ライオン・ホロスコープ
尾崎滋流(おざきしぐる)
ライオン・ホロスコープ
1
何百年ものあいだ待ち続け、ついにその時が訪れようとしている。逸る気持ちを抑え、しっかりと狙いを定めなければならない。私がこの世界に介入できる機会は、ごくごく限られているからだ。
君はいつものように
鮮やかな夕焼けが海峡を染める夕暮れ、あらゆる船が積み荷を降ろすクラーク・キーに役者が揃う。私はこの時のために蓄えた力を行使し、君の周りで少しだけ強く風をそよがせる。
オオハッカの群れがギャアギャアと鳴きながらいっせいにレインツリーから飛び立ち、それに目を向けた一人の西洋人が、木のふもとに立つ君と客席付き自転車に目を留める。
身なりの良いその男が人目を忍ぶように歩み寄り、まだ少年の面影を残す君に声をかけた。
「君、英語がわかるな? 頼みがあるんだ。運賃は弾む」
「
「いや、私はいいんだ。実は、荷物をひとつ、どこか遠くへ持っていって捨ててほしい」
君は少しだけ怯む。「はあ」
「怪しむのはわかるよ、でもそんな大層な話じゃないんだ。書類の不備があってね、荷物が一箱分、記載されていないんだ。普段ならそんなこと気にしないが、今度の取引先は面倒でね……」
「なるほど、捨てればいいんですか?」
「そうだな、港にさえ戻って来なければなんでもいい。なに、荷物が失くなるなんていつものことだ。中国人のせいにでもするさ」
男は君に待つように言うとどこかへ去り、すぐに二人の男に大きな木箱を運ばせて来た。
「ほら、運賃だ。目立たないようにな。さ、行ってくれ」
男は君に五ドル握らせる。一日の稼ぎの五倍だ。
君は人力車のサイドカーに木箱を押し込み、ペダルを踏む。重いけれど、運べないほどではない。
ゆく宛もないので、仕方なく橋を渡って家路を辿る。夕暮れの川面に、大小さまざまな船が積荷を運び、ともり始めた街灯がゆらめいて反射する。
君が知っていることは少ない。小さい頃、父親に与えられた本、母親に語り聞かされた物語。そして今は、
英語が達者なのは、父親が英国人だったからだ。父親はこの街で地元民の母親に君を産ませ、君が七歳のときに英国の家族のもとへ帰った。母親は流行り病であっけなく死んだ。
チャイナタウンは夕食時だ。店先のテーブルや屋台に人々が群がり、炒め麺や煮物をかきこむ。君も二人分の
君の住む家は、福建人の住む地区にある。父親に捨てられた君を、どういうわけか自分の家に連れ帰ったのが福建人の養父だった。養父は片言の英語で、君は片言の福建語で、互いにおぼつかない会話をする。
(母親の言葉は広義のマレー語のうちいずれかだが、君はだんだんそれを忘れていくのを感じている)
家の前に重い木箱をどうにか下ろした君を見て、養父は怪訝そうだ。
事情を話すと、寡黙な養父も珍しく興味をそそられたようで、さっそく箱を開けにかかる。
養父はあらゆる大工仕事が専門なので、釘を抜いて木箱を開けるのもお手の物だ。あっという間に蓋が外され、そこにあるはずのなかったものが姿を現す。
「なんだい、こりゃあ……」
それは奇妙な、というよりむしろ不気味な形をした、無骨な機械だ。養父は露骨にがっかりした様子。
「やれやれ、何か値打ちものが入ってないかと期待しちまったよ。こんな得体のしれない機械じゃ、道理でお前なんかに持って行かせるわけだ」
「これ……知ってる」
魅入られたような君の声に、養父が驚く。
そう、君はこの機械を知っている。拾ったストレーツ・タイムズの記事で見たことがある。君はその記事を何度も何度も読み返し、ほとんど暗記しているほどだ。
「これは、プラネタリウムだよ」
君は傍らにいる養父の手をぎゅっと握る。それはずいぶん久しぶりのことだ。
2
それは、私が幾星霜にわたって、発明を待ち望んだ機械だ。
カールツァイスⅠ型プラネタリウム。
1923年にドイツで開発された、世界初の光学式投影機。
一見したところでは、悪夢より現れた黒い怪物のよう。いくつもの短い角を生やした不定形の魔物だ。
