第2話

 俺は小心者だ。常に周りの目が気になって仕方がない。一度も話したことがない、多分二度と会わないすれ違った人ですら、少しでも目線が合おうものなら冷や汗が出てしまう。自意識過剰なくらい他人を気にしてしまうのだ。


 この性格は大なり小なり俺の生活にあまり良くない影響を及ぼしている。例えば、外回りの後のお昼ご飯。本当はおしゃれで手の込んだ彩豊かなカフェ飯が食べたいけれど、そういうお店は若い女性でにぎわっているから会社近くの定食屋に行くしかない。誰も気にしていないとはわかっているのになぜか誰かに見られている気がして入口で足がすくんでしまうのだ。


 そんな俺が見つけた、くたびれたサラリーマンでもなぜか入りやすい雰囲気のカフェは、数か月前にテレビの特集で紹介されて以来、俺の苦手とする今時おしゃれカフェのようになってしまった。否、店自体は何も変わっていない。けれど、店を取り巻く環境が変わってしまって、僕が勝手に行けなくなってしまっているだけだった。


 そろそろほとぼりが冷めているかなと遠くから店を眺めては満席御礼の店内に肩を落とすこと早一ヶ月。偶々外回りがサクサクと済んで一足早いお昼を食べようと店をのぞき込んだとき、久しぶりに誰もいない店内が目に入り、吸い込まれるようにドアノブに手をかけていた。カランカランと懐かしいベルの音が頭上で鳴る。

 明るい店内の向こう側には店主のかよ子さんがいて、彼女は俺を見るやいつもの花のような笑みを浮かべた。こういう時に彼女の笑顔を表す花の名前まで出てこないのが何となく歯がゆい。


「いらっしゃいませ。山岡さんお久しぶりです」

「はは…いつも満席で、なかなか来れなくて」

「おかげさまで。今は開店したばかりなのでこんな感じですけれど、今日も混みそうで」


 手元の腕時計を見ると、針は十一時少し過ぎを指していた。いつもは十二時頃に来ていたから初めてこの店の開店時間を知った。


「今日もお仕事お疲れ様です。今お冷をお持ちしますので、お好きな席におかけくださいね」


 そう言ってかよ子さんはカウンターの奥へと消えていった。店主である彼女と話すのも久しぶりで、不思議と実家に帰ってきたような安心感を覚える。

 いつも人がいなければ座っているテーブル席に腰かけると、かよ子さんがお冷とメニューを持ってやってきた。


「こちらお冷とメニューです。今日の日替わりランチはハンバーグになっています」

「じゃあそれで。あと食後にプリンをお願いします」

「かしこまりました。あ、そうだ。山岡さんまだ百くんに会ったことありませんよね」


 ももくん。初めて聞く名前に、首肯するより前に、首を傾げる。ももくん、確かに知らない人だ。


「ない、ですね、多分」

「二週間くらい前かな、アルバイトの募集を始めて」

「ああ、遂に」

「それで来てくれた子なんです。今日もこの後出勤なので、良かったら話しかけてみてください。山岡さんと気が合いそうな子で」

「僕と?」


 自分のことを指さしながら首をかしげると、彼女は「山岡さんと」と同じように僕を指さした。


「二人、結構いいコンビになりそうなんですよ」

「…年が近いとか、そういう理由で?」

「いえ、百くんは大学生です」

「じゃあ趣味が合うとか」

「…山岡さんの趣味って何ですか」

「なんだろう…読書?」

「百くんホラー小説しか読まないらしいですけど、合いそうですか?」

「ホラーだけは絶対に読まないんだよな…」


 全然趣味が合わない、というか何一つかすらない。

 それが顔に出ていたのか、かよ子さんはそういうのじゃなくて、と笑った。


「雰囲気というか。まあこのお店に来る人って大体雰囲気似ているのでみんないつの間にか仲良くなっているんですよね」


 なんともざっくりとした回答だった。


 彼女の回りくどい言い回しが腑に落ちなかったが、かよ子さんは「それでは少々お待ちください」と言って再び奥のキッチンに引っ込んでしまった。


 冷蔵庫を開ける音、コンロの火をつける音、肉が焼ける音、オーブンが稼働するときの低い音。誰も話していないけれど静かににぎやかなそれらをBGMにグラスの水を一口飲む。お昼時から少し外れたお陰で店は貸し切り状態だった。一か月ぶりでも自分の家のようにホッとできることに安堵しつつ、カバンに入れてあったスマホを取り出す。少し見ない間にたまってしまった通知は無視して、開きっぱなしのアプリから電子書籍が読めるものをタップした。何回か適当にスクロールすると、一瞬だけ固まっていた画面はすぐに動き出す。『先ほどまで読んでいたページに戻りますか』と現れたボタンを押すと、本はひとりでにページをさかのぼっていった。しおり機能を使っていたはずなのに微妙にずれてしまったのを調節して続きの活字を目でなぞっていく。こうやって隙間時間に本を読むのも好きだけれど、たまには昔のように一日かけて物語を追いかけてみたい。そうは思えど潤沢な時間など存在しないのが社会人の辛いところだ。最近の休日は睡眠負債の解消や、平日に汚した部屋の片づけに時間を取られて自分のやりたいことが何もできていない。時間の使い方がへたくそなんだよなあと反省することはあれども改善する元気がそもそもないのだ。


 くたびれた大人になってしまったと思う。でも案外それも居心地が良くてやめられない。それに、くたびれてうだつの上がらない人間だからこそ、この喫茶店を見つけたんだ思うと、それも悪くないと感じてしまうのだ。

 たぶん自分が学生時代憧れたキラキラした人間だったら、かよ子さんには出会えなかった。

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かよ子さんの喫茶店【長編】 @sasakihanada

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