エピソード7 ただの逃避

俺の名前は佐々木。長いことこの街でタクシー運転手をしている。昼も夜も人を乗せ、行き先を聞いて走る。ただ、それだけの仕事だと思っていたけど――たまに、人生の不思議を感じる夜がある。


その日も深夜の街を流していると、タクシー乗り場で一人の若い男が乗り込んできた。スーツのネクタイを緩めた30代前半くらいの男だ。どこか疲れた顔をしている。


「どちらまで行きます?」と聞くと、男は少しうつむいたまま答えた。


「どこでもいいです。」


「どこでも?」俺は思わず聞き返した。「それじゃあ、どこか俺の好きなところに連れてくぞ?」


「ええ、どこでも。」

声は低く、どこか投げやりだった。


俺は少し肩をすくめて車を発進させた。


車内にはしばらくエンジン音だけが響いていた。ミラー越しにちらりと男を見ると、窓の外をぼんやり眺めている。


「深夜のタクシーってさ、逃げ場みたいなもんだよな。」俺はそう言いながら男に目をやった。「俺もたまにそう思うことがあるよ。」


男は少し反応したようだったが、すぐに視線を外した。


「……逃げ場、ですか。」


「そうさ。家に帰るのも嫌だ、けど行きたい場所もない。そんなとき、ふらっと乗り込むんだろ?」


男はしばらく黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。


「まあ、そんなところかもしれません。」


その声には、何か重いものが乗っていた。


「仕事かい?」俺が聞くと、男は小さくうなずいた。


「仕事で……ちょっと大きな失敗をしました。」


「そりゃあ、大変だったな。」


「大変っていうか……もう終わりですよ。」

男はかすかに笑ったが、それは自嘲のように聞こえた。


「上司や同僚の信頼も失って、居場所なんてなくなった気がします。こんなとき、どこか遠くに逃げられたらって思うんですけどね。」


「逃げたいときは、逃げたっていいさ。」俺はそう言って笑った。「けど、意外と戻る場所なんて案外すぐそこにあるもんだぞ。」


「俺も若い頃、やらかしたことがあってな。」

そう言って、俺は少し昔話を始めた。


「当時は配送の仕事をしてたんだが、ミスで納期を丸ごと飛ばしてな。会社中から怒鳴られたよ。でも、逃げる勇気もなくてな。結局そのまま続けてたら、いつの間にか笑い話になってた。」


「……笑い話ですか。」


「そうさ。逃げたくなることなんて山ほどあるが、逃げることだけが正解じゃないこともあるんだ。」


男は少し黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。


「でも……戻ったらまた笑いものにされるだけかもしれません。」


「笑いものになったっていいじゃないか。気にするなよ。」


しばらく街中を走っていると、俺はふと夜景の見える高台に車を停めた。


「少し気分転換してみなよ。」


男は戸惑いながらも車を降りた。そして夜空を見上げて、驚いたように目を見開いた。


「……こんなに星が見えるんですね。」


「昼間じゃ見えないからな。」俺はそう言いながらタバコに火をつけた。「たまにはこういう時間も悪くないだろ。」


男はしばらく空を見つめていたが、やがて小さく笑った。


「……なんか、少しスッキリしました。」


車に戻った男は、自分の住所を告げた。


「戻る場所はなくなってないよ。」俺はエンジンをかけながら言った。「きっとな。」


男は小さく頷き、「ありがとうございました」と短く礼を言った。


逃げる場所も、戻る場所も、それぞれあっていい。そんなことを思いながら俺はまた車を走らせる。。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「深夜、タクシーにて」 ダンナ @Ky19920912

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