かよ子さんの喫茶店【長編】
@sasakihanada
第1話
駅前の大通りから道を一本ずれて、そのまま真っすぐ。緑と白のストライプ柄が可愛い日よけテントと、クリーム色の壁、そして階段を照らすランプがトレードマークのその店は、静かに佇んでいた。左右が空き店舗なのが少し寂しいけれど、店の雰囲気は良い。OPENと書かれた楕円の看板がつるされていたので錆びた金色のドアノブを回して、少しだけ力を入れて扉を開ける。昼間だけれどしっかりと電気が付けられた店内が眩しくて反射的に目を細めた。カランカランとドアベルがなってからワンテンポ遅れて、カウンターに座っていた店主が振り向く。
「あ、雪帰ちゃん。いらっしゃい」
「…お店あいてるんじゃないの?」
「開いてるよ?」
「じゃあそれなに?」
指さした先には画用紙とカラフルなペンがカウンターいっぱいに散乱している。仕込みは終わっているのかテーブルの向こう側から美味しそうな匂いが漂ってきたが明かりはついていなかったので、開店中には見えなかった。散らかったカウンターも相まって、準備が遅れているようなのは一目瞭然である。
店主、かよ子さんは手元にあった画用紙の一つをこちらに向かって見せてきた。
「アルバイト募集のお知らせ」
「最近忙しくなってきちゃって」
知る人ぞ知るカフェだったこの店は、先月お昼の情報バラエティ番組で取り上げられてから、ピーク時は満席になるほどの人気店に進化を遂げた。店主一人で切り盛りしているものだから、お店がパンク寸前になる日も少なくはない。休日のお昼は常連客が遠慮をしてやってこないほどになってしまったのをかよ子さんが憂いていたので、これは混雑対策の一環なのだろう。
「遂に新しい人入れるのね」
「ずっと一人でやっていけると思っていたんだけれど」
「取材受けなければよかったのに」
「あの人が好きなお笑い芸人が司会なんだもの。引き受けなきゃ怒られちゃう」
「愛しのダーリン?」
「愛しのダーリン」
愛妻家、ならぬ愛夫家なかよ子さんらしい答えだった。今の表情、かよ子さんに片思いしている山岡さんに見せてやりたい。意地悪なことを思いながら、もう一度ポスターを眺める。
「この右下の何?」
「え?」
「この、気が触れたバスキアみたいなやつ」
「シロクマ。ここが耳で、これが顔。で、胴体」
「…じゃあその隣のおにぎりみたいなのは?」
「ペンギン」
「確かにペンギンとおにぎりって色が似てるし、ペンギンをおにぎりにデフォルメする発想はいいんじゃない?これお店のマスコットキャラクターにしようよ」
「ありのままで勝負した皇帝ペンギンなんだけれど」
かよ子さんが描いたそれらは、子供が塀にチョークで落書きしたものの方がまだ現物をとどめている仕上がりだった。おにぎり、とは言ったものの実際はいがぐりに似ていて、シロクマの耳も刺さったら痛そうなくらいとんがっている。綺麗な弧を描いたパスタの盛り付けは得意なのに、画用紙に丸を書くのは苦手らしい。
ちゃんとネットで検索したんだよ、とペンギンの画像が映ったスマートフォンの画面を見せてくるかよ子さんに「そうだねえらいねえ」と笑いかけながら、私は空いているカウンター席に腰かけた。まっさらな画用紙を一枚手繰り寄せ、黒のマッキーを滑らせていく。
「はい、シロクマとペンギン」
「すごい。シロクマとペンギンだ」
適当に書いたそれをかよ子さんは宝物のようにキラキラした瞳でじいっと見つめていた。そしてそのまま、私にもまるでかけがえのない存在であるかのような自愛の視線を向けてくる。
「雪帰ちゃん、アルバイトしない?」
「え?私を雇うの?」
「今だけ。ポスター私の代わりに書いてもらっても良いかな?」
「報酬は」
「エビとレモンのクリームパスタ。スープとデザート付き」
「アップルパイが良いわ」
「生クリームもつけちゃう?」
「乗った。新しい画用紙取って頂戴」
「シロクマとペンギン、あとできればアザラシも描いてほしいな」
「食後はレモンティーね」
「もちろん」
麻のエプロンをつけながら厨房へと消えていくかよ子さんの後姿を見守ったあと、新しい画用紙の一番上に『アルバイト募集』の文字を大きく書いた。次に応募条件を、と考えたところで求人の詳細について何も聞いていないことに気が付いた時、彼女はカウンターの奥でコンロにフライパンをセットし、つまみを回していた。上機嫌な様子でバターを滑らせている横顔が私の視線に気が付いたのか、ゆるりと口を開く。
「雪帰ちゃんの絵があればアルバイトすぐ来ちゃうね」
「大事なのはイラストじゃなくて条件よ。時給はいくら?」
「二千円くらい?」
「かよ子さん、相場ってものをご存じ?」
スマホで調べたこの地域一帯の平均賃金を教えると、かよ子さんは少し悩んで、それよりも僅かに上の金額を提示した。
「シフトは週何回くらい?土日は入ってほしい?」
「三回くらいは…土日もいてくれたら、うれしい、かな」
「何時から何時まで?」
「え、それはもう、いてくれるならいくらでも」
「…ここ開店十一時よね。十時からってことにしておくわ。終わりが七時」
「雪帰ちゃん、私よりも店長っぽいね」
「しっかりしてちょうだいオーナー」
彼女の曖昧なオーダーをそれっぽく書き連ね、下の余白にご所望の動物たちを描いていく。どれも北の方にいそうだったので、文字を彩る枠線は水色にしてみた。さっぱりとした暑さが心地よいこの季節にぴったりなポスターになる予感がする。
「かよ子さん、こんな感じでどうかしら」
「あら素敵。さすがです店長」
「本気で乗っ取るわよこの店」
クリームパスタを楕円の皿に盛りつけ、仕上げのバジルをかけていたかよ子さんは「それは困った」と全然困っていない笑みを浮かべた。ペンや画用紙が散乱するカウンターにことりと出来立ての料理が置かれる。自分が座るスペースだけ片づけた後、かよ子さんからフォークを受け取り、湯気の出るパスタをくるくると巻き取っていった。
濃厚なクリームソースがレモンの酸味でまとめられていておいしい。エビも歯ごたえがあって旨味が口いっぱいに広がっていく。こんなにおいしい料理が出てくる上に、店内は何時間でも居座れてしまうくらい居心地が良い。テレビの効果もあるとはいえ、連日店内がごった返してしまうほどお客さんがやってくるのもうなずける。多分今日も、もう少ししたら三時のおやつを楽しむレディたちのおしゃべりで店内が華やかな雰囲気に様変わりするのだろう。少し前まで、この時間から夕方まではかよ子さんを独り占めできていたのに。
バイトでも何でもよいから、早くお店が元に戻りますようにと願いを込めてポスターを一瞥する。カウンターから覗き込むようにそれを熱心に眺めていたかよ子さんは不服そうな私に気付いて朗らかな笑みをこぼした。
「やっぱり時給二千円のほうが良かったかな。それで雪帰ちゃん働いてみない?」
「そんなことしたら資金難でつぶれるわよこの店」
「じゃあそのあとこの土地雪帰ちゃんにあげるよ」
「少しはこの店に執着を持ちなさい」
このマイペースな店主がいつか本当に誰かにうっかり店を明け渡してしまいそうで、私は絶対に変なバイトを雇って店を乗っ取られたらだめよと念押しした。
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