メスガキちゃんを命がけで助けたら右腕がなくなった

崖の上のジェントルメン

1.腕のなくなった日




キーンコーンカーンコーン


俺たち高校生にとって、放課後のチャイムは幸せを呼ぶ音だ。堅苦しい授業から解放され、晴れて自由の身になれる瞬間だ。


「やっべ!今日監督来る日だった!早く部活行かねえと!」


「ねえねえ、帰りにさ、インサタでバズってた駅前のクレープ屋行かない?」


「ふああ……。ねみい……」


好きな部活に打ち込む奴もいれば、仲のいい奴らで集まって騒ぐ奴もいて、のんびり家へ帰る奴もいる。


「じゃあな中村~!」


俺はクラスメイトたちの挨拶に、「また明日な~」と手を振って答えていた。


「ふー、今日も1日終わったな~」


腕をぐーっと伸ばし、背伸びをして強張った身体をほぐす。


小さなあくびをひとつしてから、俺は通学路をてくてくと歩いていく。


ひゅうううう……


秋の風が吹いていた。街路樹の下には枯れ葉が積もっており、風に乗って空を舞う。


「あの~、ちょっといいかい?」


ふと、俺は通りすがったおばあちゃんに声をかけられた。


「どうしました?」


「市役所に行きたいんだけどねえ、どっちだかわからなくて……」


「ああ、そこを右に曲がって、しばらく真っ直ぐ行くと、左手に見えてきますよ」


「ああ、そうかい。ありがとうねえ」


「いえいえ」


「最近の若い子は、みんな優しいねえ」


「ははは、恐縮です」


おばあちゃんは俺へ何度も頭を下げながら、市役所へと向かって行った。


俺という人間はシンプルな奴で、「優しい」とか言われるとすぐにご機嫌になっちまう。「ふんふふん♪」と鼻歌を歌いながら、俺はスキップしそうな勢いでまた歩き出した。


べちゃっ


その時、右足に何かを踏み締める感触があった。なんだと思って立ち止まり、足元を確認してみた。


「げっ!?い、犬のうんちじゃん!」


上機嫌だった気持ちは、ジェットコースターのように一気に降下した。


「も~!最悪すぎる~!この靴、買ったばっかなのに~!」


靴の裏を地面でごしごしと擦って、なんとか裏のうんちを落とそうと試みる。


だがその時、足が思わずふらついて、体制をぐらつかせてしまった。


「あいてっ!」


そのせいで、俺は近くにあった電柱に後頭部を思い切りぶつけた。


「あががが……!く、くっそ~!」


立て続けに運の悪いことが起きていた俺の耳に、さらに追い討ちをかける声が届いてきた。


「きゃははは!中村先輩、だっさ~い!」


それは、女の子の声だった。耳がキンキンと響くほどに高く、嫌味がバターのようにたっぷりと塗られていた。


俺はおそるおそる、その声のする方へ目を向けた。


ゆるふわなボブヘアでオレンジ色の髪が、ふわりと揺れている。目をじっと細めて、ニタニタと嘲るように、その女の子は笑っている。


秋風に吹かれて、スカートがたなびく。肩にかけていた鞄を下ろし、後ろで手を組んでいる。


……長谷川 ゆず。


それが、彼女の名前だった。


「長谷川、か。まさかここで一番会いたくない奴に会うとはな……」


俺は顔を強張らせながら、そう呟いた。


長谷川はそんな俺の態度に目ざとく反応し、「え~?なに言ってるんですか~?」と小馬鹿にした口調で答えた。


「こんな美少女に会えて、先輩も嬉しいでしょ~?ほんと、そんなんだから先輩はモテないんですって~」


「ちぇ、モテないは余計だよ。それに、自分で自分のことを美少女とか言うなよな」


「ふふふん?事実なんだから、しょーがないですって」


長谷川は腰に手を当てて、自信満々に胸を張った。


正直言って、彼女の胸はかなり大きい。こうして胸を反らすと、それが顕著に分かる。制服にしわがよって、胸の中央に集まっていた。


そんな場所に視線が行ってしまった自分が恥ずかしくて、ふいっと横に視線を切った。


「あー!今、ゆずの胸見てましたよね!?」


彼女から問い詰められて、俺はぎくっ!と肩を震わせた。


「み、見てない!断じて見てない!」


「嘘ついてんの、バレバレなんですけど~?あーあ、これだから童貞は」


「お、お前だって、そういう経験ないくせに!」


「でも先輩と違って、ゆずは結構モテますけど~?」


「ぐうっ……!」


「あーあ、後輩に負けるなんて、だっさい先輩♡」


「く、くっそ~!」


まったく、なんて生意気な奴だ。


俺は生徒会に入っており、彼女はその後輩に当たる。長谷川は前々からやたらと俺にちょっかいをかけてくることが多く、会う度にこうしてからかってくる。


確かに、俺はちょっと間が抜けて、ドジなところがある。そのせいか昔からいじられキャラが定着していた。自分で言うのも悲しいが、それが俺のポジションだった。


