EP15 それがおもいで

 次に目を開けた時、窓の外は明るかった————いや、明るすぎた。

「おはよう、少————将暉くん。ぐっすり眠れたようで何よりだが……少し、お寝坊が過ぎるかな」

 時計を見ると、今はもう九時を過ぎているようだった————大寝坊では?

「そう、君はねぼすけさんだ。いい寝顔だったよ。さぞいい夢を見ていたんだろうね」

 夢……か。夢なんて見た記憶は無かったが、だが気付いていないだけで実は見ていたなんてこともあるらしい。僕は一体何の夢を見ていたのだろうか。あの燃え盛る家の再演だろうか。それとも————

「はいはい。考え事してないで、さっさと朝ご飯食べてね。今日の昼ご飯を十二時に食べたら出発する予定だから、それまでに荷物の最終チェックをしておくこと。OK?」

 僕はそれに「分かった」と布団から出た。そして布団を畳み、部屋を出ようとした。ふと、さっきまで自分が居た布団を思い出して振り返る。自分が一月の間使った布団とももうお別れとなると、別に布団と友情を育んだつもりはないのに、どこか悲しくなってきた。

 僕は、自分の心の何処かに別れを悲しむことの出来る機能が残っていることに気付かされた。僕は人間だったのだ。正しい人間の営みが出来るのだ。

 朝ご飯————と言っても半分昼ご飯であったが————それらを口に放り込み、咀嚼し、消化吸収するこの行為にも意味が見出せたのは、やはり僕が人間であることの確信が持てたからであった。

 朝食よし、荷造りよし。全ての準備が完了した頃には、既に午前十一時を過ぎていた。ダンボール箱を車に詰め、キッチンの横を通ると、丁度トマトジュースを飲もうとしていた透子さんに声を掛けられた。

「あれ? もう終わってしまったのかい? 昼ご飯までは後一時間くらいあるし、テレビでも見て時間を潰すか、それか本でも読むか————まぁ、私はまだやることがあるのでね。あ、このトマトジュース、出発前に飲み切ってね。冷蔵庫の電源は落としてから出るつもりだから」

 僕はそれに簡単な返事を返して、それから、この一時間をどうするかを考えた。

「あぁ、きつねさん」

 そうだ、きつねさんにお別れの挨拶をしなければいけない。

「透子さん、いってきます」

「え? いってきますって何処に?」

「僕の友人……いや、恩人の所です」

 透子さんは、初めは不思議そうな顔で僕のことを見ていたが、納得したのか、優しい笑顔と共に僕のことを送り出してくれた。

「いってらっしゃい、将暉くん。お昼までには帰ってきてね」

 僕は家を飛び出し、走り出した。目指すのは山頂の御社殿、僕がこの一月、毎日通った場所だった。タイムリミットまで一時間、僕の夏は、もうこれだけの時間しか残されていなかった。



 開け放たれた玄関の奥から透子さんは僕のことを見ていた。

「…………若いっていいものだね。私ももっと若かったらなぁ…………」

 そう言うと、透子さんは玄関に向かい、靴を履き、外に出た。

「さて、私もするべきことをするかな」

 透子さんは歩き出した。そして————



 石段を駆け上がる。この一か月、毎日のように上ったこの石段も、もう当分は見ることも上ることもないだろうと思うと、なんだか悲しくなってきた。

 石段を上り切り、御社殿に向かう途中、その先にきつねさんが居るのを見た。

「あ、将暉だ! おはよ————いや、もしかしてこんにちはかな?」

「きつねさん、おはよう」

 きつねさんはいつも通りの笑顔だった。僕はどうだろうか? これから先、何を話して、その結果どうなるのかを全て知っている僕はどんな顔をしているのだろうか?

「ん、将暉? どうかしたの?」

 きつねさんが心配そうに見つめる。————黙っているだけじゃ始まらない。そう思った僕は意を決して口を開いた。

「…………きつねさんに話さないといけないことがあるんだ…………」

 そう言うと、きつねさんはその笑みを止め、少し驚いた後、少し悲しそうに笑ってこう言った。

「私も……話さなきゃいけないこと……あるんだ……」



 少しばかり話の主導権を譲り合って、折れた僕から話すことになった。

「僕は……今日、帰ることになっているんだ……都会に……ここから離れた大きな町に行くんだ」

 僕はその言葉を、きつねさんの腹の辺りを見ながら言った。きつねさんの顔を見るのが恐ろしかった。それだけの為だった。————ああ、自分は自分。やっぱり成長していないな、と思って少し乾いた笑いが出る。

「いーよ」

 きつねさんが言った。「え?」っと呟いて前を見る。きつねさんは僕の方を見て笑っていた。

「……もしかして、何か言われると思った? まぁ、私は今年で四百九十五歳になる超超超人生の先輩だから、これくらいのことは何ともないよ。それに————」

 そう言ってきつねさんは目線を僕の方から逸らして、横の格子を見つめた。

「————もう会えなくなるわけじゃない。また会えるって、知ってるから」

 釣られて格子の方を向いた僕が目線をきつねさんの方に戻すと、きつねさんの顔に光が射していて、なんとも神々しかった。……そういえば、きつねさんは神様だったな…………

「じゃあ、私の番だね」

 少し重くなってしまった空気を払うようにきつねさんが言った。

「私も、将暉に隠していることがあるの」

 何かを言おうとする。しかし、黙り込んでしまった。そして少し、少しずつ言葉を出した。

「私は、私は……実は…………心が読めるの…………だから、将暉が思ったこと、考えたこと、言いたいこと、隠したいこと、全部、分かっちゃうの…………だから、ごめんなさい。私は、将暉の秘密に、許可も無く、土足で入り込んで、それを黙っていたの」