ヨーロッパを熱狂の渦に巻き込んでいたその機械が、1920年代のアジアに存在したという記録はない。君の手元に転がり込んだその一機が向かう先がどこだったのか──香港か、上海か、それとも東京か──それは君の知るところではない。
君は目を輝かせながら養父にこの機械が何なのか、これがいかに画期的で、そして美しいものなのかを語って聞かせたが、養父はあまり興味を示さなかった。
それどころか、君の話の半ばで養父の目は曇り、伏せられ、あとは生返事が続いた。
同じようなことは、今までに何度もあったと思った。
「なんだかすごい機械らしいな。それなりの値段で売れるかもしれん、どこかへ持っていってみなさい」
「売る? この機械を? そんな馬鹿な」
「他にどうしようもないだろう」
養父は会話を打ち切るように背を向けてしまう。
潜り込んだベッドで、君は悔しさに涙ぐむ。
養父は星空を投影することの素晴らしさを想像できないのだと君は考えるが、君が若さゆえに気づいていないのは、養父が君を恐れているということだ。
この街を建設した西洋人たちの息子であり、六歳まで彼らに育てられた君と、出稼ぎに来た福建人の養父。
君の語る言葉、君の伝える知識が、実直な片田舎の技師である養父の目にどのように映るか、君はまだ知らない。
でも、君が知っていることもある。
養父が時折、吸い込まれるように夜空を見上げていることだ。
いつもどこか傷ついたような顔をしている養父は、その時にだけ、他では決して見せないような穏やかな表情をしていた。
そんな養父に、君はプラネタリウムを見せたかった。
そしてまた、君の養父こそは、この街でプラネタリウムを動かすのにうってつけの人間なのだ。
3
この島。この街。
西暦1299年、スマトラはパレンバンの王子、後に
それ以来、私はこの街が移り変わるのをずっと見てきた。
マジャパヒトの、アユタヤの、マラッカの王たちが都市をめぐって争い、やがて皆それを忘れ、街は廃墟となって朽ちていった。
私は海峡を行き交う商人や海賊たちの船を眺めながら、息をひそめて待った。
やがて、ほんのわずかの漁民だけが暮らしていたこの島に、英国人が新たな都市を建てた。蒸気船で人々が上陸すると、密林が切り開かれ、格子状の街路が敷かれ、白亜の館と教会、宿と酒場と商店が建てられた。
港が開かれ、中国人とインド人、マラッカ華僑、マラヤやジャワ、ブギスの民が流れ込むと、街区はそれぞれの居住区に分かれ、道教とヒンドゥー、イスラームの寺院が華麗な姿を競った。
いつしか
私の街を行き交う、目も眩むような人と富との流れを見守りながら、私はじっとその時を待っている。
いま私が見ている君。人力車で大きな木箱を運んでいる君。君たちは、この異邦人たちの街で生まれ、そこを故郷とした最初の人々だ。
そして君の時代には、「
市の中心部からセラングーン通りかジャラン・ベサールを北東へ辿れば、すぐにそこへ辿り着く。
そこには、人々の求めるあらゆる娯楽がある。
遊園地、レストラン、バー、ダンスホール、キャバレー、見世物小屋、中国式とマレー式のオペラハウス、ボクシングの興行。
旅行客も地元民も、金持ちも労働者も、ネオンサインと賑やかな音楽に惹かれ、チャイニーズ・アール・デコのゲートをくぐる。
それはさながら、フォリー・ベルジェールやブロードウェイが赤道直下のアジアに現れたかのようだ。しかし不思議はない。洋の東西を行き交うあらゆる船が、この港に錨を下ろすのだから。
年齢も肌の色も様々な者たちが笑い合ってそぞろ歩く中を、君は大きな木箱を積んだ人力車を押して歩いている。
傍らを歩く養父は落ち着かなさげだ。君は頑として譲らず、木箱を携えて一緒にここへ来ることを養父に承知させたが、君がそのような我儘を言うのは初めてだったからだ。
君たちの向かう先に、大声を上げている、大柄な女が見えてきた。
「誰でもいいさ!腕っぷしのいい船員くらい、履いて捨てるほどいるだろう?すぐに見つくろって連れて来い、今すぐにだ!ああ、金はいくらでも出す!」