そういう点で考えたら、長谷川みたいな他人をいじってなんぼな人間からしたら、俺なんて格好の獲物なんだろう。


「長谷川、俺だって一応先輩なんだ!さすがにちょっと、その態度は目に余るところがあるぞ!」


俺は腕を組んで、長谷川を叱ろうとした。でも全然、長谷川には通じていないようで、彼女は「えー?怒ったんですか~?」とさらに俺を煽るだけだった。


「俺だって人間だ、意地悪をされると気分が悪くなるものなんだ!」


「意地悪じゃないですよ~!ゆずは、先輩で遊んでるだけです♡」


「このやろー!それが意地悪だって言ってんのに!」


「まあまあ、そう言わないでくださいよ~。ほら、このジュースあげますから、機嫌治してくださいよ」


そう言って、彼女は持っていた鞄から、1本のオレンジジュースを取り出して、俺へと差し出した。


「な、なんだよ?このジュース」


「これ、ゆずが自分で飲もうと思ってたんですけど、先輩がそこまで怒るんだったら、お詫びしなきゃなーと思って」


「……な、何にも入ってないよな?これ」


「何言ってるんですか~!未開封なんだから、何も入れようがないでしょ~?それとも、可愛い後輩のプレゼントが怖くて手に取れないんですか~?」


「むっ、そんなことあるもんか。よし、分かった。それを貰おう」


俺は彼女からジュースを受け取り、蓋を開けた。


ぷしゅーーーーーー!


中身が勢いよく飛び出して、俺の顔面を思い切り洗った。


「うわっ!うわっぷ!」


俺はすぐに蓋を閉めて、吹き出るジュースをなんとか止めた。でも、もう時既に遅し。俺の顔から肩の辺りまで、オレンジジュースでびしゃびしゃに塗れていた。


「きゃはははは!やっぱ先輩、だっさーい!」


長谷川はお腹を抱えて、声をあげて笑っていた。


「長谷川……お前これ、炭酸だな!」


「ぴんぽーん!その通りでーす!先輩に渡すために、買ってからめちゃめちゃ振っておきました~!」


「こんのやろ~!今度と言う今度は怒ったぞー!」


「きゃははは!ジュースくさーい!」


長谷川は俺から走って逃げると、道路の真ん中に飛び出した。そして、そこから俺に向かって「先輩ってほんと騙されるの上手ですね~!」と、懲りずに煽ってきた。


「オレオレ詐欺とか結婚詐欺とか、そういうの絶対引っ掛かりそ~!」


「止めろ!そんなこと言うな!俺も自分でちょっとそう思ってんだから!」


「きゃははは!自覚してるとか!ほんと先輩は先輩ですねー!」


長谷川は目を細めて、本当に楽しそうに笑っていた。


困った奴だと思いながらも、ここまで楽しそうにされると、なんだか俺も咎める気持ちが削がれてしまう。


「ふう」と小さなため息をついてから、俺はボリボリと頭を掻いた。



───その時だった。



車が、凄まじいスピードで長谷川めがけて走ってきた。


道路の中央に立っている長谷川は、その車のことにまだ気がついていなかった。


「長谷川!」


俺は咄嗟に、彼女のことを突き飛ばした。


彼女は「え?」と、ちょっとだけ小さく驚いた声をあげていた。


そこから俺は、意識が途切れてしまった。

















……ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……


無機質な心電図の音が、俺の耳に最初に届いた音だった。


重たい目蓋をゆっくりと開けると、目の前には母さんの父さんの顔があった。


「礼仁郎!良かったわ!起きたのね!」


「礼仁郎!分かるか!?俺と母さんのことが分かるか!?」


二人とも目に涙をいっぱい浮かべて、はち切れんばかりに叫んでいた。


身体のあちこちが、鈍く痛む。ずしんと重たい感じがするし、気分も悪い。


「ここは……どこ?」


か細い声で俺がそう言うと、父さんが「病院だよ」と答えた。


「お前、一週間も寝たきりだったんだぞ。本当に心配かけやがって……!」


「……一週、間」


病院という単語を聞いて、俺はようやく、あの時車に轢かれたことを思い出した。


そうだ、長谷川。長谷川は……無事、なんだろうか。あの時ちゃんと、助けられただろうか。


うっ、なんかやけに、右腕が痛い。手首と肘の真ん中あたりが異様にズキズキする。


「………………」


俺は痛みを和らげるために、左手をゆっくりと動かし、その部分を触って擦ろうとした。


……だが、右腕には触れられなかった。


あれ?と思って、寝そべったまま手で場所を確認する。指先に神経を集中させて、腕のありかを探す。


だが、左手の指は一向に右腕に当たらない。おかしいな、なんでだ?


