夫の浮気相手

 家に帰ると、隆司はすでにリビングのソファに体を預けてくつろいでいた。

「ただいま」

 隆司の顔を見ることが出来なかった。

「おかえり、どうしたの、どこか出掛けてたの」

 隆司が体を起こして、わたしの顔を覗きこんできた。

「えっ、あー、隆司もおかえり。う、うん、ちょっ、ちょっとね。近所の人とね。すぐに夕飯の準備するわね」

「いいよ、疲れてるだろうから、今日は外に食べに行こうか。それとも、俺が夕飯作ろうか」

 隆司は笑みを浮かべ、いつも以上に優しい声で言った。最近は優しすぎる。それを素直に受け入れられない。

「う、うん、じゃあ、外に食べにいきましょうか」

「なに? 元気ないな。熱でもあるのか」

 隆司がわたしのおでこに手をあてようとした。

「だ、大丈夫」わたしは隆司の手を払った。

 それから二人で外食した。隆司は、わたしのお気に入りのハンバーグの専門店に行こうと言ったが、そんな気にはなれなかったので近くのラーメン屋で済ませることにした。

 隆司はチャーシュー麺とチャーハンを注文し、わたしはラーメンだけを注文した。美味しいラーメンのはずだが半分以上残した。喉に通らなかったし味もわからなかった。

 食べている間、隆司はずっと明るく話しかけてきた。わたしが元気がないことを気にしているようだったが、わたしは、ぎこちないままだった。今日のこと、女のことが気になった。しかし、隆司から聞き出す勇気はなかった。


 はじめて母親に隆司を紹介した時のことを思い出した。

「誠実そうで、優しそうな人じゃない。こういう家庭的な人だと、お母さんも安心だわ」

 わたしもそう思っていた。今もそう思いたい。


 隆司が女と会っているのを目撃してから数日が過ぎた。その間、隆司とわたしの会話はギクシャクしたままだった。

 そして、また残業で少し遅くなるというメールが届いた。今日こそ、あの女の正体をつきつめてやる。別れることになるかもしれないが、その覚悟を決める時だ。このままモヤモヤと過ごすのは、お互いのためにならない。わたしは着替えをすませて家を出た。

 前と同じようにコーヒーショップで待っていると、隆司が会社から出てきた。

 前と同じく隆司は帰る方向とは反対の右側に歩いて行った。そして二つ目の交差点を右に曲がって行った。

 わたしは隆司を追いかけて、交差点を右に曲がると、ちょうど隆司と女が喫茶店に入るところだった。わたしは、また酒屋の前で待つことにした。今日も頑固な木製のドアは、一時間沈黙を続けた。その間、かじかむ指先に息を吹きかけ続けた。

 一時間後、ドアがカランカランと音をたてて開いた。ドアの隙間から隆司と女が出てきた。

「隆司、どういうこと。この女は誰よ」と二人の前に立ち声を荒げる勇気は持てなかった。こっそりと二人の様子を伺った。隆司と女が向かい合って立って、何やら言葉を交わしている。

 隆司が女に向かって、「妻とは別れるから、しばらく待ってくれ」とか言ってるんじゃないかと思うと重い気持ちになった。

 最後に隆司が敬礼のポーズをし、女が手を振る姿を見て、また頭に血がのぼった。

 隆司は来た道を戻っていく。女は反対の方向に歩いて行く。ここからホテルへ向かう様子はない。少しだけ救われた気持ちになった。隆司の後を追うべきか、女の後を追うべきか一瞬悩んだが、女の歩いて行く方向へと足は向いた。

 今回は見失わないように、先に信号を渡った。女と少し距離をおいて、女の背中を睨みながら追いかけた。女は前と同じ角を曲がったので、わたしは急いで角まで走って行った。角に着いてから薄暗い道を見渡した。

 しかし、どういうわけか、今日も女の姿はなかった。わたしは学校のグラウンドと工場のシャッターを交互に見ながら走って道の奥へと歩いて行った。

 女はどこに消えてしまったんだろう。また突き当たりの川の土手まで来たが、やはり女の姿はなかった。

 空を見上げたが、月は見えなかった。風が強く桜の木が大きく揺れていた。月の明かりがなく風が強いせいで、この前より暗くて不気味に感じた。川の土手を上がってみた。川を覗きこむと、昨日と今日の雨のせいで水の流れは激しかった。ザァーザァーと激しく音を立てる川の流れを見ていると、体が飛ばされそうなくらいの強い風が吹いた。

 強い風を顔面に受け髪をなびかせながら、その場でしばらく立っていた。わたしは一体何をしてるんだろう。悲しくて涙が止まらない。瞳からこぼれ落ちる涙が風で飛ばされていく。そのまま風に身を任せ目を閉じた。スゥーッと意識が遠のいていく感じが心地よかった。このまま前に倒れたら、わたしの体は川の流れにのみ込まれるだろう。それでもいい。

