第3話 知らない、天井だ
「知らない天井だ」
僕は真っ白な空間の、どこを底として、どこを天井とすればよいのか、定かではない空間の、只中にいた。
それでも、僕は天井と言いたかった。どこかに、原体験のような記憶があるような気がして。この真っ白な空間のなかに。
「僕は今まで何をしていたのだろう」
何をしていた。それは何を意味する言葉?
目的を含み、その行動に意味がなければならない。そのような【何】を対象にしている言葉?
それとも、ただそこに存在していれば、何かをしていたことになるような、意味なんて碌に求められないような、そのような【何】を対象にしているのか?
「何も思い出せない。何もかも。僕という存在が誰で、ここはどこで、これから僕はどうなって、どこへ行くのか。何も分からない」
あまりにも僕以外の存在が希薄で、いや、ゼロで、目的や意味というものの存在がどこにもない空間。
そして不思議と、心穏やかになる空間。何事にも縛られない、ただ存在することだけでいい空間。そう思える空間。
僕はそのなかに漂っている。本来的には、漂っている。
そしてそれは、みんなが漂っているはずの、空間。
目には見えないが。僕の目で、それは見えないが。
確かに知らない天井は存在するし、それぞれの目でしか、存在を確認できない。
目に見えないこと。それは自分の目にしか見えない領域のこと。それを大切にすること。
ここは僕の原体験。ここから始まって、ここへ戻っていく場所。僕の居場所。
「でも、それでいいや。わからなくても」
そんな気がする。ただ、そんな気がするだけ。
「やっぱりここは、いつまで経っても、知らない天井だな」
僕がそう思った瞬間、意識が再び、飛んだ。
そしてそれは、新しい世界への跳躍だった。
連続性のある生における、意識の跳躍だった。
★★★★★★★★★★★★★★
(ここからは第二の僕、すなわち、この意識の跳躍を経たことを知っている『僕』が存在する。これはこの虚構の便利な特性の一つであり、虚構を構築するための一つの手段である。)
……
……
……
「こうやって、しみじみと一人で大自然のなか、釣りたてのウナギでかば焼きを作る……。なんて贅沢な趣味なんだろう」
僕は眺めのいい、家の近くにある原っぱで、家族がキャンプ用に購入していた七輪を使って、ウナギをかば焼きにしていた。
炭火のコツコツと静かに弾ける音が周囲に響き、上を見上げると空には満点の星が輝いている。
「でも、妙にこのウナギ、つんと鼻を刺す臭いがするというか……。なんだろう、こんなもんなのか、天然で釣れたウナギって?」
僕はもう一度、ウナギに鼻を近づけて、その刺激臭を確認する。しかし、釣りたてであるから、腐っている可能性は低いはずである。では、この匂いはいったい……?
僕にはその原因が思い当たらない。
……
……
それもそのはずだ。
僕は、僕には……
「あのときの記憶がない?」
唐突に幼馴染の声が後ろにふりかかった。聞き覚えのある、それでいて、どこか含みのある声。
「真理愛、どうしてここが? というか、今までに何してたの?」
「それはわからない設定なの。ごめんなさいね」
真理愛はときどき、そうやって意味不明なことを言う。それは、今までの付き合いのなかで、何度も感じてきていることだ。今回が初めてじゃない。それは事実だ。
「まぁ、いいや。真理愛、食べる? 手作りのうな丼」
「ううん、いいわ。私って魚はあんまり好きじゃないのよ。本当よ。ごめんなさいね」
どこか遠まわしに振られたような感覚になりながら、僕はその言葉を聞き流した。世の中、深くその意味を追い求めないほうが、幸せになれることだってあるのだ。今回がそれだ。そんな気がする。
「綺麗ね。星」
真理愛が横でそんなことを言った。
「世の中の全てのものが、綺麗だったらいいのに」
「みんな違ってみんないいっていうじゃん」
「そういうことじゃないのよ。中身のない教育の話をしているんじゃないのよ」
真理愛はたまに、こうやって、心ここにあらずの目で、遠くのほうを見つめることがある。星を通り越して、宇宙の闇を通り越して、さらにその果て。果ての果ての果ての果ての……
そこには何がある?
誰がいる?
「ねぇ、あなた?」
真理愛はそうやって、僕以外の『誰か』に向けて、挑発的な声を発した。
僕にはそれが誰なのかわからない。
おそらくは、一生分からない気がする。聞いちゃ駄目なもののようにも感じる。
だから、僕は……
「そうだね」
その一言で、会話を済ませた。彼女と誰かの、会話を……
……
……
……
人生は続いていく。
連続だと思っている流れのなかで。
虚構と事実の区別が曖昧な世のなかで。
すぐ隣にいる大切な人の傍で。
認識と認識の重なり合う、共有している世界のなかで。
それがどのように一致しているのか、わからないままで。
そもそも一致などしていないのかもしれない状態で。
僕たちは続いていく。
ただひたすらに。
死ぬまで。
僕たちが途絶えるまで。
その果ての果ての果ての果ての……
果てに何があるのか知っている彼女の、懐のなかで。
僕は今日もぬくぬくと、何も知らないまま生きている。
物語のなかで。
【完】
幼馴染の彼女が転校生に寝取られていた。ウナギを釣り上げた、そのあとに。僕はあまりにも惨めだった。 ネムノキ @nemunoki7
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