バフォメッタ

坂本忠恆

1. ʇǝɯoɥdɐꓭ

1.1 逆さの百合の獣

1.1-1 フィリウス・ネケシュ


 白昼の加護が都市から退きはじめていた。陽光の気配が亡霊のように地を這う八月の首都高を、二台の黒いセダンが車間を一定に保ちながら、街の灯りのひとつひとつを照り返すゆとりある速度で走っていた。濃いスモークガラスに遮られて車内を窺い知ることはできないが、そのナンバープレートの特殊性からして、これが何らかの公務を担う官用車であることは人の目に明らかだった。後方を従う一台は、見えない紐で牽引されているかのような不自然な従順さで走るので、その悠々とした走行とは裏腹に、上客の一挙一動に忙しなく迎合するボーイの姿を連想させた。こうした異質さを敬遠するかのように、周囲を走るドライバーたちは速やかにその横を追い抜きながら、会釈に紛れてすれ違い際に顔を盗み見るあの目配せを送るのだった。


 二台は赤坂見附で首都高を降りた。それから永田町の方面へハンドルを切ると、そのすぐ先で交通規制を敷く警察車両の赤色灯が無言で回転していた。進入を制止しようとする警官の前で一時停車すると、重たい瞼を疎まし気に開けるように、先頭車両のサイドウィンドウがゆっくりと下りていった。


「ナンバーを」

 警官が車内を覗き込むと、運転席の沢木さわきは事務的な声音でそう呟いた。

「承知していますが、現在、不発弾処理のため、この先は通行止めとなっております。念のため要件をお聞かせ願えますか?」

EOD爆発物処理班司令部に確認を。陸幕技術指導、派遣案件です」

 沢木は言葉を切るように告げ、後部座席の人影をさりげなく示した。

「確認させていただきます」

 警官は眉間に皺を寄せ、無線機を手に取りながら後方へ下がっていった。

「平時の有事ですな。フェイクとも知らずにご苦労なことです」

 助手席で沢木の上司にあたる中年男の日下部くさかべが、微かな嘲りを含んだ笑みを浮かべながらそう言った。彼は回転灯の光に目を奪われているかのように、その顔面を左から右へ何度も執拗に走り抜ける赤い光に照らされながら、ひたと前だけを見つめていた。

「しかし、厄介な場所で起きてしまいましたな……博士、あなたはどう思われますか? この土地柄は」

 日下部は続けてそう言った。どうやらその言葉は後方に座る人影へと投げかけられているようだった。


 博士と呼ばれた人物は異様な存在感を放つ骨ばった大柄の男だった。真夏の車内で、深い赤に染め上げた羊毛のローブコートを纏い、同色のテンガロンハットを目深に被って、三列ある後部座席の中央に身を沈めている。その年齢は四十代とも六十代とも判別がつかない。真夏の車内で、深い赤に染め上げた羊毛のローブコートを纏い、同色のテンガロンハットを目深に被って、三列ある後部座席の中央に身を沈めている。しかし、ローブコートの下に覗くスーツは、むしろ徹底的に平凡で、どこの駅前でも見かけるような既製品のそれだった。装飾品も、左手中指にはめられた一つの銀のリングを除いては、腕時計すら身につけていない。しかし異様なことに、左手の薬指は根元から欠損しており、大きな縫合跡が袖口から現れ、手の平と甲を薬指のあった位置で折り返すように走って、また袖の中へと姿を消していた。顔貌は日本人離れした鋭い輪郭と際立って高い鷲鼻を持ち、両の眼は暗闇でも分かるほどに大きく閃き、口も裂けたように大きく、顔色は深刻なほどに蒼白だった。その年齢が一見して測り難いのは、主にこの顔色のせいだったろう。元から若々しい容貌とはお世辞にも言い難いものの、この老け込みようが年相応のものなのか、それとも疲労の積み重なったせいなのか、どうにも判然としなかった。


「博士? どうかされましたか?」

 長い沈黙に不安を覚えたのか、日下部は後部座席に向かってそっと顔を動かした。男の大きな口が薄く開き、蒼白な顔面にあってひときわ青白く閃く歯列が、日下部の視界の端を一瞬だけ捉えた。

「自殺現場となった三叉路の近くには、首都圏の結界の要所たる赤坂氷川神社が在る。その他にも周囲には複数の神社仏閣、キリスト教会、霊拝堂……。しかし、このような場所はこの国の都市部では珍しくない。敢えてここに意味を求めようとするなら、それは好ましからぬ結果を招くだろう。私の言葉の重みを知れ。私に問いを立てるのは自由だが、同時に己の覚悟も問われることを忘れるな」

