浮気現場

 わたしは今、コーヒーショップにいる。ティータイムを楽しんでいるわけではない。

今日、隆司から残業で遅くなるとメールが届いたので、わたしは、浮気の疑惑をはっきりさせるために行動を起こすことにしたのだ。

 このコーヒーショップから道路をはさんだ所に建つビルの五階に隆司の働く会計事務所がある。

 わたしは窓際のカウンター席に座り、そのビルのガラス張りの自動ドアを腕組みをして睨みつけるように見ていた。


 結婚前は、よくこの席に座り、隆司があのビルの自動ドアから出てくるのを、両肘をつき手の甲を顎にあて、胸をときめかせながら待ったものだ。隆司が自動ドアから出てきて階段をトントントンと降りる姿が見えたら、口元が勝手に緩んだ。信号で待っている姿を見ると笑顔になった。信号を渡りコーヒーショップに近付くにつれて、わたしの笑顔は全身へと広がっていった。隆司がコーヒーショップに入ってきてコーヒーを注文すると、わたしはボックス席へと移動した。そして隆司がわたしの席まで来てコーヒーをテーブルに置き、笑みを浮かべわたしの前に座る。グレーのブレザーに黒いズボン、ネクタイにもこだわらない、いつも地味な隆司だが、わたしにはキラキラと輝いて見えた。


「お待たせ」

「うん」

「結婚式、もうすぐだな」

「うん、わたし、ちょっと緊張してきたわ」

「幸せになろうな」


 いつもこんな会話からはじまった。世界一幸せだと思っていた。

 あの時、わたしがよく言った言葉がある。


「三年後も五年後も十年後も二十年後も一生、わたし達は幸せにしてるかな」


 すると、隆司は必ず、こう返した。


「当たり前だろ」


 そして、わたしはこう言った。


「本当! それじゃあ、まずは、わたし達の三年後が見てみたい」わたしが満面の笑みを浮かべると隆司は、少しはにかんで笑った。


 あの時のわたしが今のわたしを見たらショックだろうなと、ため息が出た。わたしは、自動ドアから一度視線を外し、コーヒーをひと口飲んでコーヒーカップに視線を落とした。すると、視界の端に人影をとらえたので、慌てて視線を戻した。隆司が自動ドアから出てきて、数段の階段を軽やかに跳ねるように降りる姿が見えた。わたしは三年前のような笑顔になれるはずはなかった。やっぱり残業ではないんだ。わたしはガクリと首を垂れた。隆司は階段を降りて人目を気にするように左右を見てから、右側に歩きだした。帰り道とは反対の方向だ。

 わたしは急いでコートを手にとり、半分以上残ったコーヒーを返却口に置いて、コーヒーショップを飛び出した。

 四車線の道路を挟んで、右斜め前を歩く隆司を見失わないように追いかけた。バスやトラックが往来し、わたしの視界から隆司の姿を奪う。隆司がドンドンわたしから離れていくように感じた。隆司は二つ目の交差点で立ち止まり、また後ろを見てから、右にスーっと姿を消した。交差点の信号を見たら青信号が点滅をはじめていた。ウワァーと喉の奥から変な声をあげ、全力疾走で信号まで走り、赤になりかけた横断歩道を一気に渡りきった。渡ってから息が切れて足がガクガクした。ラーメン屋の立て看板に両手をついて肩で息をしながら隆司が消えていった方向に視線をやった。


 二車線の道路の両側には店舗が連なる賑やかなところだ。手前にラーメン屋がありその隣に洋菓子店、本屋と続く。反対の通りにはお弁当屋、眼鏡店などが並ぶ。お弁当屋に立つ若い女性店員と目が合った。学生のアルバイトだろうその店員は、目が合った瞬間、幽霊でも見たかのように大きく目を見開いて、わたしから目をそらした。わたしはそんなに恐ろしい顔をしていたのだろうか。

 奥にもずっと店舗が並んでいるようだが、通りの奥にいくにつれて、すこしずつ寂れていく感じだ。ただ人の通りは少なくなっていくが車の往来は多そうだ。


 ずっと先に隆司の姿を見つけた。隆司は腕時計を見てから、周りをキョロキョロしている。誰かと待ち合わせをしているのだろうか。こっちに顔を向けたので、わたしは踵を返し、首をすくめた。その後、恐る恐るゆっくりと振り返ってみると、嫌な光景が目に飛び込んできた。隆司の前に若そうな女が立っていたのだ。隆司と女はそこで立ち話をしていた。女の姿は隆司の陰に隠れて、はっきりとは見えない。

「どういうことよ?」と隆司のところまで走って行って、ひっぱたいてやろうかと思ったが、その勇気はなかった。

 浮気の現場を押さえてしまったのかもしれない。胸がバクバクした。胸を押さえて深呼吸を繰り返した。仕事の関係かもしれないじゃない、と自分に言い聞かせ落ち着かせた。

 すると隆司と女は、人の気も知らずに、そのまま目の前の喫茶店に入ってしまった。

「えーっ、ちょっと待ってよ」

 吐く息だけで、声にならない声でそう言いながら喫茶店の前まで走って行った。

 喫茶店の前まで来たが、中に入る勇気はなかった。

 喫茶店のどっしりとした木製のドアがドーンと門番のようにわたしの前に立ちはだかっていた。このドアが隆司と女の邪魔をさせないよう、わたしを見張っているように感じた。ドアを蹴飛ばしてやりたかった。喫茶店の前に飾ってある色褪せ、埃をかぶったピラフやカレーの食品サンプルが、今のわたしの心のように思えた。


