからぁ、も~」
あめは手すりにもたれかかってカップを受け取り、周りを振り返った。広場になった空間のはじにキッチンカーと折り畳みの丸テーブルが広げられていて、そのうちのひとつにひかりとぬいぐるみが着席している。その景色はとても穏やかだった。誰もがこの星空に受け入れられている、星空は全て受け止めてくれるという安心感に表情を緩めている。
ずず、と一人ホットチョコレートを飲むそらの、今や白色の方が割合の多くなってきた髪が夜風に揺れた。他人が心なく〈部屋〉にあるなにかを持ち込むか、持ち出すかすると、それがもとの場所へ戻るまで部屋主には脱力感やめまいのような症状が現れる。そらの髪はその慢性的な体調不良に晒され続けた結果だった。星空はなにも許容してなどはいないのだ。他人が優しい人間に甘えて、勝手に心救われているだけで。
また明日、学校で! と挨拶を交わして、あめとひかりは〈夜の町の部屋〉の中でそらと別れた。人混みではぐれないようにしながら〈部屋〉の中心にあるタワー状の建物に入ると、〈町〉に繋がる大きな鉄の扉が開きっぱなしで人を吐いたり吸い込んだりしていた。あめたちも順に並んで外に出ると、〈町〉はちょうど真っ赤な夕暮れを見せていた。さっきまで真夜中の中にいたから、思わず時間が逆行したような変な感覚になる。
あめやそらたちの暮らす〈金木犀町〉は巨大な金木犀の木の幹——これも、葉や枝の重なりで根は見えない——を中心に広がった街だ。〈夜の町の部屋〉より上下感が少なく、平らに大きい。それからいつも空からは木漏れ日が落ちて、秋になると小さな金木犀の花が降り注ぐのが特徴だ。夕焼けと黄金色にきらきらと舞う花は綺麗で、ひかりが歩きながらぱしゃりと写真を撮る。
兄妹が住むマンションの扉を開け、二人はただいまと家の奥に声をかけた。にゃん、と小さく返事が返ってきて、白い靴下を履いたキジ白がリビングから顔を出す。
「くつした~、遅くなってごめんよー」
ひかりがカバンも持ったままくつしたに駆け寄って、むにむにとその肥満体を撫でまわした。あめはそれを横目にソファにカバンを放り投げて、急いでくつしたのためにキャットフードを用意する。給水機の隣に皿を置くと、くつしたは即座にひかりの手の中をすり抜けてあめの足の間をくぐり抜けた。
「あーん」
「ひかり、米炊いて」
「はーい」
ひかりは立ち上がってよたよたと数歩前に歩くと、テレビ横の戸棚の前で足を止めた。小さな写真立てと、くつしたが落としても割れないようプラスチック製の花瓶を覗き込んで、「きりちゃん、ただいまー」と微笑む。写真の中で幼い兄妹と満面の笑みを浮かべているのは、二人の母親だった。ひかりが彼女をきりちゃんと呼ぶのは、父親がよくそう呼んでいたからだ。
今はもう、二人には母親も父親もいなくなってしまった。
元々は普通の家庭だったけれど、あめが小学校に上がる直前、両親は不仲を理由に離婚した。離婚を機に母親は常に緊張した性格に変わってしまい、専業主婦でキャリアがないからと称号持ちだったあめの〈雨の町の部屋〉を勝手にホテルに改装してしまったのだ。
人にはそれぞれ、ひとつ〈部屋〉がある。それは小さな一室だったり、館のようだったり、明らかに部屋の概念を越えた、屋外のような空間の中に回廊が巡り、空っぽの建物がいくつもあったりする。その中でそらの〈夜の町の部屋〉やあめの〈雨の町の部屋〉は〝称号〟として認められた名の知れた〈部屋〉だった。〈部屋〉から見える景色の先にすら触れられず、まだ解明されていないことも多いこの世界で、潤沢な資源や安定した環境は貴重だ。称号はそれらを提供できる価値のある〈部屋〉の持ち主を称えるものだった。
うまくやれば、確かに〈部屋〉を使ってその代償にふさわしい地位と権力を得ることもできるのだろう。だけど脱力感やちょっとした体調不良なんてやっぱり軽んじられてしまうし、なにより未成年はステータスや金のなる木に目がくらんだ親の選択に逆らえない。
それ以来あめは母親を避けてずっと生活していたけれど、それからしばらくして、母親は結局和解もすることなく病気になって死んでしまった。父親が責任者に立ち代わったホテルと、母親がいつだか拾ってきた小さなキジ白は忘れ形見だ。
もう寝るころ、あめはくつしたを抱いたまま二階に上がった。茶色の床板が体重できしきし鳴って、お前、重いなぁなんて言ったりする。家の壁に全然合わないひかりの鉄製の扉の隣にある、地味な暗いグリーンの扉のノブを捻って、開いた。
……ざああ、とくぐもった雨音があめを迎える。
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