女は受話器を叩きつけると、テラスのテーブルに置かれた
「忙しそうだな、
養父が声をかけると、雇い主である女は間髪入れずにまくし立てた。
「今夜のボクサーがばっくれたんだよ。あのオージーめ、後は国に帰るだけだと思ってなめやがって」
金糸の編みこまれた
「なんだ、今日は子供連れか」
「こんばんは、
「ふうん、
「──話はわかった」
梁は事務所のように使っているバーのテラス席で煙草をくゆらせ、君をじろりと見た。
「面白い話ではある。でも難しいね。まず場所だ。広くて暗い部屋が必要なんだろ、しかも天井に何もないような。劇場はあるが、どの天井も照明やらなにやらでごてごてなの、知ってるだろ?」
君はその時すでに、あらん限りの言葉を尽くして語り終えていて──そもそも、大人に対して何かを説得しようとするのは初めてだ──もう二の句を継ぐことができない。
「それに結局、星空を映すだけなんだろ?いつだって見られるじゃないか、本物が。あとはそう、誰がその複雑な機械を動かすのさ」
新世界のゼネラル・マネージャーが矢継ぎ早に繰り出す言葉は、君の心をみるみるうちにしぼませていく。
彼女は年若い君に対しても大人に対するように振る舞い、それは彼女なりの敬意なのだが、今の君にはそれはわからない。
梁は俯いた君を見て、
「まあ、興味深くはあったよ。また何か思いついたら私のところに来な」
「天幕を立てればいいさ」
急に、養父が口を出し、二組の眼がそちらを向いた。
「サーカスみたいなものだろ、倉庫に古いのがある。ちょっと直せば使えるはずだ。中は地面に椅子でも並べればよかろう」
「ふん、で、誰が操作する?」
「複雑な形をしているが、別に難しい機械じゃない。星空が映ればいいんだろう? 細かい操作はともかく、光らせるだけなら造作もないさ」
君は目を丸くして養父を見ている。養父が誰かに対し、自分の意見を主張しているのを初めて見たからだ。
それは梁にとっても同様だ。目の前の男は、言われた仕事はそつなくこなすが、それ以上のことに関わろうとする種類の人間では決してなかった。
「いいだろう、で、客は来るか?」
「俺は星なんぞに興味はないが、この出し物がヨーロッパでとんでもない人気なのは事実らしいし、ここらの国じゃ誰も見たことない。新聞やラジオも放っておかないと思うがね」
すべて、君が養父に語ったことだった。
君は興奮ではち切れそうだ。君の目の前で、プラネタリウムが形を成していく。
4
バビロニアで、中国で、古代人は天体の運行が地上の事物を支配すると考えた。
地中海世界では四つの体液が心身を操るとされ、それぞれの体液が諸惑星と結びつけられた。
マクロコスモスとミクロコスモス、宇宙と身体の照応だ。この私の存在もまた、その照応の相のもとにある。
「東洋初のプラネタリウムが新世界に登場」
「ヨーロッパで百万人が熱狂した〈イエナの驚異〉──星空の劇場へようこそ」
「二十世紀、人類は大地と海を手に入れた。次は宇宙の番だ」
昇り始めた月の下、広場に据えられた天幕に、人々が吸い込まれていく。
ルノーで、ブガッティで、そして人力車を雇って駆け付けた人々が行列を作り、新たなスペクタクルに胸を躍らせる。
盛装の紳士淑女。子供を連れた家族。宿から繰り出した船乗りたち。仕事帰りの
いつものテラス席で梁が
君は小綺麗なお仕着せに身を包み、その傍らで行列を眺めている。
初公開に先立つこと一週間前、君と養父はすでに試運転を成功させていた。
天幕の遮光性は十分ではなかったが、夕暮れ時であれば問題なかった。
天井は低く、天球を再現するには丸さも足りなかったが、それでもそこに投影された星々の光は、君の想像よりもはるかに美しかった。
天幕も、新世界も、獅子の街も姿を消していた。そこにはただ星空だけがあり、君だけがいた。
しばらくして、君は養父が隣にいるのに気づいた。
