赤い花弁

 良徳さんと入れ替わるかのように、病床には今、剛士が寝ている。


「いつ怪我したの?」

「多分、哉がやられたとき。手榴弾の破片が瞼を掠った気がしてたんだ」

「何でこんなになるまで放っておいたんだよ、もっと早く言ってれば――」

「――ついこの間まで大丈夫だったんだって」


目に黴菌が入って酷く痛むらしい。

あらゆる薬がもう底を着いているので、治療はできない。

せっかく今日まで生き残ったのに、剛士はもう二度と世界を見る事ができなくなってしまうのだろうか。

良徳さんみたいにならないか、気が気でなかった。



 ところが、剛士が穀潰しと言われる前に、肝心の食料が完全に尽きた。

6月の末のことである。

そこから数日は草や虫を喰って凌いだけれど、味も悪いうえにまるで腹に貯まらない。

飢えを我慢できず得体の知れない物まで口にした人も居たが、嘔吐や下痢をし、むしろ水分と栄養を失って死んだ。

部隊の余命が残り少ないのは想像に難くなかった。

そんなとき、新たな知らせがあった……司令本部が陥落、牛島満司令は自決したと。

また、司令は最後に


「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」


と命じたそうな。

隊長はこれに則り、部隊全員での切り込みを行う事を決定。

決行までの間は殆ど無かった。

『部隊全員』に僕は含まれる一方で、実質盲目の剛士は役に立たないとして除外された。

つまり、ガマに剛士だけ残して行くのだ。

僕はもう、隊長に反論する気力も無かった。



「水汲んで来る」

「おう、気をつけてな」


僕の手には水筒でも桶でもなく、三八式歩兵銃だけが握られている事を、剛士は知る由も無い。


(さようなら、剛士)


僕は静かに上官たちの背に続いた。

これで良いんだと自分に言い聞かせながら。


 改めて、ガマの外は空気が美味い。

最後だからたくさん吸っておこうと思った――のも束の間、まだほんの少ししか歩いていないというのに、隊列の前進が止まった。

隊長の小声が状況を伝える。


「茂みを抜けた前方に米兵の歩兵大部隊を発見。これより突撃を仕掛けるっ」


天皇陛下万歳だとか名誉の玉砕だとかは興味が無いけれど、ここで全て終わる事に変わりはないんだ。

僕を含め、皆が息を殺しながら引き金に指を掛けたそのとき……


「置いて行かないでくれよ、どこ行ったんだ⁉︎ 浩介ーっ‼︎」


まさかの剛士が、大声で僕を呼びながら追い掛けて来た。

見えないなりに手探りで前を確かめながら歩いて来たようだ。

水汲みが嘘だと、どうしてわかったのだろう。

いや、今はそんな事を考えている場合ではない。

そんなに声を出したら間違いなく眼前のアメ公に撃たれる。

僕は咄嗟に彼のもとへ駆け寄った。


「おい、貴様! 勝手な行動をするな‼︎」


隊長の説教も最早僕を止められはしない。

確かに、もう全部を諦めた。

確かに、死を覚悟した。

それでも、もう友達を失うのだけは見たくなかった。


「剛士ッ!!!!!!」






 その後、隊長たちがどうなったかは知らない……十中八九壊滅したのだろうが。

腹から血を流す剛士をおぶって、僕は何時間も林の中を彷徨った。

ノロノロと、フラフラと。


「こぉ、すけ……」

「しっかりして、絶対助けるから」

「こおすけ」

「生き残ってる味方がどこかには居る筈だから、合流して手当を――」

「――浩介」


剛士の声はとても苦しそうなのに、酷く落ち着いているようにも聞こえた。


「もう良いから、ここで下ろしてくれ……一緒に居ても、共倒れに、なる」


(そうだけど、その通りだけど……そんな事したくない……)


葛藤とは裏腹に、

限界を迎えた足腰が、腕が勝手に剛士を地面に置いてしまう。

丁度、赤い花を付けたデイゴの木の下だった。


「すぐ助けを呼んで来る……‼︎」

「その前に、浩介……ちょっと、頼んでもいいか?」


僕は食い気味に返事をした。


「勿論! 何でも言って‼︎」

「母ちゃんに会わせてくれ」

「それは……」

「へへへ……ごめんな、無茶言って。今のは嘘で、本当は、手榴弾、欲しかった」


確か、剛士は自分のを良徳さんにあげてしまっている。

僕は剛士の手にそっと手榴弾を握らせながらも、


「これでどうするんだよ?」


と問うた。


「アメ公が来たら、追っ払うのに使う、だけだ」


剛士の目は包帯で覆われているから、どんな表情をしているのかイマイチ読み取れない。


「本当にそれだけ?」

「本当」

「約束して」

「約束する」

「じゃあ、僕は行くよ?」

「迷って、すぐ戻って来たり、するなよ……」


僕は落ち葉や枝をザクザク鳴らして歩き始めたけれど、


「少しの辛抱だから!」


とか


「諦めないでよ?」


とか言って頻繁に振り返った。

その度に剛士も


「うん」


とか


「おう」


とか返事をしていた。

こんなのを何回も繰り返していると、やがて――ついに、剛士の姿が見えないところまで来た。

僕はまたも全速力で駆け出した。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


耳を塞いで、更に大声を張って、走って走って走って……


「あああああぁぁぁ………ハァ、ハァああああぁぁァ、ハァ、ああぁ、ハァ、」


息が切れて膝から崩れ落ちた後も、諦め悪く叫び続けようとして……





 突如、地面に鈍い振動が走った。

たった一回だが、強い揺れだった。

立て続けに、焦げ臭い風が僕の後ろ髪を撫ぜる。

恐る恐る振り返ると、赤い花弁が一枚落ちてあった。





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 80年経った今でも思う。

真境、君が正しかったよ。

僕がわらばー兵になって失ったものは数え切れない一方で、得たものは何一つとして無い。


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わらばー兵 幸/ゆき さん @WGS所属 @yuki0512

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