通勤前のパン屋さん

雛形 絢尊

第1話

「カフェモカですよね」

彼女は私に向かって笑みをこぼした。

私は通勤前、

足繁く通っている駅前のパン屋がある。

そこにいるいつもの女性店員は

私の顔を覚えていてくれているようだ。

とてもそれだけで嬉しいことなのだが、

これまたパンの味が絶品で、

至福の朝を過ごしている。

「いつもありがとうございます」

と私は商品を受け取り、また朝になった。


今日も同じようにパンを一つ選ぶ、

しょっぱいものも食べたいが、

今日は甘いもの。

とはいえ、昨日が甘いものだった。

ふと顔を上げると向こう側に

いつもの彼女がいた。

彼女は私の視線に気づいたようで、

会釈をする。

私も流れるように会釈をする。

私は悩んだ末にしょっぱいパンを選んだ。

「今日はしょっぱい方なんですね」

私は無造作に照れてしまう。

彼女は無言で「カフェモカ?」

と私に聞いてくれたようで私は頷いた。

暖かいカフェモカを左手に私は街に出た。

これだけで有意義な気持ちで

会社に出向くことができるのだ。


そうしてまた一つ、

パンを選んではカフェモカ、

彼女は頻繁に顔を合わせてくれる。

恋とかではない、

そんな関係は私の日常を

彩っているのは確かだ。

「今日はカレーパンですか」

彼女の声に頬が落ちる。

いわば照れ隠しの作法である。

そんな風に来る日も来る日も通っていた。

「今日はフランスパンですね」

「コーヒーメーカー壊れちゃって」

「サービスの、アイスコーヒーです」

こうして日常の節々にこの店と、

彼女の笑顔があると、

私の肩も落として毎日を過ごせるのだ。

こうしてまたカフェモカを啜る。

次の日もその次の日もずっと。


一年ばかし、そんな生活を続けていたところ、

彼女の姿が1週間見られなくなった。

私は少し萎んだ気持ちになってしまった。

寂しいわけではないが、いや寂しい。

少し胸に空間が開いてしまったような、

そんな気持ちに駆られた。

それから1週間、彼女はいない。

寂しい気持ちを隠しながら、

またカフェモカを啜る。


「いつもありがとうございます」

彼はこのパン屋の店長であろうか、

彼はとても若い。

背の高い男性がこちらへ来る。

私は軽く会釈をした。

「彼女ですけどね、2週間前に退職しました」

私はその気持ちを隠しながら、

そうなんですかと言う。

「就職先が決まったって言ってました。

私も寂しい限りです。

いつも通われてるスーツ姿の男性に

伝言があると言われて、」

ほう、と私は答える。

「誠に言いづらいのですが」

私は彼の顔を見た。

「さっさとくたばれクソジジイ」

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通勤前のパン屋さん 雛形 絢尊 @kensonhina

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