「………………」


顔を動かして、右腕の方へ目を向けた。


その瞬間、俺は絶句した。




俺の右腕は、肩の付け根から先が、まるごと無かった。




最初、見間違えかと思った。俺の目がまだちゃんと起きていなくて、視界がぼんやりしているんじゃないかと。


だが、何度見ても、腕はなかった。そこに俺の、右腕はなかった。


「な、なんだよ……。なんだよこれ……!う、腕が!腕がない!」


俺は左手で右肩を掴んだ。そして、切断面を触りながら叫んだ。


「ない!ない!!右腕がない!そんな!そんな!やだ!!なんで!!右腕が!!右腕が!!!」


「礼仁郎!」


「礼仁郎、落ち着いて!」


両親から身体を押さえつけられるが、俺はそれでもずっと暴れ続けた。


「うわあ!!うわあーーーーー!!腕がーーー!!!俺の!!俺の腕がーーーー!!」







……俺の気が休まるまで、三時間以上もかかった。


右腕が切られたことを自覚すると、その切断面がジクジクと痛むようになった。


だがそんな痛みよりも、右腕がなくなったことによるショックの方が大きかった。


不便になるとか、生活が大変になるとか、そういう理屈よりも「腕がなくなった」という状況そのものに絶望していた。


(腕……腕が、ない)


心になにか、大きなぽっかりとした穴が空いたように感じた。親しい友人が死んだかのような、そんな言い様のない喪失感に襲われていた。


「礼仁郎、本当に……本当に死ななくてよかった」


「そうだ、命が助かったんだ。それだけでも幸運だった……」


母さんと父さんは、俺の腕がなくなったことについては、ほとんど言及して来なかった。あまり触れない方が、俺の心を抉らずに済むと思っているからだろう。


事実、それは確かにありがたがった。あまりにもデリケート過ぎて、今は触れて欲しくなかった。でも、命が助かっただけでも幸運という前向きな言葉も、今の俺にはただ辛いだけだった。


「礼仁郎、何か欲しいものはないか?買ってきてやろうか?」


父さんからの言葉を聞いて、俺は「大丈夫」と小さな声で答えた。


「それよりも、今は少し……一人に、してほしい」


「………………」


俺がそう言うと、二人は黙って立ち上がり、病室から出ていった。


……ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……


また心電図の音が、耳に届いてくる。


異様な静けさの中、俺は働かない頭で、真っ白な天井をぼんやりと見ていた。



コンコン



その時、病室の扉がノックされた。俺が「どうぞ」と言って答えると、その扉はゆっくりと開かれた。


入ってきたのは、あの長谷川だった。そしてその隣には、母親らしき女性が立っていた。


「こんにちは、長谷川と申します。この度は……娘のゆずが、本当にご迷惑を……」


長谷川のお母さんは、今にも泣き出しそうな声でそう告げた。


「………………」


嫌だな、正直……今はあんまり、長谷川に会いたくない。


俺が進んで行動したこととは言え、こうして腕がなくなるほどの大事故になったんだ。下手をすると、長谷川に酷い言葉を投げかけてしまいかねない。それくらい、今の俺は冷静じゃない。


だからどうか、今回はすぐ帰ってもらえないだろうか……。


「………………」


その時、俺は長谷川の顔を見て、思わず固まってしまった。


あいつの右頬が、真っ赤に腫れていた。ついさっきそこをぶたれたかのような、そんな赤さだった。


いつも俺をおちょくってくる時の雰囲気は、今はまったく伺えない。目は虚ろになっていて、ハイライトが消えていた。


「ゆず!あんた!あんたねえ!」


長谷川のお母さんは、彼女のことを思い切りひっぱたいた。パーンッ!という激しい音が、病室いっぱいに響き渡った。


「なんでこんな時も!お前は一言だって謝れないの!?もう!お前は!お前は本当に!!」


何回も何回も、長谷川は自分のお母さんから殴打されていた。それでも彼女は、一向に何も喋らなかった。


「あんたがどれだけ!迷惑かけたか分かってるの!?あんたがどれだけ!どれだけ……!!」


「………………」


長谷川はサンドバッグのように、本当にただぶたれるだけだった。


俺はもう、その様があまりにも辛かった。胸の奥が締め付けられて、どうしようもなかった。


「ま、待ってください!どうか、どうか、長谷川を殴らないでやってください……」


俺がそう言うと、ようやくお母さんは長谷川をぶつのを止めてくれた。


「………………」


長谷川はすっと、俺の方へ目を向けた。その顔には、怯えの色が見えていた。


「……長谷川、お前、怪我はなかったか?」


「………………」


「あの事故で、何も……なかったか?」


「………………」


長谷川は静かに、こくんと頷いた。


「そっか、よかった。よかったよ」


「………………」


「お前に怪我がなくて、本当によかった」


「……!」


その時の長谷川の顔は、きっと生涯忘れられないだろう。


彼女は、あまりにも苦しそうだった。


目をいっぱい見開き、眉間にしわを寄せて、唇を噛み締めていた。


言いたいことがなにも言葉にできず、ただただ大きな感情だけが、胸の中を台風のようにかき乱しているのだろう。


「………………」


そしてそのまま彼女は、俺へ背を向けて、病室から出ていってしまった。


「こら!ゆず!」


彼女の母親が、それに続いて病室からいなくなっていった。


これが、俺と彼女の人生を大きく変えた、大事故の遭った日から最初の日になった。




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