望月の歌
香久山 ゆみ
望月の歌
御簾越しにちらとあなたと目が合った気がした。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
「返歌を」と言い添えたあなたの言葉を右府はどう捉えたのか、このような美句に付ける返歌はございませんと言い、皆を促して唱和した。あなたは苦笑していたけれど、夜天にろうろうと響き渡る男達の歌声はまるで夢心地のようだった。
右府の困惑ももっともである。
そもそもあなたは誰かに返歌を求めたわけではなかった。叢雲が月を隠してしまっていることからも明白だ。しかも、まるい月が浮かんでいるはずとはいえ今宵は十五夜を一日過ぎた十六夜である。かといって、あなたの歌に対して欠けゆく月を詠むわけにもいかぬ。生真面目な右府が望月の返歌を避けたのも頷ける。もしも彼がこの歌を記録に残すならば、座興で詠まれたものであるとかなんとか
見えない満月を詠み上げた歌に、皆はあなたが
けれど、私から見たあなたは、いつもどこか寂しい人だった。
人とは異なる道を進めば進むほど、誰にも弱みを見せられなくなる。他人に理解されぬという寂しさが私達の心を繋いだ。しかし、不器用でへんに理性的な私達にはそれを表立って表現することは難しく、たまにお話をするような機会があっても、面白くもない冗談を交わすことしかできない。
なのに、互いの存在はいつの間にか徐々に大きくなっていた。
あなたの歌は、けっして右府に返歌を求めて詠んだものではない。
返歌として詠んだのだ。かつて私が詠んだ歌に対して。
めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代もめぐらめ
太皇太后様があなたの孫として東宮様をご出産された祝賀の宴だった。
皆が赤い顔をにこやかに緩める中で、栄華の入口に立ったはずのあなたの笑顔はやはりどこか寂しげだった。そんな寂しさを押し隠すように、公達や仕える女房達に、あなたは手づから酌をして回った。
祝杯としてあなたが私に盃を寄越す。わずかに指が触れ、ほんの少しだけ溢れた酒が私の手を濡らした。その瞬間、思わず私の心も溢れて歌を詠んでしまった。
――あなたという光を得てこそ私というさかづきは満ちるのです――
祝いの席に託けて詠んだ歌は、東宮様を寿ぐ歌として、さいわい他人の目に留まることはなかった。けれど、あなたにだけは通じたはずだった。なのに、その時あなたは歌を返してはくださらなかった。
けれど今宵、十年の歳月を経てようやくあなたは歌を返してくださった。
――もしもお前という光によって我が月を満たすことができていたならば、満足のゆく我が人生であっただろうに――
あなたが月を見上げる。見えない月を。叢雲がまるで御簾のように二人を隔てるけれど、心はいつになく通じ合っている。
私は、寂しさを埋めるように物語を書き続けたけれど、ついに欠けた心が満ちることはなかった。
だからだろうか。
数年前に幕を閉じた私の魂は、月へ昇った。
祈りが通じたのか、今宵あなたの元へ私という光が届いた。あなたの寂しさを満たせ満たせと祈り続けたから。
あなたもずいぶん齢を重ねた。あなたがこちらへ来るのもそう遠くないのかもしれない。月は満ちれば必ず欠けゆくものだから。
束の間の慰めであろうと、あなたの寂しさを埋めることができたならば満足だ。
ああ、こうして誰かの心を満たすことで、自分自身も満たされるのだ。
今宵と同じ月がまためぐる時、雲間に見えるのはほんの僅かな時間かもしれないけれど、寂しい人は月を見上げてください。きっとその心に光を注ぎますから。
望月の歌 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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