はじまり
さぁ起きろ、今起きろ、
午前8時半。ミチルは思わずベッドから飛び起きた。しかし、その直後に気付く。そう言えば入学式は明日。朝早く起きる必要は無い。
「ミチル、母さん仕事行くから。食べるならみそ汁温めてね」
少し損した気分で部屋を出ると玄関から母の声がした。つまり、みそ汁以外のおかずは無いということだ。冷めて濃くなったみそ汁は彼の好みでないようで、アルミ鍋を火にかける。
温まるまでの時間、テレビでも見ようと彼はリビングのソファに腰を下ろすした。薄型のテレビから薄味の情報が次々と流れていく。
映画の完成披露試写会、バラエティ特番の告知。占いは最下位、頭上に気をつけて。
今日の天気は曇り。九州では例年より早く桜が咲いて、国会ではよく分からない何かが賛成多数で可決して。
近所の川で変死体が発見され、隣県の動物園で可愛い動物の繁殖に成功し、地球の裏側で銃が人を殺した。
国際大会で優勝したスポーツ選手の、涙ながらのインタビュー。
世界の
しかし、どれもミチルの記憶には残らなかった。彼の脳内は別のことでいっぱいだ。明日からの大学生活が一匙分と、ずっと引きずったままの心残りがそれ以外。空の曇り模様よろしく、鈍い灰色に覆われている。
「そろそろ温まったかな」キッチンに戻ると、鍋の火がいつの間にか消えていて、みそ汁は冷たいままだった。「電池でも切れてんのかな?」
ガスコンロのつまみをカチッと
隕石でも落ちてきたのかと紛うほどの轟き。慌ててベランダに出ると、マンション裏手の川辺から、もくもくと土煙があがっていた。
なんの事故だろうと彼は目を凝らす。そして気付いた。その煙に見え隠れするモノを前にも見たことがあると。
彼は一目散に駆け出した!ドアを開け放ち、跳ね馬のように階段を駆け下りて、その勢いで堤防を上る。
そこにあったのは、空から降ってきたのは、まん丸の宇宙船だった。あの異世界で見た、ヰタの宇宙船とそっくりだ!
それが今、何故ここにあるのだろう。どうやってここへ来たのだろう。そんな疑問がふっと湧いて出るが、すぐに立ち消える。
なぜなら、そんな些事は、今の彼にはどうでもいいことだったから。
なぜなら、その船の中から、今にも彼の親愛な人が飛び出してきたのだから。
「ミチル!」
「コゼットさん!?なんで、ここに?」
「ミチルが遅いからですよ!何年待たせるんですか!?」
「え……年?」
どうやら、日本と異世界では時間の流れる速さが違うそうだ。こちらでは一月も経っていない間に、向こうでは何回も春を迎えたそうだ。
よく見れば、たしかに彼女のシルエットは少し成長していた。特に彼女の黒い髪など腰の辺りまで伸びている。
「髪。伸びたね」
「大変だったんですよ」
彼女は、ミチルが帰った後から始まった"異世界を目指す"物語を語り始めた。
だがミチルは、その話を殆ど聞き逃しながら、久しぶりの彼女の姿をじっと見ていた。髪はボサボサ、肌は荒れてて、痩せっぽち。初めて会った、あの時と同じだ。違うのは白衣姿と、ネロの店で一緒に買った度数の強い眼鏡を掛けていることくらいだが、それも少し汚れが目立つ。
彼女は寝る間も惜しんで研究をし続けたのだ。たくさん抱えた大好きなお金を研究費に注ぎ込んで、せっかく覚えたおしゃれに脇目もふらず、
「……それで、最終的には宇宙開発コカ・ネヴフ公社と形而化学会の共同開発の元に完成したのが、この船です。次元の壁を超高速で越えることで、異世界渡航を可能にしたんです。魔法と科学で理不尽はねじ伏せられるんですよ」
「コゼットさん……」
「ん?」
その不断の努力を思うと、ミチルにはこみ上げてくるものがあった。彼はもう一度強く、彼女を抱きしめた。
「ありがとう。頑張ってくれたんだね」
「……へへ」彼女は照れくさそうに、満足気に笑うのだった。「なんか見送ったくせに出迎えられるなんて、変な感じですね」
それを聞いてミチルはあることを思い出した。それを言わなければ、旅は終わらない。『ちゃんと帰ってこれた』と安心を伝える、おまじない。
「おかえり、コゼットさん」
その目から溢れる涙を、彼女はそっと拭った。
「ただいま、ミチル」
雲の切れ間から漏れる光が、二人を照らし出していた。
こうして、ミチルとコゼット──
けれど彼らは、もう二度と別れることはなかった。家は笑顔に溢れ、ずっと楽しく暮らした。
いついつまでも幸せに。
■ かつてないほど幸せな ■
■ おしまい ■
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かつてないほど幸せな 日曜日夕 @elizabeta
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