第6話

  ホルチに押されたシラフは、気が付くと境を超えて、白街に立っていた。先までの騒ぎが閉ざされ、周囲は穏やかで、愉快な雰囲気に包まれていた。灯がないものの、建物、道路や植物といった街そのものが明かりを放しているようだった。街に、シラフが火の国に来たばかりの時、丘の上に見た赤い服の人々が往来する。彼らの横で、黒街から入ってきた人々は、まるで難民のように見えた。

  「おじ…」

  「ホルチ兄…」と泣き出すアギとジガの呻きで、シラフは我に返った。彼は果てしなく続く白めな境を眺めながら、ホルチのことを思い出した。「早く行け。遠いほど良い」と言った叫びが耳に響き、アギとジガの世話をするのが自分しかないことを知らされた。

  「シラフ兄、あなたの揺れかごがない」とアギが涙を拭きながら呟いた。シラフが背中を触ってみると、本当になくなっていた。

  「境を過ぎた時消えたかな」シラフは口ごもった。今それを気にする余裕はなかった。

  「早く行こう」シラフはアギとジガを両手に引きながら、人群れに入った。道路に沿って歩きながら、白街の店の名前と立札が黒街のそれと違っていたことに気付いた。「本性の清浄」という店の玄関に「怠けを本質から治すまじない」、「本性を清め、本質を高めるまじない」と書かれていた。もう少し進んだところ「希望のいろいろ」という店からのんびりとした音楽が流れ出て、人々が入ったり出たりしていた。赤い服の三人が、そこから出てきて、何かを熱心に話すのがシラフにおぼろげに聞こえた。

  「その家族の願いは叶ったか」右側の背の低い人が左側の長い髪のものに聞いた。

  「大したものは得なかった。だけど、まあまあいいかな」と長い髪のものが物足りない口調で言った。そして「君のところはどうだ?」と聞き返した。

  「今年は優れたものを得たぞ。その家族はもっとよくなるな」と左側の人が満足げに語った。そして二人とも、真ん中に黙って歩く背の高い人に尋ねた。「まだだめだったか」と。

  「因が悪いと、果が良くなるはずがないな」とその人はため息を付いた。

  「まあ、それはそうだな」と残りの二人が頷き、三人とも人群れに姿を消した。

しばらく進むと、ジガとアギの足がだんだん重くなってきた。

  「お腹が空いた。僕たちも食べよう」とジガが、道端にある料理屋から出てくる人々を見ながら呟いた。アギも唾を呑み込んで、期待に満ちた顔でシラフを見上げた。おいしい匂いに、彼らのお腹がゴーゴーと鳴った。だが、シラフは、「火の国のものを食べていけない」と何度も言っていたおじの注意を忘れていない。白街でもそれを破ってはいけないと固く思った。

  「やはり木の種を食べよう」とシラフが言い、アギとジガを連れて道端に座って、おじのポケットに縫ってくれた木の種を出してかじった。

  そこから出発し、人の流れに付いてまだしばらく歩いた。すると、目の前に「火の国駅」という大きな看板が見えてきた。人々が並んでいるから、シラフたちも長い列に加わった。シラフが何度も前後に並ぶ人々からあれこれ尋ねたが、誰も頭を振って知らないと言った。ただ、ここに並べばいいそうだ。シラフたちは、頻繁に背後を振り返りながら、人々の間からおじとホルチの姿を探した。

  前の人がだんだん薄くなり、シラフたちも駅のホームに入った。

  「これが駅か」シラフは呻いた。彼は目の前の景色に圧倒され、おじたちを待つ心の焦りを一時的に忘れた。ホームが果てしなくうねり曲がって、視線先に暗がりの中で消えていた。ホームから見下ろすと、無限に深まって、底ない谷の端に立っているようだった。シラフの背中がぞっとし、アギとジガの手を握り締め、今にも走り出さんばかりだった。彼らは空に横たわる巨大な崖の端に立っているに違いなかった。道路も、路線もない。こんなところに乗り物があるというか。これまでなかった無力感がシラフを襲った。

  「わ…鳥だ。鳥が来たよ」アギが、ホームの下から現れた鳥を指して叫んだ。驚いたことに、暗がりの中からいろいろな鳥が次々と現れ、人々を乗せて飛び去るのだった。本当に夢のようだった。

  「見て、白鳥だ」

  「ほら、キツツキもいるよ」

  「あれはヒバリだ」

  「ススメもいるね」とアギとジガが飛び上がって、いろいろな鳥の名前を呼んだ。彼らの知る知らない鳥が、ホーム沿いにいかだのように近寄り、人々を乗せて暗がりの中で姿を消した。そんなに経たない内に、彼らの番になった。

