第20話:闇に咲く刃
廃工場での戦いから数日が経過しても、凛の心は闇の中に沈んだままだった。本部の静寂が彼を押しつぶすようで、どこにいても香澄の声が聞こえてくる気がした。
夜の訓練室は広く寒々としていた。剣を握った凛は、鏡の中に映る自分の姿をじっと見つめていた。そこに映っているのは、守り人としての使命に打ちひしがれた青年だった。
「……俺は、本当に夜叉としてふさわしいのか?」
凛の声が低く響く。手にした剣は、かつて迷いなく振るうことができたはずのものだ。だが今は、その重さにさえ耐えきれないように思えた。
ふと鏡の中に、香澄の姿が現れたような気がした。彼女の顔には、助けを求める表情が浮かんでいる。
「助けて……凛……」
その声が耳元にささやくように響き、凛の心を凍らせた。彼女の瞳が訴えかけてくる。どうして助けてくれなかったのか、どうして刃を振るったのかと。
「もし俺がもっと強ければ……」
凛は剣を握る手に力を込めたが、その震えは止まらなかった。剣を振り上げた瞬間、香澄の顔が影獣のそれに変わる。その表情は憎悪と苦痛に満ちていた。
「お前が俺に求めたものは、本当に死だったのか……?」
香澄の最後の涙が刃に落ちる光景が何度も脳裏に浮かぶ。その度に、凛の胸が締め付けられるように痛んだ。
苛立ちが爆発した。
「くそっ!」
凛は剣を鏡に向かって叩きつけた。だが、鏡は割れることなく、静かに彼を映し続ける。鏡の中の彼は、自分が避けようとした全ての弱さをそのまま返してきていた。
床に座り込む凛の荒い息が静寂に響く。額からは汗が滴り落ち、剣を握る指先は真っ白になっていた。守り人としての使命が、これほどまでに彼を苦しめるとは思わなかった。
「俺が香澄を救えなかったのは……俺が弱いからだ」
その時、訓練室の隅に影が揺れた。黒い霧のようなものがゆっくりと蠢き、カゲモンが姿を現した。小さな影の体は、無言のまま凛を見つめている。
「おい、そんな顔するなよ」
軽妙な声が訓練室に響く。だがその言葉とは裏腹に、カゲモンの目はどこか憂いを帯びていた。
「影の守り人ってのは、もっと堂々としてなきゃな」
「カゲモン……」
凛は力なく呟いた。
「俺は夜叉なんかじゃない。力があるだけで、何も守れない……ただの弱い奴だ」
その言葉に、カゲモンの目が細まる。彼は宙に浮かび、凛の目の前に滑り込んだ。
「弱い奴だって? お前さん、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
「……」
凛は黙ったまま俯いた。
「影に打ち勝つ者は、己の影に怯えることなく進む者だ」
カゲモンの言葉は鋭い刃のように凛の胸に突き刺さった。だが、その意味を完全に理解できるほど、凛の心は強くなかった。
「まぁ、お前さんの気持ちも分からなくはないけどな」
カゲモンはふっと軽い調子を装って続けた。
「けどな、凛。守るべきものがあるなら、必要なのは覚悟だぜ。覚悟がなけりゃ、この世界じゃ何一つ守れやしない」
その言葉に、凛の肩が微かに震えた。
「……覚悟だと?」
凛は俯いたまま、掠れた声で答えた。
「そんな簡単に言うなよ! 覚悟があるなら、香澄を救えたってのか!?」
声を荒げる凛に、カゲモンは動じることなく、静かに彼を見つめ続けた。
「簡単じゃないからこそ価値があるんだよ」
その言葉に、凛は拳を握り締めた。彼の胸の中には、苛立ちと自己嫌悪が入り混じっている。
「お前さん、覚えておけ。覚悟がなければ、守るべきものも失う。影獣は容赦しない。それが現実だ」
カゲモンの冷静な声が、凛の迷いをさらに深める。香澄の記憶が、再び心の中で声を上げるようだった。
カゲモンが去った後、凛は再び鏡を見つめた。そこには、香澄を斬った自分の姿が重なっていた。
「俺に……本当に戦う資格なんてあるのか……」
その問いに答えられる者は誰もいなかった。凛は剣を静かに握り直し、暗い訓練室を後にした。影の守り人としての道を進むことに、今も迷い続けている自分を抱えながら。
廊下の先から、乾いた音が響いた。それは何かが激しく打ちつけられる音だった。凛は足を止め、訓練場の扉を押し開けた。そこには、光里の姿があった。
彼女は片手で杖を握り、模擬影獣を相手に汗だくになりながらも繰り返し攻撃を繰り出していた。息を切らし、足元がふらついているのが遠目にも分かる。それでも光里は動きを止めない。まるで何かに追い立てられているかのように。