 博士の声は、不思議な二重性を帯びていた。抑揚を失った低い囁きは、まるで地の底から響く震動のようでありながら、同時に狭い車内を音楽堂のように一変させる独唱のような強さを持っていた。その反響が前方の二人の背筋を凍えさせた。それでも日下部は、博士は敢えて他者の畏怖心を煽るために、今のように声音を操ることを知っていたから、努めて平静に、不敵な笑みを絶やさずにこれに応じた。

「実を申しますとね、私が気になっているのは米国大使館の動きなんですよ。先方のインテリジェンスに余計な嗅ぎまわりをされるのは避けたいものですが、そう考えると不発弾処理という口実は少々安直でしたかねえ。沢木君、きみの率直な意見を聞かせてくれないか」

 突然の問いかけに、沢木は表情を変えることなく僅かな間を置いた。車窓の外を流れる街灯が、その無表情な横顔を断続的に照らしている。

「日米両機関間における暗黙の了解事項として、一定の情報共有は不可避かと存じます。また不発弾に関しては、旧日本軍の遺棄火薬類でない限り、必然的に米軍投下弾に分類されることになります。東京大空襲における通常弾の使用実績は極めて限定的であり、この件に関して先方から何らの反応もないということは、暗に了承を得られているものと解釈して差し支えないかと……」


 やがて警官が戻ってくると、短く詫びを入れながら通行止めの立看板を退けた。二台のセダンは静かに前進を始めた。

 立ち入り禁止区画に入って程なく、右車線側の歩道を避難していく住民の一団が、博士の視界を横切った。

「アメリカ人の目も気になるが、むしろ一般市民の目の方が厄介だ。目撃者の処遇はその後、どうなった?」

「万事、想定通りに運んでいますよ。想定されるリスクは制御下にあります。消防、警察両機関の非関係者は真相を知る由もない。警備の警官連中は、不発弾処理という建前を鵜呑みにしています。現場に入る自衛官も、信頼のおける部隊の人間で固めている。つまりは……詮索を美徳としない連中でね」

「内調の真骨頂というところですね」

 沢木は上司の言葉に合いの手を入れ、珍しく表情を緩めた。

「なるほど、それは結構なことだ……。そんなに手回しが良いというのに、犠牲者の素性すら掴めぬとは?」

 得々とした様子の二人を嘲笑うように博士が言った。面目を失ったように日下部は顔をしかめたが、そのときダッシュボードのタブレット端末が蒼い光を放った。

「ちょうど今、入電が……」

 博士は無言で続きを促す。日下部は淡々と画面の情報を読み上げ始めた。


「女性、二十歳。倉橋くらはし真理愛まりあ。所属は都内私立女子大学です」

「マリアか……象徴的な名だ。これは厄介だな」博士は静かに頷きながら、さらに問う。「その女子大だが、ミッション系ではあるまい? 専攻は?」

「一般私立大学薬学部です。系列校からの内部進学者であることを確認しております」

「なるほど……」

 博士は窓外を流れる閑散とした景色に目を細めて一瞬沈黙すると、中指の銀のリングに触れながら質問をつづけた。

「その若さなら婚姻歴も出産歴も無いと見てよかろう。処女である蓋然性が高い。男の血を用意するように」

「男性の血液、ですか? 具体的な指定は――」

「供血者は問わぬ。性別の判別が可能であれば、医療用の保存血でも構わない」

「了解しました。現場医官に即時確認します」

 日下部は暗号回線で手短に無線を入れた。

「家族構成の詳細も」

「両親と実弟の四人家族構成です。現住所は埼玉県、本人は単身生活。家族内に宗教関係者の該当はありません」

「弟との関係――双生児ではないな?」

「否定的です。年齢差は五歳です」

「自死の形態を詳らかにせよ。手段、死因、とりわけ遺体の状況を克明に。動機の特定があれば、なお良し」

「動機は現時点で不明です。形態は高所からの投身。発生時刻十五時零分、十二階建て居住用建造物の最上階から舗装面に頭部から落下。ただし、死因の件ですが……」

 日下部の言葉が途絶える。

「何事か?」

「生命徴候が依然として……」

「そうか……女体への接触は厳に回避されているな? 一切の接触を禁じよ。まだ時間はある。この落下高度であれば長くはないはずだ……」


 二台のセダンは薄闇の深まる住宅街へと進路を取った。光沢ある黒い車体は叢中の獣の濡れた眼のように、黄昏の街には容易には馴染むことはなかった。しばらく、まばらな街頭は、この怪しげな柩車のようなものを送るためだけに灯った。

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