維新の残滓 ~お龍と人斬り半次郎~

諏訪野 滋

維新の残滓 ~お龍と人斬り半次郎~

 三田尻みたじり(現在の山口県・防府ほうふ付近)は、九州と近畿を結ぶ山陽道と、代々のはぎ藩主が参勤交代の際に往復する萩往還の二本の街道が交差する、陸上交通の要衝の地である。しかしそのような賑わいを見せていた瀬戸内の港街も、明治の御一新の後では、荷車も旅の一座もなにもかも人々の往来というものは明らかに減っていた。やれ文明開化だ富国強兵だと唱えても、改革の中心から離れたこの地では、そのようなお題目はどこか遠いおとぎ話のように聞こえる。徐々にさびれていく宿場街を眺めるとき、人々は時代の流れが京都から東京へと移行したのだと思い知らされるのだった。

 そのような、明治八年(一八七五年)のある夕――


 佐波さば川を渡ると、やがてゆるい上り坂になる。初秋とはいえ陽はまだ高く、草の萌える匂いはむせかえるほどである。男は汗をぬぐいながら、遠方に見える雑木林の陰でとりあえず一息つこうと足を早めた。

 薩摩さつまの旧士族に造反の気配あり、との風聞は新政府の耳にもしきりに届いてきてはいたが、何しろかの地は古来戦国の世の頃から警戒が厳重で、よそ者などは容易に侵入することが出来ない。自分のような新選しんせんぐみの生き残り、つまりは食い扶持ぶちさえ手当すればだれにでも切りかかるような連中は、密偵という捨て駒として使うのにちょうどよいのだろう。新政府に雇用された旧幕臣の扱いといえば、大抵そのようなものだった。

 ようござんす、餌さえくれるのであれば、だれに飼われようとも文句はありませんよ。自嘲しながら歩いていた男は、道の先の土手に腰掛けている一人の旅装束の女に目をとめた。藍染の着物に日よけのすげ笠、手甲に脚絆きゃはん。じきに陽が落ちるというのに心もとないことだ、と考えた男は、女の前で足を止めた。

「もし、旅のお方。余計なお世話かもしれませんけれど、どこか足でも悪くしたのではありませんか」

 うつむいていた女は、ゆるりと顔を上げた。笠の下の思わぬ美貌に、男ははっとなって息をのむ。三十路のようにも思われるが、無邪気さと老獪ろうかいさが絶妙に入り混じった、得体のしれない怪しさがあった。

 女は上目遣いに男に笑いかけると、しっかりとした様子で立ち上がった。あご紐をほどいて笠を下ろすと、丁寧に会釈を返す。

「あら、ありがとうございます。いえ、決して足をくじいたわけではありませんのよ。ただ、ここで人待ちをしながら川を眺めておりましたら、不意に昔が懐かしくなってしまって」

「ほ。それは」

 そう言われると自分もそうだ、と男は今しがた歩いてきた山陽道のほこりっぽい道を振り返った。東北で隊が壊滅して散り散りとなり、政府に投降して斬首の沙汰さたを待っていたあの時も、土手下の川の水面は同じように輝いていた。すべてが先へ先へと生き急いでいるときに、得難い女人に出会ったものだ。

「待ち人がいるのであれば、心配はありませんでしたね。それでは、あたくしはこれで」

 後ろ髪を引かれる思いで女に背を向けて立ち去ろうとした男の背中に、竹筒のような感触が伝わった。

大牧おおまき泰三たいぞうさま、いえ、蒲生がもう瑞雲みずもどの、で間違いございませんね」

 振り返ろうとした男に、女はそれをぐい、とより強く押し付けた。

Sスミス&Wウェッソン社製、モデルナンバーツー・アーミーです。ちょいと年代物ですが、私が最初に手に入れた愛着のある銃なんですよ」

「……あたくしに、まだなにか御用が」

「ちょいと訳ありで、今は西郷さいごう様にお味方させて頂いてます。あなた様に嗅ぎ回られると、なにかと都合が悪いのですよ」

 蒲生と呼ばれた男は前を向いたままで、ははっと笑った。

「新政府にご不満をお持ちの逆賊ですか。それにしても、銃をお持ちなのにこのような回りくどい真似をされるとはねえ。狙撃すれば、それで済む話でしょう?」

 今度は女の方が笑う番だった。

「ふふ、私はあなた様のお命などに興味はございません。ただ、一つおうかがいしたいことがありまして」

「これはまた見当はずれな。あたくしはただの犬ですよ、政府の情報など何も持っていやしない」

 女の声音から、からかうような調子が消えた。

「私の夫を斬ったのは、あなた様ですか?」

 蒲生は自分の耳を疑った。私怨か。人を斬ったのは枚挙にいとまがないが、それはお互いに納得済みの上で我々は殺し合っていたのだと思っていたが。

「夫、とは?」

坂本さかもと龍馬りょうま、と言えばお分かりいただけますか」

 背中に銃を突きつけられても全く動じなかった蒲生の肩が、びくりと大きく震えた。どうやら、自分を新選組の元隊士だと知ったうえでの待ち伏せだったらしい。

「……そうですか。あなたが、おりょうさんってお方ですか。そのお名前、撃剣師範の服部はっとりさんからも、いや、副長の土方ひじかたさんからも聞いたことがありますよ」

 一呼吸おいて、ころころと朗らかな笑い声が聞こえてきた。

「あら、懐かしいお名前ですこと。それならお話が早い、私の質問に答えてくださいな。この銃、決して脅しではございませんのよ。あなたの仰る服部様の右の耳たぶ、これで吹き飛ばしたこともあるのですから」

 新選組の中でも最強の剣客の一人を傷つけた、とのお龍の言葉を、蒲生ははったりだとは思わなかった。事実その話は隊内でも一時期派手な噂になり、士道不覚悟で詰め腹を切らされかけた服部を、任務で同道していた土方がかばって罪をもみ消したという話まであった。

 蒲生はくっと笑うと、後ろに向けて飄々ひょうひょうと言い放った。

「斬ったのはあたくしじゃありませんが、いずれにしろ、誰かに必ず殺されていますよ。何しろ坂本さん、とてもいい人だったですからねえ!」

 ふっと身を沈めた蒲生は、左手を地についてそれを軸に身体に回転を加えると、お龍の足元に鋭い足払いを放った。意表をつかれたお龍はざっと地を蹴ると後方に跳躍する。距離を開ければますます銃に有利な間合いになる、との判断であった。

 しかし次の瞬間、蒲生の顔がすぐ目の前にあることにお龍は驚きを禁じ得なかった。速い、迷いがない。蒲生の右手が左腰にさしてある刀のつかに伸びた瞬間、片足立ちになったお龍のつま先が手の甲を蹴り飛ばした。ち、と舌打ちしながら蒲生がいったん後方へと下がる。

「こいつは驚いた。あたくしの居合を出し抜く方が、この明治の世にまだいらっしゃるとは。斉藤さいとうさんにも褒めてもらったことがあるんですが、どうやら太平の世で腕がなまっちまったようですねえ」

 着物のすそから白いふくらはぎを露出させたまま、お龍は右手を伸ばして銃を構えた。背中に冷たい汗を感じるのは、彼女にとって実に久しぶりのことだった。無名の平隊士の中にもこんな奴がいるとは、なるほど新選組の名は伊達ではないという事か。犬は犬でも、こいつは狂犬だ。

「そうですか。夫を斬ったのがあなたではないという事であれば、あなたはただの間者。このまま回れ右をして江戸、おっと失礼、東京にお帰りになられるのであれば、このまま見逃して差し上げますよ?」

「あなたはそうでも、あたくしはそういうわけにはいきませんねえ!」

 お龍は、突進してくる蒲生の喉元に狙いを定めた。先ほどの動きでわかった、こいつは手加減して止められるような相手ではない。

 街道に轟音が走る。硝煙の向こうを透かし見たお龍は、またしても驚愕した。蒲生は目の前に突き出した左の手の平で、銃弾を止めていた。血しぶきを散らしながらぶらぶらと揺れる指を他人事のように眺めてから、蒲生は左の腰に手を伸ばす。今度こそは飛びのく間もなく、地から天へ、鞘から放たれた一閃がお龍の右の手首を裂いた。その手から離れた黒い銃は晴れた秋空の下をくるくると舞い、離れた草むらにどさりと落ちる。

 右腕を押さえたまま座り込むお龍に、かつて左手のあった場所から血を滴らせた蒲生が余裕の表情で近づいてきた。

「あたくしも母成ぼなりとうげでは薩長の方々にたくさん撃たれましたからねえ。弾丸たまってやつは、こう、点なんだ。剣術で言えば、突き、です」

 蒲生は刀を目の前の地面に刺すと、物をつまむように右の親指と人差し指を丸めてみせた。

「点だったら、止めてやればいい。銃は、一度止めればもうこちらの間合いです。左手と命、天秤にかけるまでもありませんでしょう?」

 蒲生は無事な右手で地面から刀を抜くと、そのままゆっくりと振りかぶった。

「もっとも、沖田おきたさんの三段突きはだれにも止められませんでしたけれどね。お覚悟!」

 気合と共に振り下ろされた蒲生の刀が、お龍の眼前で鈍い金属音と共に止まった。横合いから差し出された別の刀が、蒲生の刀を止めていた。押し切ることもかなわず、蒲生は慌てて飛び退る。

「……どちらさまでしょう」

「俺か? おたくも政府の人間のはしくれなら、桐野きりの利秋としあきって名は聞いたことがあるんじゃねえか? それとも、中村なかむら半次郎はんじろうの方が通りがいいかね?」

 乱入者をいぶかし気に見つめていた蒲生は、次第に唇をわなわなと振るわせ始めた。

「人斬り、半次郎!」

 尻餅を付いたままのお龍をかばうように蒲生の前に立った半次郎は、刀のみねでだるそうに右肩を叩きながら、にやりと白い歯を見せた。

「突きは点、ねえ。そいつには同意見だが、俺の示現流じげんりゅうには突きはねえぜ」

 蒲生の血走った目からは、すでに正気は失せていた。

「ほざけ、薩摩の芋が!」

 真っ向から切りかかった蒲生の剣を右手一本の剣だけで容易く受けると、素早く身を寄せた半次郎は、下からすくい上げた左の拳を蒲生の顎に叩き込んだ。鼻血と数本の歯を宙に散らしてのけぞる蒲生の正面ががら空きになる。

 半次郎は長刀を素早く両手に持ち替えると上段に構え、怪鳥のような甲高い気合を放ちながら蒲生に叩きつけた。顔面を斬られた、というより砕かれた蒲生は地面に叩きつけられて横転すると斜面の途中でようやく止まり、そのまま動くことはなかった。


 うち捨てられた境内の陰に隠れると、二人はようやく息をついた。半次郎は背負い袋の中から包帯を取り出すと、黙ってお龍の右腕に包帯を巻きつける。痛あい、と声を上げながら、お龍は横目で半次郎を軽くにらんだ。

「半次郎さんもお人が悪い。いつから私の後をつけていたのですか?」

「東海道から、ずっとです」

「だったらいっそのこと、きちんと護衛してくださればよろしいのに。女をおとりにするなんて、武士の名折れですよ」

「あなたが危険なときは守れ、とは命令されていますが、危険じゃなければ守る義理はありませんのでね」

 お龍は頬を膨らませてねて見せた。

「まあ、憎らしい。西郷様のお考えになりそうなことだわ。いつもあの方は、私の気持ちをご利用なさろうとするのですもの」

 お龍の言葉に半次郎は顔を上げると、遠い夕陽を見上げた。

「いい加減、辞めませんか。坂本さんも、お龍さんが危険な目に遭うのは本意ではないでしょうに」

 そうはいきませんよ、とお龍も同じ夕陽を見た。半次郎さんも西郷様も武士の道を捨てられないように、私にも捨てられないものがあるのですよ。

 これでよし、と立ち上がろうとした半次郎の袖を、お龍がためらいがちに引っ張った。しぶしぶと再び地面に腰を下ろした半次郎に、お龍は表情を消したまま独り言のようにつぶやく。

「ねえ、半次郎さん。うちの人を斬ったのはあなただって世間では言われているの、ご存じです? 私はそれがたまらなく悔しいのですが」

 どこかで、寺の鐘が一つ鳴った。その余韻がようやく消えるころ、半次郎の口から言葉が漏れた。

「……私は別に構いませんよ。その方が下手人を油断させるのに都合がいいし、あなたのかたき討ちもやりやすくなる」

 足元の草をちぎりながら朴訥ぼくとつと話す半次郎の顔を、黄昏たそがれが赤く染める。その横顔を目を細めて眺めたお龍は、着物に付いた草を払うと子供のように立ち上がった。

「さあ、まずは赤馬関あかまがせき(現在の下関)に向かいましょうか。もう、私の後をこそこそとついてくる必要はございませんのでしょう?」

「まあ、そうですな」

 先に歩き始めたお龍は、山の端に沈みかけた陽光を背にして振り返った。

「半次郎さん。昔から私のこと、好きでしょ」

 あはは、と笑ったお龍が、再び背を向けて峠を上り始める。ようやく我に返った半次郎は慌てて立ち上がると、二人分の荷物を抱えてその後を追った。



<了>

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