「光里!」
凛の鋭い声が訓練場に響き渡った。
光里は杖を振るう手を止め、振り返った。その顔には疲労と焦り、そして少しの驚きが混じっている。
「何してるんだ!」
凛はすぐに駆け寄り、彼女の杖を掴んで止めた。光里は一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに口を結び、凛の手を振り払おうとした。
「訓練よ……ただの訓練です!」
彼女の声には苛立ちが滲んでいた。
「お前、負傷してるんだぞ!」
凛は声を荒げた。「こんな無茶をするなんて、何考えてるんだ!」
「凛さんには関係ありません!」
光里が凛を睨みつける。その目には涙が浮かび、今にも溢れそうになっていた。彼女は杖を握り直し、足を踏み出そうとする。
「俺には関係ない? お前が傷つくのを見てるのが平気だとでも思ってるのか!」
凛は彼女の前に立ちはだかる。その強い声に光里は動きを止めたが、視線はそらしたままだ。
「……凛さんが全部背負おうとするから、私は無力に感じるんです」
その言葉は小さかったが、凛には深く刺さった。彼女の肩が震え、杖を握る手が微かに揺れている。
「私は守られるだけの存在じゃない。守り人として、私だって戦える力をつけたいんです!」
光里の声は震えながらも必死だった。その目には涙が浮かび、しかし消えることのない決意が宿っている。
「……でも、それは――」
凛が口を開こうとするが、光里が遮る。
「でも、じゃない!」
彼女は杖を振り上げ、凛を押しのけるように一歩前に進む。
「凛さんは何も分かってない。私がどれだけ、無力だって思い知らされるか……。私がただ隠れているだけで、影獣が迫ってくる街を見ているだけで、どれだけ自分を責めたか分かりますか!?」
その叫びに凛は言葉を失った。彼女の涙が頬を伝い、床にぽつりと落ちる。
「私だって怖い。でも、何もしないで守られるだけの存在でいる方がもっと怖いんです!」
彼女の声には強い意志が込められていた。凛はしばらく彼女の顔を見つめていたが、やがて息をつき、目を伏せた。
「……お前が戦うたびに、俺は恐怖を感じるんだ」
凛の声はかすかに震えていた。目を伏せたまま続ける。
「香澄を失ったように、お前まで失うかもしれない……それが怖いんだ」
彼の言葉に光里は驚いたように目を見開いた。だがすぐに表情を引き締め、まっすぐに彼を見つめた。
「でも、私は信じています。凛さんが私を守ってくれるって」
彼女は拳を握りしめ、真っ直ぐな声で言った。
「凛さんは……私を信じてくれないんですか?」
凛は答えられなかった。彼の胸には光里の言葉が重く響き、深く沈んでいくようだった。
訓練場に静寂が訪れる。凛はしばらく動けなかったが、やがて震える手を握りしめ、彼女の顔を見た。
「……俺にはまだ、分からない」
その答えに光里は目を伏せたが、すぐに顔を上げ、凛を真っ直ぐ見つめた。
「それでも、私は凛さんを信じます」
その短い言葉が、彼の心をさらに揺さぶった。彼女の決意は揺るがない。それを理解したとき、凛の中で何かが微かに変わり始めた。
光里が杖を握り直し、ゆっくりと訓練場を出ていく。その背中を見つめながら、凛は一人立ち尽くしていた。
「俺が……信じる、か……」
その呟きは、自分に問いかけるような響きを持っていた。
夜は静寂を深め、本部の廊下には冷たい空気が漂っていた。凛は作戦室の一角に一人座り、机に広げられた地図を見つめていた。影獣たちの最近の動き――そのパターンや出現地点を追うために記された無数のマークが、彼の視界を埋め尽くしている。頭では冷静に分析を進めようとしているが、心はどこかざわついていた。
「……力が戻らないままで、どうすればいい……?」
凛の呟きが静寂を切り裂いた。その声には苛立ちと焦燥が混じっていた。
その時、背後からかすかな足音が近づく。そして、柔らかな声が部屋に響く。
「こんな時間に何をしてるの?」
凛は顔を上げると、玲音が扉の向こうに立っていた。彼女の手には数冊の分厚い資料が抱えられている。その姿は冷静で整然としていたが、どこか彼を気遣う温かさも感じられた。
「影獣たちの動きが気になってるだけだ」
凛は視線を外し、簡潔に答えた。だが、玲音はそれ以上を察したようだった。彼女は部屋に入り、凛の隣に座ると、持っていた資料を机に広げた。
「それだけじゃないわね」
