手首

翡翠

 


「これ、何?」


玄関で忙しく靴を脱ぎながら、息子の手に握られた物体に目を奪われた。人間の手首。いや、正確にはマネキンの手首だろう。


肌に近い光沢感のあるアイボリー、凹凸おうとつがある爪。関節の形も、人間を思わせる様なリアルで、精巧せいこう巧妙こうみょうな造りだ。



「これ?勇太と拾ったんだよ」


「こんな物どこで?」


「あの██商店街の奥にある、昔の服屋さんだった所」



商店街の奥――あの廃墟はいきょか。


火災が起きた後、取毀とりこわしされる事なく十年以上も放置されているブティック。


赤茶にびついたシャッター、蜘蛛くもの巣のように亀裂が入った窓ガラス、つるが絡みついた外壁がいへき


地元の子どもたちが肝試しに忍び込む場所だ。あれだけ怪我したら危ないとくちうるさく言ったのに。



「それで、中に入ったの?」


「うん」



あきれて言葉も出なかった。善悪の区別もつかないのかと文句を乗せた大きい溜め息が出る。



「で、その手首どうしたの」


「奥にマネキンが一体だけそのまま残ってたんだ。すごくきれいなやつ。他のは全部バラバラだった。それで勇太がちょっと触ったら手首が取れちゃってさ。それで…僕が拾った」


「何で拾ってきたの」


「うーん…捨てちゃいけない気がしたから」



捨てちゃいけない?この場において何を言っているのか、全く理解出来なかった。



「捨てなさい。そんな気持ち悪いの」


「だめだよ。捨てたら怒られるよ」


「そんなのただのゴミだから。今すぐ外に」


「違う!」



息子が癇癪かんしゃくを起こして絶叫する。そんな事する子じゃないのに。私は一瞬マネキンごときでとがめ過ぎたかと反省した。



「これは…返さないといけないんだよ」


「返す?返すって誰に?」



◇◇◇



次の日、落ち着かない様子の息子を無理やり学校に送り出したあと、例の手首をゴミ袋に押し込み、収集所に出した。


これで終わり。ただの気味が悪い話で、私を揶揄からかってるだけだと、平静へいせいを保つ様に胸を叩く。


その晩、学校から帰ってきた息子は夕飯にほとんどど手をつけない上に顔色も悪かった。



「どうしたの?具合悪い?」


「手が痛い…手首が」



右手首を押さえ薄ら涙を浮かべていた。見た感じ腫れているようには見えなかったが、触れると熱がこもっている。



「どっかでぶつけたの?」



息子は首を横に振るだけで何も言わない。恐らく風邪から起きた関節痛だろうと思い、布団を敷いて早めに寝かせた。


それから状態はどんどん悪くなる一方だった。熱も無いのに体がだるいと言い、学校を休むようになる。右手首には朱殷しゅあん色のあざが浮かび、日に日に腫れが酷くなった。指も固まって動かないらしい。



「病院に行こう」



私は引きるように無理やり連れていった。医者はただただ首をかしげるばかりでレントゲンも、血液検査も全て異常なし。ただの打撲だろうと湿布と痛み止めを渡され、すぐに帰された。


その夜だった。私の部屋に飛び込んできた息子は号泣しながら声を震わせる。



「手が…おかしい…手が!」



右手は指先まで変色し、二倍程まで腫れ上がっていた。血管が太く浮き出て、中で脈打つ。必死で私はその手を握ったが、その途端、突然叫んだのだ。



「やだ!触らないで!取られる!取られる!取られる!」



取られる?何を?息子は怯えた目で私を見ている。



「…ちゃんと謝らないとだめだ」




翌日、私は二人で廃ブティックに向かった。ここに行くべきだと言ったからだ。


焼け落ちた壁に崩れた天井。中に入ると、空気がひんやり冷たい。暗い通路を進むたびに、息子の手が小さく震えている。



「ここの奥の部屋」



部屋に入ると、それがあった。あでやかなきれいなマネキン。それだけがツヤで異様に浮き上がって見える。他は跡形も無く壊れているのに、これだけは新品のようだ。



「ごめんなさい。もうこんな事しません。許してください」



とてもか細い声だった。許しをう息子の右手がマネキンの腕に触れた瞬間とき、強風が吹きつける感覚が体をおおい、マネキンに亀裂が入る。


私達はその場から逃げ出すように廃墟を後にした。



翌日、腫れは嘘のように消え、綺麗なツヤのある手に戻った。その日から二度と廃墟の話をしない。勿論、マネキンの話も。


そして、時々息子が右手をじっと見つめ、何度も触る事がある。


その理由を、私は聞くことができない。

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手首 翡翠 @hisui_may5

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