  「三人か」人々を案内していた中年の女が、やさしく聞いた。

  「いや。五人だ」シラフが慌てて言った。

  「残りの二人はどこなの」女が穏やかにほほ笑んだ。

  「もうすぐ来るから、ちょっと待つよ」シラフは真剣な顔で言った。

  「よかろう。では次の人…」と彼女は、外の人々を案内した。だんだん人が少なくなり、鳥の数も減ってきた。

  「まだ行かないか。今度間に合わないと、まだ一年待つぞ」女は彼らを促した。

  「もう来ると思う。もうちょっと待つよ」シラフは同じ言葉を繰り返した。

  「もう閉める時間になったぞ」女は空を眺めて「もうそろそろ日出だからな」と言った。

  「もうちょっと待たせてください。とても大事な人だ。そろそろ来ると思うから」シラフは女に近付いて頼んだ。女は軽くため息を付いて「もう行かないと、君たち全部ここに残るよ。いいの」と三人を見た。

  「来た。来た」アギとジガが飛び上がった。シラフが振り返ると、ホルチが長い脚を遠く遠く伸ばして駆けていた。おじはやせ型で丈夫そうな体をより低くし、まるでゴールに達する選手のように懸命に走ってくるのが見えた。アギとジガは、彼らのほうに手を振って、早く来るように叫んだ。

  「俺たちを待ってくれたか」おじは人のないホームを見回して、息を重ねて言った。

  「これが君たちの待っていた一番大事な人たちか」女は、シラフにほほ笑んだ。

  「そうです。待たせてくれてありがとうございます」シラフは女に向いて深いお礼をした。

  「とんでもないわ。待ったのは、君たちだよ」と言い、女はホームの下の暗がりに向いて、口笛を鳴らした。すると、崖にこだまするだけで、鳥は現れなかった。彼女が何度鳴らしても鳥の姿が見えなかった。「残念だわ。もう全部帰ってしまったみたい」彼女は振り返って情けない顔で言った。

  「何?もう帰ったと…まだ太陽が出ていないのに」ホルチは焦って叫んだ。

  「鳥に人間を運ぶ義務などない。ただ優しい心で助けているだけだぞ」と女は責める口調で言った。

  「ごめんなさい。僕は…」ホルチは謝った。アギが彼らから離れた崖の端に立って、暗がりに向かって、カササギのように鳴った。これを見て女が「小娘、君が鳥の言葉が分かるの」と驚きの声を上げた。

  「そうです。私がハトの中に住んだことがあるから」とアギが明るく答えた。彼らの話が終わるかないか、暗がりの中から一個のカササギが現れた。

  「来た。来た」ジガが喜びの声を上げた。

  「一つのカササギが全員を運べるの」シラフは底のないホームの中を眺めて不安そうに口ごもった。

  「心配するな。君らは今一枚の羽よりも軽いから」と言いながら、女は袖を振った。すると、激風に飛ばされ、彼らはホームから落ちていった。シラフの目に、女が何気なく扉を閉じるのが見えた。ホームは空に浮く雲のように遠さがった。カササギはまるで空中に飛ぶ虫をつかむように潜ってきて、彼らを一人一人拾い、背中に乗せた。

  「待たせたと怒ったか、それとも無礼なことを言ったと罰与えているか、背後から突然吹き飛ばすなんて…」とホルチは喘ぎながらもぐもぐ言った。

  「時間がぎりぎりだったと思う。太陽が出ると、もう離れなくなるからさ」とおじは穏やかに言った。

  「僕はこのまま人の家の煙突に入っちゃうかなと思ったの」とジガは落ちた前歯の間から舌を出しながら、わくわくと話した。

  「その可能性もあったな」ホルチが笑うと、みんなも笑った。

  「ホルチ、すまなかったな。君がくれた鏡を黒魔女とその手下に当てたら、火が飛び散って炎の生き物のように彼らを襲ってから消えてしまったの」とおじは突然思い出したように申し訳げに話した。

  「大丈夫だ。おじいさんが話していたんだ。時になれば、鏡が自分で戻っていくからと。きっとおじいさんのところに帰ったと思う」とホルチは懐かし気に遠くに果てしなく赤らむ火の国を眺めた。「ありがとうございます」と呟き、手首を触ると、おじいさんがくれたハンカチのような時計も既になくなっていた。彼は、息を深く吸い込んでほほ笑んだ。

  「カササギがこんなに大きかったか」シラフは、五人が座ってもまだ空いているカササギの背中を見て驚きの声を上げた。

  「火の国にとって、俺らはただの空気のような存在だから。カササギにとっても同じであろう」とおじが言った。

  「僕…僕たちが空気?」シラフは信じがたく自分を触った。なにもかもふだんと同じで、痛みも、飢えも、息も感じているのに、空気だと言われるなんて…彼は冗談でも言っているかと思い、おじを見たが、彼の顔は真剣だった。「だったら、僕…僕はどこなの」と緊張気味に尋ねた。