玲音の言葉は柔らかいが、核心を突くものだった。凛は少し目を伏せ、短く息を吐いた。
「俺が迷ってるように見えるか?」
「ええ、迷っているように見える」玲音ははっきりと答えた。
凛は一瞬だけ視線を彼女に向けたが、すぐにまた地図に目を戻した。その動きに苛立ちが見える。玲音はそんな彼をじっと見つめ、さらに話を続けた。
「夜叉の力に頼りすぎ――凛?」
玲音の言葉に、凛は僅かに眉を寄せた。問いかけの意味を探るように彼女を見つめる。
「……どういう意味だ?」
「力だけでは勝てない戦いもある、ということよ」
玲音は机の端に置いた資料を手に取り、一枚の古びた地図を広げた。それは影獣たちが出現している地域を記したもので、彼女が自ら書き加えた詳細な情報がびっしりと書き込まれている。
「影獣たちがただの野生の生き物ではないことは、あなたも知っているでしょう。最近の動きを見ればわかる――明らかに目的を持っている。彼らを操る存在がいる以上、私たちはもっと戦略を考えなければならない」
凛は思わず地図に目を落とし、その情報を追った。玲音が指差した場所には、影獣たちが集中している地点がいくつも示されていた。それらはまるで何かを守るような、奇妙なパターンを描いている。
「彼らが何かを守っている……?」
凛の声は疑問に満ちていた。玲音は小さく頷き、さらに言葉を続けた。
「彼らの行動には一貫性がある。無秩序に見えて、実際はある一定の目的に沿って動いているのよ。そしてその中心には……」
玲音は別の資料を手に取り、一枚のスケッチを見せた。それは古びた石碑のようなものを描いたもので、影獣たちがその周囲に集まっている様子が記されていた。
「これが影獣たちを引き寄せている原因かもしれない。何かを呼び寄せる装置か、あるいは儀式の中心か……詳細はまだ分からないけれど」
凛は資料を見つめながら眉を寄せた。その石碑に描かれた模様は、彼が過去の戦いで見た「奈落の意思」の紋様と酷似していた。
「奈落の門」の可能性――。
「それに……」玲音は一枚の古びた記録を見せながら言葉を続けた。
「『白い魔人』と『黒結女』の目的について記された断片的な情報よ。彼らの狙いは、影獣を使って『奈落の門』を完全に開放することだと書かれている」
その言葉に、凛は息を呑んだ。
「奈落の門……」
凛の口から漏れた言葉に、玲音は真剣な表情を崩さず頷いた。
「『白い魔人』がただの伝説だと軽視していると、いずれ手遅れになるわ。彼らの行動を見れば分かる――彼らは着実に準備を進めている」
「けど、俺たちにそんな大きな力を止められるのか?」
凛は思わずそう言葉を漏らした。その声には、迷いと不安が滲んでいる。玲音は一瞬だけ視線を落とし、そして凛の目をじっと見つめた。
「力が不完全でも、戦わなければならない。そうじゃないと、誰も守れないわ」
玲音の言葉は鋭く、しかしどこか優しさが込められていた。彼女の冷静な態度が凛の心を少しだけ揺さぶった。
凛は地図から目を離し、静かに立ち上がった。そして窓越しに夜空を見つめる。
「俺が迷っている時間がない……分かってる。でも、どうしても考えてしまうんだ。夜叉の力が戻らないこの状況で、本当に俺に何かができるのか……」
その呟きは、玲音に対してというよりも、自分自身に向けたものだった。
「夜叉の力だけじゃないわ」
玲音は静かに立ち上がり、凛の肩に手を置いた。その手には温かさと同時に、凛を突き動かす強さがあった。
「私たちは一人で戦っているんじゃない。あなたが迷っている時でも、私たちはここにいる。だから、自分一人の力に頼りすぎないで」
その言葉に、凛はしばらく沈黙していたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。ありがとう、玲音」
玲音は微かに笑みを浮かべると、再び机に戻り資料を整理し始めた。その背中を見つめながら、凛は再び夜空を見上げた。
「奈落の門……白い魔人……」
その呟きは、彼の中でくすぶり続ける決意の火種となった。
次の更新予定
2024年12月21日 08:00
黒羽の夜叉—闇を断つ翼 雨井 雪ノ介 @amei_yukinosuke
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。黒羽の夜叉—闇を断つ翼の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます