分水嶺

筆名

「何なんだよ、これから人が」

 時間ギリギリになって入ってきた一人の男子生徒を最後に、講堂の扉が閉められた。カーテンで光が遮られた堂内には、十月末とは思えない熱気が立ち込めている。

「…………あっつ」

 その熱気に耐えかかねて、彼女——すいすずも右手で額の汗を拭う動作をする。けれど誰の目にも、涼夏がこの熱気を楽しんでいることは明らかだった。そしてどうやら、父さんとの賭けは僕の勝ちらしい。

「はいよ。これ」

「ん、ありがと」

 持ってきていた濡れタオルを渡してやると、涼夏は気持ちよさそうに顔を拭った。その後の身体を拭う涼夏が少し艶っぽくて、思わず視線を逸らしてしまう。

「もう大丈夫、カレシくん? そろそろ開会式始めたいんだけど」

 文実のなが先輩が苦笑いを浮かべながら、そんな僕に撤退を促した。ありがたい。

「ああ、ええ。もう大丈夫です。すいません、無理言って」

「いーよー別に。カノジョの晴れ舞台だかんねー。ホント言うと、カレシくんにはもっと近くで見せてあげたいんだけどね」

「その気持ちだけでありがたいです。では、僕はもう戻ります」

「うん、じゃねー」

 短い通路を抜けて階段を降り、あらかじめ取っておいた講堂の端の席に座る。2時間くらい前から荷物だけを置いていたから、他の人に座られていたら、という心配は杞憂だったらしい。

 席に座って定刻を待つ。そして果たして午前9時ちょうど目前に、ザザザ、とノイズが走った。校内放送開始のノイズだ。決して大きな音ではなかったが、時計を気にしていた文実の彼も、歓談をしていた一年生の彼女らも、そこかしこを忙しく駆け回っていた先生方も、その視線を講堂の中央へと向ける。

 緊張の一瞬。

『ぴーんぽーんぱーんぽーん』

『お呼び出しをいたします。3年D組、桜宮さくらのみや君、3年D組、桜宮君。至急壇上までお越しください。繰り返しお呼び出しをいたします。3年D組、桜宮君、3年D組、桜宮君。至急壇上までお越しください』

『ぴーんぽーんぱーんぽーん』

 場が、しんと静まり返った。遅れて「え、なに? なんて?」や「桜宮、あいつ委員長サボって何やってんだ?」という囁き声が漏れてくる。

 よかった。誰もが、さっきの放送が彼自身の声であることに気付いている。入学間もない1年生にまで記憶されているかは正直不透明だったけど。伊達に放送部部長と文実委員長、それに何より生徒会長を兼任していない。

 僕が密かに安堵していると、入り口にライトが射した。照明室からのスポットライトが扉に楕円を映している。すると困惑していた生徒たちも、ここは流石というべきか、たちまちに静まって桜宮先輩の登場を待つ態勢に入る。

 この時を、この状況を僕は待っていた。

 桜宮先輩の日々の努力や照明担当のむらの尽力がここまで繋いでくれた。

 そして今度は、僕の番。僕一人のターン。

『…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン……』

 僕は少しなだらかなテンポで、この場の全員に聴こえるように手拍子を打つ。

『……パン…………パン…………パン…………』

 すかさず文実委員の皆さんが加わってくれる……なんてことはない。彼ら彼女らも、各々の役割を果たすのに一生懸命だからだ。この後の展開を考えると、手拍子なんてしてる場合じゃない。

 だから、最後まで博打だ。

 もしかしたら、お調子者たちのお手を拝借できるかもしれない。

『……パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………パン…………』

 そんな希望的観測は、あえなく破れた。いよいよ周りからの視線が痛くなってきたし、流石に、潮時。

 僕は手拍子をやめて周囲からの冷視に耐える。まあ、ここで最後の賭けに負けたイタい奴としてうらぶれておこう。時間稼ぎくらいはできただろうし……。

『……美しい拍手を、ありがとう。少年』

 なんて少し不貞腐れていると、聞き慣れた声が講堂中を揺らした。間髪を容れず、荘厳で優雅なBGMが堂内を満たす。

 あり得ないくらい格好良い台詞と共に講堂の重厚な扉を開けて登場したのは、怪盗だった。漆黒と鮮紅色のマントをはためかせ、黒のシルクハットを被いて濃紺の学ランを着こなしている背高の男は、極め付けに白仮面とベネチアンマスクを装着している。みんな突然の怪盗の登場に、これ以上なく沸き上がっているようだった。

『君のおかげで、吾輩の登場は、実に! 華々しいものとなった!』

怪盗はそう言って登場早々に講堂中の視線と関心を独占すると、一歩、また一歩と講堂に入っていく。観客とは対照的な怪盗の堂々とした雰囲気は一種の凄みを纏っていて、パイプ椅子の間を抜けるだけの動作がやけに様になっている。……とてもではないが、盗人の振る舞いではない。