宇宙の静寂の中で、君は養父が、今まで語れなかったことを語ろうとしているのを感じた。
「俺は、星の名前はわからないんだ」
いつものように、その声は寂しげだった。
「中国での名前も、ヨーロッパでの名前もわからない。だから俺にはこれはわからん」
君は頭上で一際大きく光る星々を指さそうとして、やめた。
養父が自分のことを語るのを聞くのは、初めてだと気づいたからだ。
「じゃあ、
養父は長いあいだ黙っていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
天幕の中が人でいっぱいになり、開幕の時が近づいた。
君は胸を昂らせ、ツァイスⅠ型の操作盤に向かっている。これからついに、イエナの驚異を赤道の街に再現するのだ。
懐中時計を確認する。秒針が頂点を指し、開演時間を示した。
私が待っていたのは、この瞬間だ。
投影機が灯り、天幕に星空が映し出され、人々の歓声が上がるその時に、私は秘めていた力の全てを解き放つ。
しゃっくりをしたかのように、ほんの一瞬、世界が震えた。
樹々のざわめきの、季節風の、折り重なる地層の、行き交う生命の中に織り込まれていた私の力が、一気に君の身体に流れ込み、ひとときそれを支配する。
君の身体を借りた私は、手早く計器を操作して惑星の配置を変える。
太陽と月、燃え上がる火星、静かな金星、憂鬱に沈む土星が、黄道のしかるべき位置に収まっていく。
わけもわからず興奮する観客たちの上で、瞬く間にその星図が完成した。
偉大なる星辰の力、万物の運行の力が、私の中に奔流のように注ぎ込まれ、身体中に満ちるのを感じた。
歓喜に突き上げられ、私は咆哮する。
その夕べ、満員の天幕の外にいたまばらな人々が目にしたのは、月光を浴びた一匹の獣だった。
どこからともなく現れた獣は、気持ちよさそうに伸びをすると、鬣をさんざめかせ、胸を張って悠然と歩み始めた。
人々はあまりの出来事に言葉を失い、獣が徐々に足を速め、やがて駆けだすのをただ見送った。
その星の配置は、西暦1299年のあの日、
あの日以来、私の運命はこの島、この街と一体となっていた。
私の身体が朽ちた後も、私はこの島、この街を見守り、森のそよぎと鳥たちの声の中にいた。私はそのようなあり方に満足していたが、しかし、いつしか私は、もう一度地を駆けたいと思うようになった。
そして私は待ったのだ。あの日の星辰を再現してくれる機械が、この島へやってくるのを。
踏みしめる大地、皮膚を愛撫する風、間近に感じる海、全てが心地よかった。
走れば走るほど速度は上がり、どこまでも駆けていけると思った。
自動車と人力車の間をすり抜け、名士が集まるホテルを、あらゆる言語が飛び交う酒場を、暗がりでささやく路地裏を通り過ぎていく。
二十世紀のとば口に立った人々は、自分たちのすぐ傍らを軽やかな獣が駆け抜けるのを感じ、支配されざる森の匂いを束の間嗅ぎ取る。
いまごろ君は意識を取り戻し、慌てて操作盤に向かっているだろう。心配することはない。初めて人工の星空を見た観客は、細かいことなど気にはしない。そもそもツァイスⅠ型が投影できるのは北天だけだ。
君は天幕のどこかに養父がいるのを知っていて、それを誇らしく思う。
初公演が終わった後、君と養父は祝杯を交わすだろう。それは君たちが初めて一緒に飲む酒だ。
とはいえ、私はもう君のことを忘れ始めている。人間のことを忘れ始めている。他のことに夢中だからだ。
四脚で地を蹴ればしなやかな筋肉がそれに応え、風と速度、熱と運動の絶え間ない交換が星々に捧げられる。
格子状の街から小高い丘へ、そして密林へ。北の海峡を渡れば、広大なマラヤの地が、ユーラシアが広がっている。
まずはどこへ行こうか。
ライオン・ホロスコープ 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo
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