 そう言って、きつねさんは再び黙り込んでしまった。そして、俯いたまま肩を振るわせた。こういう時、僕はどうするべきなのだろうか————その答えを、僕は知っていた。きつねさんに教えてもらった。だから、その通りにするべきだと、そう思った。

「な、何をするの!?」

「きつねさんに教えてもらったので————尻尾は無いけど、それでもそうするべきだと思ったから」

 きつねさんを包み込んで、頭を撫でる。力を持たないきつねさんの耳は、撫でたらそのまま潰れてしまいそうなほどに弱々しかった。その脆さを、ひとかけらも溢さないように抱きしめる。すると、きつねさんは外見の年相応のような反応を見せた。きつねさんは泣いていたのだ。それは僕には分からない心の作用であったが、ただ、なんとなく愛おしいもののように思えた。人間なら、正しい人間ならこうあれたのかもしれないのだが、僕は————と思うと少し悲しくなった。あぁ、そういえば、この心情さえも知られてしまうのかな。そう思った。なら、僕も温度を、痛みを分かち合うことの出来るほどの温度を感じておこうと、そう思ってきつねさんをさらに強く抱きしめた。



 それから、僕達はこの夏休みの思い出を話し合ったり、きつねさんについて質問攻めしたりした。ふと時計を見ると、長針はまもなく頂点を指そうとしていた。魔法のような時間は、もう終わってしまうようだった。

 僕が時計を眺めるのを見て、きつねさんは察したらしく、「もう時間かな」と呟いた。僕は立ち上がり、きつねさんに向かって「じゃあ、僕はこれで」と言った。しかし、心の奥底に沈んだものが、僕に次の言葉を出させた。

「ねぇ、きつねさん。僕達、また会えるかな」

 するときつねさんは僕の方を見て、満面の笑みでこう返した。

「もちろんいつでも! 会いたいと、そう願った時に!」

 それを聞いた僕は、なんだか満足した気持ちになった。そしてきつねさんに「ありがとう。ばいばい」と言って手を振って、そのまま御社殿を出た。


 帰る間、得体の知れない運動が、自分の腹部で湧き上がってくるのを感じた。石段を一歩一歩降りるごとに、その熱は段々と強まっていった。夏の思い出が甦る。僕はこの夏、たくさんのものを貰った。おばあちゃんや透子さん、そしてきつねさんから、僕の手に収まりきらないほどの思い出を貰った。

 じゃあ僕はどうだろうか。僕はみんなに、きつねさんに思い出という名のガラスの靴を残せただろうか。もし、そうだったらいいな。なんて思った。






 家に帰ると既に昼ご飯は出来上がっていた。

「遅かったね、将暉くん。昼ご飯はもう出来てしまったよ。ささ、早く食べてね。あぁ、でも、手洗いうがいは忘れずにね」

 リビングから届いた透子さんの声に従い、僕は洗面所で手洗いうがいをした。そして、腹部の熱を鎮火しようと、顔を水でバシャバシャ洗った。

 ダイニングに戻ると、そこには既に透子さんがいて、僕が来るのを待っていたようだった。

「じゃあ食べようか」

 昼ご飯は焼きそばだった。焼きそばを食べるのは人生で二回目だった。前回食べたのは祖母の作り置きであった。

 焼きそばは少し冷めていた。前食べた時に感じたソースの味はあまりしなかったし、ただしょっぱいだけだった。その上、辛すぎるのか、汗が止まらない。そんな風にして焼きそばを食べる僕を、透子さんは不思議そうに覗き込んで、そして少し笑うのだった。

「どうしたの? そんなに美味しかった?」

 そんなことは…………と言おうと思ったが、その声は喉に詰まって出てこなかった。そして、透子さんは、僕の為を思ってか、はたまた悪戯のためか、手鏡を僕の方に向けた。

「ぇ」

 声の形を成していない音を喉から出す。————僕は泣いていた。

「大丈夫だよ。ゆっくり噛み締めて、その気持ちを大切にして。大丈夫、大丈夫だよ」

 正面に居たはずの透子さんは、いつの間にか僕の横に居て、そして僕のことを抱きしめた。僕はそれに縋った。



 少し経って、僕の心は落ち着きを取り戻し、残った焼きそばを食べ尽くした後、ちょっと目を擦ってみた。痛かった。

「将暉くん、目元が赤くなっているよ。乾燥には気をつけてね」

 そう言って透子さんは僕に化粧水を貸してくれた。僕はそれを目元に塗った。少しヒリヒリした。

「さぁさぁ、荷物を積んで。もう少しで出発だよ」

「うん、分かった」

 僕は自分の部屋に戻り、段ボール箱を持ち、車に積み込んだ。



「準備万端? やり残したことはない?」

「うん、大丈夫」

「そっか、じゃあ行こう」

 ぎゅうぎゅう詰めになった車に乗り込み、車に元からあった細長いネコのぬいぐるみを膝に置き、そして、透子さんの出発の合図と共に出発した。

 ゆっくりと出発した車は家を出て、そして向日葵畑の隣を走った。車の窓を開け、顔を出して後ろを見る。何処までも続く向日葵畑は、むせかえるような夏で満ちていて、遠景を囲む山々は、僕達の夏をずっと見守っていたようだった。

 席に座りなおし、窓を閉める。透子さんは運転しながら僕に質問した。

「どうだった? この夏は」

 僕は目を閉じ、この夏の出来事を思い出した。そして目を開き、僕はこう言った。

「————良かったよ。言葉で言い表せないくらいに、ね」

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精霊狐に向日葵を 氷雨ハレ @hisamehare

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