  「家にいるかもしれないな」おじは彼らを見回して「病院にいる可能性もあるし…どこにいても、普通の生活ができていないはずだ。なぜならば、君…いや魂が体から離れてしまったからな」とおじは深いため息を付いた。

  「今帰ればどうなるの」アギが首を傾げた。

  「帰れば、きっと元気になるよ」おじの顔がパット明るくなり「普通の生活に戻れるぞ」と言った。それを聞いて、シラフたちはほっとした顔をした。

  「何これ?」アギは横を指した。

  「わ…」彼らは唖然とした。遠くに、火の国の先に、巨大な火が燃え上がり、その赤い炎が天に達していた。それが、無限な空を赤くかすませ、空中に眩しく光るのだった。その下に、火の国の街々が赤い色に染められ、果てしなく続くのだ。

  「あれは火の祭りの火だぞ。こんな大きかったか」おじはやっと口を開けた。

  カササギは、これらに目をくれずに、飛び続く。しばらく進むと、やがて膨大な鳥の群れに追い付いた。そこに家の庭に、野原に、高い山に、あるいは夏だけ見える、もっと言えば、見たことのないたくさんの鳥が人々を乗せて、前へ飛ぶのだった。人々の顔が喜びや微笑みに染められ、互いに手を振った。

  「みて、スズメもいるな」ジガが二人を乗せて飛ぶスズメを指さして叫んだ。

  「本当だ。見て、後ろにいっぱい付いている。群れで行っているよ」一羽ごと二三人乗せたスズメの群れを見て、アギも声を上げた。

  「これはすごいぞ。速いし、力強いな」と背中に何十人を乗せて、大きな翼を音立ててふりながら、彼らの横を過ぎる鷲を見て、ジガは羨ましげに言った。そしてカササギの羽を撫でて「僕らのカササギも負けてないな」と目を光らせた。

  突然、鳥の群れが大声で鳴った。その一瞬、暗がりを刀で横切ったように陽光が差し込んた。

  「ア…」と呻き、おじ、アギとジガが手で日光を遮った。彼らは太陽の元で目を開けられなかった。シラフが眺めていると、火の国の街々があっという間に泡のように消え去り、大地が揺れ動きながら立ち上がり、大きな山になった。巨大なトルガに燃えていた火が、空を覆った彩りの虹に変わった。目の前の不思議さに圧倒された人々の驚きと騒ぎを構わずに、鳥の群れはばらばらになり、四方八方に向いた。

  「いつの間に、こんな大きな虹が出たの」おじはやっと陽光に慣れたらしく、目を細めて空を見上げた。

  「想像が付かないよ。祭りの火が、一瞬虹になったよ」ホルチは興奮の余り叫んだ。

  「そうだったか」おじは、火がどうやって虹に変わったか想像しているように、しばらく黙ってから「人々の願いの現れか。こうであるはずだ」と静かに言った。

カササギは、鳥群れから離れて、青い空を横切って飛び続けた。

  「もうそろそろ家だろう。みんな元気でな」とおじが言い終わる前に、カササギが大声で鳴った。

  「シャガシャガ…シャガシャガ…」と


  シラフは目覚めた。彼が目を開けると、村のオダチが、長い銀の針を持って、覗き込んでいた。

  「何?何で?」とシラフは目を見開いて、慌てて起き上がった。

  「熱が上がって、二日になっているの。薬を飲ませても聞かないの」と母が心配そうに、オダチに訴えた。「何とかお願いします」

  「それはいらない。僕が戻ってきた…もう二度と行かないから」とシラフはオダチの銀の針を見ながら怖気づいた。オダチは、よく銀の針で刺して人々の病気を治すのを知っている。彼も一度刺されたことがあった。それは痛いものだった。

  「もううわごとまで言っているよ。熱が高過ぎたからか」と向こう側に座った父が不安そうに言った。

  「本当だよ。僕が…」シラフはどう話したらいいか分からなかった。

  「それならいい」意外とオダチに話が通じたようで、彼は長い針を箱に入れながら「もし二度とあっちこっちにうろついたら、これよりも長い針で刺すぞ」とほほ笑んだ。

  「あの世界で黒魔女に鞭で叩かれそうになったり、この世界でオダチに針で刺されそうになったりして、本当に大変だ」と思いながら、シラフは額の出た汗を拭いた。そして鼻に入ってきた母の料理のおいしそうな匂いをにおって「やはり家に帰ってよかった。何と言っても食べ物がおいしいし…」とうれしくなった。

  「子牛のことを心配していた人が、自分で寝込むとは…」と母が優しく言いながら、シラフの額を触って熱を見た。

  「子牛は大丈夫か」シラフは、病気にかかった子牛を思い出した。

  「そこにいるんじゃない」母がほほ笑んで、シラフの背後を指した。シラフが振り返ると、弱々しくて頭を上げられなかった子牛が元気よく歩いていた。

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シラフと火の国 @GalqinAliya

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