 ここから動く気になれないが、どうすることもできない。喉がカラカラなので、道路を挟んだところの酒屋の横にある自動販売機でペットボトルのお茶を買うことにした。

 温かいお茶を一口飲むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。フゥッーと白い息を吐いて、ペットボトルを胸の前で両手で握りしめ手を暖めた。三月でも日が暮れるとまだまだ寒い。コートのポケットに手を突っ込んで足踏みを繰り返した。心と体はどんどんと冷えていった。


 ペットボトルのお茶の温かさは、すでになくなっていた。スマホで時間を確認すると、ここに来てから三十分が経っていた。木製のドアは頑固に沈黙を続けていた。

 一時間が経って、やっと木製のドアがカランカランと音をたてゆっくりと開いた。

 女が出てきた。少し離れている上に、マフラーをしてうつむいているので顔が見えない。コソコソして泥棒猫のような女だ。そのすぐ後ろから隆司が出てきた。わたしは、慌てて酒屋の前に駐車してあった軽トラックの陰に隠れた。そっと軽トラックの荷台から顔を出し二人の様子を伺った。


 隆司と女は喫茶店の前で話をしていた。わたしは耳をそば立てたが、離れているので二人の会話はわたしの耳には届かなかった。

 会話はすぐに終わった。隆司は右手を上げ、敬礼のポーズをしていた。わたしとつきあっていた頃、別れ際にするいつもの隆司のポーズだ。女は小さく手を振っている。その様子を見て、わたしの嫉妬心が頂点に達した。軽トラックの窓にわたしの顔が映る。その顔は鬼のようになっていた。

 隆司は来た道を帰っていった。女は反対方向へと歩いていった。喫茶店だけで別れたのだから、ただの仕事の打ち合わせだよ、と自分に言い聞かせたが、敬礼のポーズをとっていたのが、どうも解せない。

 わたしは女の後を追いかけた。女は左側の歩道を早足で歩いていく。後ろ姿を見る限り、若くてスタイルもいい。悔しくて涙が出そうになった。女はどんな顔をしているんだろうと足を早めた途端、女はスッと左に曲がってしまった。

 わたしは慌てて信号を渡ろうとしたが、信号が赤に変わってしまった。地団駄を踏んで赤信号を睨んだ。信号の赤い光がわたしの目を冷たく刺した。わたし達夫婦が赤信号なのかもしれない。

 車が途切れた瞬間に赤信号を無視して渡り、女の曲がっていった道へと走った。

 街灯の少ない薄暗い道に入った。ひっそりとしていて、女の姿は見当たらない。

 わたしは早足で道の奥へと進んで行った。右側には緑色の高いネットが立ちはだかっている。学校のようだ。ネットの向こうには、シンとしたグラウンドが広がっている。手前にはサッカーのゴールがあり、一番奥には野球のバックネットが見える。校舎の一階に小さな灯りが見えた。

 道の左側は工場が三軒ならんでいたが、どこもシャッターが閉まっていた。一軒だけシャッターの横のドアから灯りが漏れ、二階の窓を見上げると、そこから灯りが見えた。人の気配を感じ、少しだけほっとした。

 時々、風が吹き抜ける。その度に工場のシャッターが鈍い金属音を響かせて、学校のネットは波をうって揺れた。

 そのまま道の突き当たりの川の土手まで来た。川沿いに走る道を左右に覗いてみたが、女の姿はない。道沿いに行儀よく植えられた桜の木が寒々しく見えるだけだった。一ヶ月先の天気の良い昼間にここを歩けば、淡いピンクの花と青い空を見て、心も晴れやかになるんだろうなと思った。わたしは桜の木を見てから、深く呼吸をし空を見上げた。群青色の空に輪郭のはっきりした満月が見えた。この満月だけがわたしの見方をしてくれてるように思えた。満月の灯りがなければ、ここはもっと暗い道だろう。


 最近は空を見上げる余裕もなかったなと満月を見上げながら思った。満月はわたしに向かってやさしく笑ってくれているように見えた。満月の中に、結婚前にわたしに向けてくれた隆司の笑顔が浮かんだ。わたしも満月に向かって笑顔を向けた。気持ちがスーッと落ち着いていくのを感じた。

 その時だった。強い風が吹いてわたしの背中を押した。体が飛ばされそうなくらいの強い風だ。足を踏ん張り、体を屈めている時に、背中から人の気配を感じた。

「ウフフ」と女性の笑い声が風の音といっしょに耳に届いた。その声にわたしの背筋は凍りついた。

 その後も「ウフフ、ウフフ」という不気味な笑い声が何度も聞こえてくる。

 わたしは、恐る恐る、ゆっくりと首をまわした。後ろを向いた瞬間、突風がわたしの顔面に突き刺さった。わたしは顔をそらし目を閉じた。

 その時、フワーっとあの香水のカオリが鼻をくすぶった。あの女だ。慌てて目を開けたが女はいない。辺りを見回したが誰もいない。

 目に飛び込んできたのは、この道に入る前に渡ってきた横断歩道の青信号の光だった。青信号の光が早くこっちに来いと叫んでいるように思えた。わたしは恐ろしくなり、青信号に向かって一目散に走った。


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