「紳士淑女の皆さん……」

 怪盗は講堂の壇上につながる簡易階段を踏みしめて登り切ると、軽く咳払いをしてから話し始めた。マイクを使ってはいなかったが、不思議と彼の声はざわついた館内でもよく通った。

 だから、なのだろう。

 たぶん彼を以外には、その芸当は出来やしなかっただろうから。

 次の瞬間、桜宮先輩は突然マスクをかなぐり捨てて大声で叫んだ。

「文化祭、エンジョイする準備はできたかあああああ!」

 え、な————

「「「「————イェエエエエエエエエエエアアアアアアアアアア!」」」」

 僕の無粋な思考は、この場の教師を含むほぼ全員の叫び声に遮られた。ここから見渡す限りでも、椅子から立ち上がっている生徒や椅子に立っている生徒すら珍しくない。恐怖を感じるまでの盛り上がりだ。壇上の彼も興奮した様子で、コーレスが止まないままに、次の言葉を発した。

「聴いてくれ! …………『ヴィクティム』」

「「「イェー!」」」

 彼の言葉に少し遅れて、ポップソングのイントロが堂内のスピーカーから流れ出した——。


 結局のところ彼の一連の暴走は、文実委員にはきちんと「一般生徒へのサプライズ」として事前に伝わっていたらしい。僕や涼夏に知らされていなかったのは、僕らも「一般生徒」としての扱われるべきだったからだと、後で長尾先輩が笑いながら教えてくれた。

 ……正直、それを聞いた時はイラっとした。つまり僕は不必要な道化だったわけだ。

「……何なんだよ、これから人が告白しようって時に……」

 誰にも聞こえないような声で、僕は仲間を呪った。


 轟音が鳴り止まない講堂で、でも、彼の唇はそう動いた。普段温厚な彼が、そんな風に周囲に対して毒づいた。……でも、それも大問題だけど、そんなことはこの際どうでもいい。周りの人たちには聞こえてないかもだけど、彼の隣に座っていた私には怖いくらいはっきりと、見えた。

 刹那、また私のしょうもない頭は仕方のないことを考え出してしまう。

(霞君は、誰に告白するんだろう? やっぱり碓氷さん……かな? 幼馴染ってだけあって距離感近いもんね。羨ましい。……あれ、でも碓氷さんって彼氏いるんじゃなかったっけ? 前にクラスの誰かがそんな話してたような? 誰だったっけ? 水間君……だったかな? それじゃあ、もしかして同じクラスの桜宮さんかな? あの人も霞君と距離近いしなあ。昨日も運営委員の買い出しとか二人だけ行ってたし……。桜宮さんは見た目が派手で怖くてニガテだけど、霞君から話を聞いてみたら悪い人じゃなかったし。あ、でも、桜宮さんも確か、彼氏がいるって前に霞君から聞いたことあったなよね。じゃあ、違うか……。まあ、そもそもの話、霞君はおっぱいは大きい女の子の方が好きだもんね。水瀬さんは……霞君も「あんまり仲良くできそうにないかも……」って言ってたし、押谷さんは……髪型ショートだからなあ。霞君も、女の子の髪は極端に長いのも短いのも好きじゃないみたいだったからなあ……。もしかしてひょっとすると、隣のクラスの木村さん? でも、霞君と木村さんが話してたのって3回だけだし、全部霞君が話しかけられてたよね? じゃあ、さっきまで話してた長尾先輩……かな? でもでも、やっぱり霞君は年上のお姉さんよりも年下か同い年くらいの可愛い子が好きだもんなあ。うーん、じゃあやっぱり、後輩の誰かかな? 後輩の人達で霞君と繋がりがある女の子っていうと……、河辺さんとか大西さんとか南さんとかかな? 河辺さんは……いや、霞君は————)

霞君について色々と考えてたら、不意に視線を感じた。

 私は、どうしようもなく霞君以外の人がニガテだ。怖いのだ。コンビニのレジで店員さんと話すのも霞君と一緒じゃないと緊張するし、他人の顔色と視線を気にする癖は霞君と出会った今でも変わらなかった。

 それでも不思議と、今感じている視線は怖くなかった。どっちかっていうと、怖さよりも興味の方が勝つ。誰が私を見ているのか、そんな興味が私の中で無尽蔵に湧き続ける。そもそもの話、こんなクラブハウス(?)チックな状況で、霞君ならまだしもわざわざ私を見ているのもおかしな話だ。

 だから、気になって視線のする方を見てみた。

 そして見た先で、ぞっとした。

 だって。

 講堂の端、普段は倉庫として使われている、講堂の壇上に続く階段がある倉庫から、ステージ衣装を着た碓氷さんが目に涙を溜めて、確かに私を、他の誰でもないたに流理るりを睨んでいたんだから。

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分水嶺 筆名 @LessonFine

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