 その時、風に乗ってあの香水のカオリが鼻をついた。そして、背中から女の声が聞こえた。

「あんた、何してんの」

 わたしは、はっとして目を開けた。振り向くと女の靴が見えた。昔わたしが好きだったブランドの靴だ。今、わたしを苦しめている女が目の前にいる。恐る恐るゆっくりと顔を上げた。女の腰が見えた。細くくびれている。胸元が見えた。今のわたしとは違う女性らしい体型をしている。

 この女はどんな顔をしているのだろう。女の顔を見ようと、恐る恐るゆっくりと視線を上げた。

 女の顔を見た瞬間、わたしの体が震えだして思うように動けなくなった。叫びたいが声も出なかった。

「あんた、しっかりしなさいよ」

「あ、う、……」言葉が出ない。

「あんた、結婚して幸せなの? 隆司、悲しそうだったよ」

「あ、う、……」

「隆司はね、自分に甲斐性がないせいで、あんたとは、うまくいってない。そう言ってたわ」

「あ、……」

「あんたね、隆司の気持ち考えたことある?  隆司は結婚してから、あんたが元気ないからすごく悩んでんの。わかってる?」

「う、……」

「あんた、自分だけが不幸だ、なんて思ってんじゃないでしょうね」

「えっ、……」

「隆司はね、あなたを幸せにしようと必死なんだからね」

「ど、……」

「なんとか言いなさいよ」

「ど、どういうこと? あ、あなたは、だ、だ、だれ」

 やっと声が出た。

「わたし?  何よ、わたしが誰だかわかってるんでしょ」

「う、うん、わ、わかる。た、たぶん」

 声が震えた。体の震えも止まらない。

「ふん、たぶんじゃないわよ。わかってるわよね」

「う、うん」

「何よ、元気ないわね。情けないな、元気出しなさいよ」

「う、うん、ごめんね、わたし」

 涙が止まらなくなった。

「そう、わかってるわね。わたしは三年前のあなたよ」

「な、なぜ?」

「なぜって、三年後のわたしが幸せにしてるのか期待して見にきたのよ。そしたら、何よ、このざま。ほんと、あんたバカね」

「そんなに偉そうに言わないでよ」

「偉そうにも言いたくなるわよ」

「なんで、隆司と会ってたの」

「だから、三年後のわたしが幸せなのか、隆司に確認したかったのよ」

「隆司はなんて?」

「あんたが幸せそうでないのが辛いって言ってた」

「そ、そう」わたしは俯いた。

「そう、じゃないわよ」

「だって……」

「隆司は、あんたがどうしたら幸せになれるか、わたしに相談してたのよ」

「それで、なんて?」

「どうしたらいいかっていうからさぁ、隆司は不器用で無愛想だから、少しはそこを改めて、家事を手伝ってあげたり、会話を楽しむようにしたらってアドバイスしたけど、うまくいかなかったみたいね。あんたが悪いのよ」

「わたしだって、一生懸命、やってるわよ」

「なんか、体もぼてっと太っちゃって、服もだらしないし、化粧もしてないじゃない。あなた女を捨ててるの」

「あなたには、わからないわよ。主婦は大変なのよ。パートで働かないとやっていけないし、家事もやらないといけないし、自由な時間もお金もなくなるのよ。結婚すると、あなたみたいに気楽に暮らせなくなるの」

「ふーん、じゃあ、わたしが隆司との結婚を取り止めようか?  そしたら、あなたも自由に生きていけるわよ。それでいいの? 隆司と別れていいの」

「そ、それは、嫌。隆司との子どもがほしい」

「じゃあ、隆司はあんたのこと愛してるんだからさぁ、もっとあんたも隆司を愛しなさいよ。隆司はあんたの為に頑張ってるわよ。浮気を疑う前にそれに気づいてあげなさいよ」

「隆司も何も言ってくれないし、あなたとコソコソ会ってるからいけないのよ」

「あんた、隆司の性格、わかってんでしょ。そんなこと言って自分を正当化しないでよ」

「わたし、どうすればいいんだろう?」

「あんた、ほんと馬鹿ね、結婚式で誓ったんでしょ。それを忘れないことよ」


誓いの言葉


1、互いに嘘、いつわりなく誠実であること


2、互いの両親、友人を大切に思うこと


3、互いを信じ合い、助け合い、愛し続けること


4、互いに出来る限り今の体型をキープすること


5、ケンカをしても、すぐに仲直りすること


6、今日の日の感謝を一生忘れないこと


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結婚式の誓いと浮気の疑惑 まつだつま @sujya

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