愛されるべき人
鈴椋ねこぉ
愛されるべき人
帰省して茉由と再会したのは、実に二年ぶりのことだった。七月の末、居酒屋の外でのことだ。元々、茉由の家とは家族ぐるみの付き合いで、彼女と洸佑は幼馴染だった。その日も母子家庭同士、洸佑と母、それから茉由と彼女の母で夕飯を食べに居酒屋へ来ていた。洸佑が合流した時には皆既に集合していて、茉由は気分転換に外の空気を吸っているようだった。こちらから何か話しかけようと思ったが、彼女は一人でいるのがとても似合っていて、それを邪魔するのは憚られた。だが、茉由はすぐに洸佑に気づいて小さく微笑んだ。色白で肩まで伸びる黒髪、瞳は大きく、可愛らしい見た目をしていたが、洸佑が上京する前はいつものように一緒に遊んでいたから、懐かしさが勝った。
洸佑は上京先の大学に通いながら車の免許を取っていたから、その夏、どこへ遊びに行くのにも自身の運転で、茉由を助手席に乗せていた。本屋や、映画館や、海や、互いの知り合いの友人宅。目的のない長距離ドライブにも行った。洸佑は車を持っていなかったので母の車で。いつも二人が一緒にいるのには理由があった。
茉由は根っからの引っ込み思案で繊細で依存体質だった。中学は引きこもり、高校は中退して大学も諦めた。自身の価値を知らず、一人では壊れてしまいそうだった。放っておくとすぐに悪い方へ行ってしまう少女を、洸佑は見過ごすことができなかった。上京先でもメッセージを送ったり、通話をしたり、とにかく彼女に尽くした。洸佑は茉由が生きる為の手伝いをしているのだと思っていた。
ある日、洸佑が茉由をドライブに誘うと、今日は無理だと断られた。それはとても珍しいことで、その時なぜか身の内に沸き起こったとてつもない寂しさに、洸佑は自分でも驚いてしまった。いつの間にか、依存体質の彼女に祭り上げられて調子に乗ってしまっていたらしい。洸佑はそれに気づいて自制しようと、一人でドライブに出かけた。午後に出て湖を一周し、近くにある店でソフトクリームを買って湖面を見ながらゆっくり食べた。茉由がいないだけで妙にそわそわし、時間の流れが遅く感じた。夕方までそうしていて、その後帰宅した洸佑は、家からそう遠くないバーに歩いて行った。ここは母の友人がマスターをしているから、十九歳の洸佑に年齢確認がなかった。ビールを飲みながらも、しきりに彼女からメッセージが来ていないか確認していた。満足しないまま家に帰ると、洸佑は茉由に電話をかけてみた。そして翌日一緒に映画館へ行く約束をした。洸佑から電話をすることは滅多になかった。
映画を見終わった後、洸佑は茉由を家まで送った。いつも彼女はすぐには車を降りず、助手席に座ったまま洸佑と話を続けた。彼女との話は、大抵洸佑が聞く側に回ればいいので容易かった。しばらく聞いて、そして気が利いた一言を口にしてやればいいだけだった。洸佑はそれが得意だった。しかし、その日は茉由は無口でいて、逆に洸佑の方が話を振っていた。
雨が激しく降っていた。茉由は何か言いたげにしていた。カーナビのぼんやりとした明かりに照らされた彼女の顔は、一日を終えたにもかかわらずまだ沈んでいなくて、どこか楽しそうでもあった。車に雨が激しく打っていたが、車内は寒くなくて心地よかった。茉由はようやく口を開いた。「好きな人ができたの」と彼女は言った。なんでそんなことを言うんだ、と洸佑はまず初めに思った。茉由が悲しそうな顔を見せたので、洸佑は初めて彼女の頬に触れたいと思った。それから彼女の心配をした。「自信がないの」と彼女は言った。
「こういう感情って初めてで、本当に分からないの」
そして茉由は自身の人間嫌いとそんな自分への嫌悪感について話した。嫌われるのではないか、と彼女は本気で怯えていて、それには相応の根拠があることが洸佑にも分かった。彼女はただでさえ悲観的なのに、加えて中学の引きこもりの原因がいじめであるから。とても繊細な性格が彼女の長所であり短所でもあった。さらに彼女は自分が依存体質であることを話した。もしかすると、洸佑という依存先から無理やり自立しようとしているのかもしれなかった。「茉由なら大丈夫だよ」と洸佑は言った。しかし、何に対して言ったのかは自分でも分からなかった。
次の日から茉由との交流がめっきり減った。彼女に電話をかけても、どうしたのと不思議そうに言って、昨夜の不安を語った時とは大違いだった。
その週、その次の週も彼は一人で過ごした。夜はバーでビールを飲んだが、明日こそ彼女から何か来るのではないかと思うと、すぐに引き上げた。一人でいる時は大抵彼女といた場面を思い返していた。助手席の茉由の横顔、熱心に話をする表情、電話口の安堵するような声。依存している彼女に、彼もまた依存していたのだった。洸佑はそれに気づいた。
ある日、久しぶりに茉由から電話があった。焦らないようにワンコール待ってから出ると、声からして彼女は泣いている様子だった。話を聞くと、どうやらうまく立ち回れない自分に嫌気がさしているらしい。洸佑は彼女をドライブに誘うと、彼女は了承を示した。
二人はあてもなくドライブした。夜は暑く、空は晴れ渡っていた。洸佑は彼女の表情を窺いながら、ゆっくり車を走らせた。彼はのんびり運転して湖を回り、町を回り、沢山話をした。茉由の家に戻っても話は尽きず、会ってなかったこの数日を埋めるように車の中で話をした。
茉由の話になった。彼女は例の彼の話をした。茉由は洸佑と彼女の共通の友人を好きになったらしく、一緒にいたようだった。高校を卒業してきちんと就職した彼を称賛し、自立したいという思いを彼女に抱かせた。彼女の話は終始思いやりに満ちていた。茉由がそういう話をするのは見返りを求めているからではなく、ただ自然とそういう話が出てくるのだった。自分のことは正しく評価できず悪く言ってしまうけれど。洸佑は彼女のそんなところが大好きだった。
それから茉由は嫌なことがある度に洸佑の元へ戻ってきた。彼は茉由の可愛さをまず彼女自身に説いた。彼女は自分の価値を正しく理解できていなかったから。だが彼女には別の相手がいることも、彼は理解していた。
洸佑がいなくても、やがて彼女は自分の価値を知ってしまうだろう。自分は助けられるべき人だと。愛されるべき人だと。ならば彼女を助けるのは洸佑でなくてもいい。そう思える程、彼は強くないのだ。彼女が強くないのと同じように。
「無理して離れなくてもいいんだよ」洸佑は彼女にそう言った。
そう言うと、茉由は解き放たれたかのように泣き出した。そんな彼女を洸佑は優しく抱きしめてやった。
愛されるべき人 鈴椋ねこぉ @suzusuzu_suzuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます