第二幕:黒き靄、翠の弓

 道は二つに分かれていた。立ち止まったエリナの視線の先には、ぽつんと一本の木が立っている。その脇を境にして、右は鬱蒼とした森の中へと続き、左は丘陵をぐるりと回るようにして森を迂回する道だった。

 昨日、野営場で聞いた話を思い出す。二つの道は最終的に同じ場所へと繋がっていて、森の道は古くから使われてきた旧道なのだという。

 エリナは安全を優先しようと、迂回路に足を向けた。けれど、その瞬間、ぱさりと音を立てて木の実がひとつ落ち、ころころと転がって森の方へ消えていった。

 誘われているような錯覚に囚われる。胸の奥に、先日、瞳に流れ込んできた断片がよぎった。弓を携えた耳の長い少年の背後にあった、あの森の景色と重なって見えたのだ。

 気づけば、エリナは震える足を森の奥へと踏み出していた。

 一歩踏み込むと、外の空気とはまるで別物の湿り気が肌を包んだ。土に染み込んだ腐葉土の匂いがむっと立ち上り、ひやりとした風が頬を撫でる。葉擦れの音が絶え間なく耳をくすぐり、見上げれば枝葉が重なり合い、昼の光は細い筋となって落ちるだけだった。世界の境目を越えたような感覚に、背筋がぞくりと粟立った。


    ✦ ✦ ✦


 森の中は昼だというのに薄暗く、木の幹は太く逞しい。ところどころ幹には紐が結ばれていて、確かにかつて人が通った痕跡があった。

 だが、根や蔓が道にせり出しており、歩みは容易ではない。足を踏み出すたびに草の匂いと湿気が立ち込め、頭上ではカラスの声がひとつ響いては、すぐに森の奥に消えた。木漏れ日はわずかに差し込むものの、地表を濡らす苔はひんやりとして、足音がやけに響く。

 エリナは裾を気にしながら進み、額にはじっとりと汗が滲む。ときおり風のような気配が背後を撫で、振り返るたびにただの木々の影しか見えない。その繰り返しに心臓は強く脈打ち、落ち着きは次第に削がれていった。

 どれほど歩いたのだろうか。汗が背に伝い、今さらながら「やっぱり引き返そうかな」と心が揺れ始めた、その時だった。

 ――か細い鳴き声。

 耳に届いたそれは、助けを求めるような弱々しい響きだった。エリナは立ち止まり、身を固くする。正体の分からぬ声に躊躇いが胸を掠めた。

 森はただでさえ薄暗いのに、声のする方角はさらに奥深く、不気味な影が重なり合っていた。木々の間に吹き込む風が一瞬止み、周囲の空気が張り詰める。

 鳥の声も消え、沈黙だけが残った。だが、震える心を押し込めて思う。困っているのなら、助けなければ。勇気を振り絞り、声のする方へと歩を進めた。


    ✦ ✦ ✦


 木々の影の間に、それはいた。小鹿だった。足を傷つけ、地に伏している。細い呼吸がかすかに胸を上下させ、澄んだ瞳がエリナを見上げていた――はずだった。

 ほんの刹那、瞳の奥に黒い光が走った気がした。息を呑んだが、すぐにかぶりを振る。 そんなはずない。怖がりすぎて、目が勝手に幻を見ただけ。 小鹿を安心させようと、彼女は微笑んだ。

「大丈夫だよ。すぐによくなるから……」

 袋から包帯を取り出し、震える手で小鹿の足に巻きつける。柔らかな毛並みが手に触れ、弱い鼓動が伝わる。その一瞬、救えると思った。けれど――

 ぶわりと黒い靄が周囲に立ち込めた。小鹿の瞳がぎらりと光を放つ。次の瞬間、エリナは強い力で蹴り飛ばされた。息が詰まり、地面に叩きつけられる。視界が揺れ、目の前で小鹿の姿が歪み始めた。

 骨が軋む。肉が裂ける。細い四肢はねじ曲がり、背は隆起し、毛皮は黒く濁る。牙が伸び、血走った目が彼女を射抜いた。

 獰猛な咆哮が森を震わせ、枯葉が舞い上がり、枝葉がざわめく。腐敗した匂いが鼻を突き、エリナは涙を浮かべ、声も出せずに身を縮めた。

 恐怖に足が凍りつき、体は動かない。怪物の影が覆いかぶさり、鋭い爪が振り下ろされようとした、その時――

 ひゅん、と風を裂く音。

 矢が一筋、闇をかすめて飛び込んだ。怪物の肩に深々と突き刺さり、悲鳴をあげて倒れ込む。地面が震え、腐臭が広がった。

 エリナは目を見開き、震える瞳を矢の飛んできた方へ向けた。鼓動が耳の奥で鳴り響き、呼吸がうまくできない。背筋に冷たい汗が流れる。足はがくがくと震え、立ち上がることさえままならなかった。

「大丈夫かい……?」

 声はまだ幼い。翠の髪が揺れ、長い耳を持つ少年――いや、十歳そこそこの子どもにしか見えない小柄な姿が、弓を構えたままそこに立っていた。

 細い腕には不釣り合いな大きさの弓、それでも真っ直ぐに構える姿には不思議な力強さがあった。彼の顔立ちはあどけなさが残り、背丈もエリナの胸元ほどしかない。

 けれど、その瞳は年齢を超えた静けさを湛えていた。矢筒を背にした姿は幼くとも、森を守る者のような不思議な威厳を纏っていた。

 差し伸べられた小さな手が、怯える彼女に近づく。か細い指先が、しかし不思議と揺らがない。エリナは喉を鳴らし、ぎこちなく頷いた。

「……あ、ありがとう……ございます……」

 涙声で返し、その手を取って立ち上がる。驚くほど温かく、確かな力だった。幼い手の中に、思った以上の重さが宿っていた。

「礼はいらないよ」

 子どもらしい声で淡々と告げると、彼は軽く自己紹介を交えた。

「ボクはティル。森を見回っていたんだ。君は?」

「……エリナ、です」

 胸に手を当て、まだ震えの残る声で名を告げる。ティルは短く頷き、倒れた魔物を一瞥した。

 その横顔には幼さと同居する冷静さがあった。彼の耳がわずかに動き、周囲の気配を探っているように見える。

「ここに長くいるのは危ない。他のやつが来るかもしれないから」

 二人はその場を離れた。エリナは憐れむように、ただ一度だけ異形と化した小鹿の亡骸を振り返る。その眼差しは、悲しみと恐怖の混ざったものだった。

 もし、あのとき小鹿が異形へと変わる未来を知っていたら。見捨てることなんてできなかった。だけど、別の助け方を考えられたかもしれない。

その答えは出ない。

 ただ胸の奥に、遅れてやってきた無力感だけが重く沈んでいった。腐臭と黒い靄はまだ残り、森全体にじんと広がっていた。


    ✦ ✦ ✦


 吐き気を堪えながらも、彼女は歩みを進める。足元では乾いた枝がぱきりと折れ、異様なほど大きく響いた。

「さっきの……何だったんですか?」

「魔獣だよ」

「……魔獣……」

 耳慣れた言葉ではあった。けれど、実際に目の当たりにしたそれは、理解を拒む存在だった。血の匂いと黒い靄が、頭から離れない。

 母から聞いた昔話の中に出てきた怪物とは、あまりにも違いすぎていた。物語では討たれるべき脅威でしかなかったものが、今は現実の恐怖として目の前に存在していたのだ。

 エリナは胸に手を当て、鼓動の速さを必死に落ち着けようとした。

 歩きながらティルが問いかける。

「君は、どうしてこんな森に?」

「南の街に行くために……道を選んだんです」

 声は小さく、まだ動揺を隠せていなかった。ティルは幼い顔を少しだけ険しくした。短い眉がきゅっと寄り、その小さな背中が意外にも頼もしく映る。

「今じゃ、この森に入る人なんていないよ。……三十年くらい前までは通る人もいたけどね」

「三十年……?」

 その年月を口にした少年の声は、幼い響きを持ちながらもどこか古風で、時代をまたいできた者の落ち着きを帯びていた。

 ふと、エリナは本で読んだ物語を思い出す。人よりも遥かに長く生き、外見は若くとも百年を超える時を積む種族――長命のエルフ。目の前の少年も、きっとそうなのだろうと、彼女は半ば無意識に納得していた。

 エリナは思わずティルの横顔を見た。どう見ても自分より幼い少年が口にした年月に、混乱が増す。自分より年上なのだろうかと、場違いな疑問が頭をよぎる。

 彼の背中を追いながら、エリナはその不可解さに胸をざわつかせた。頭の中で「どうして」と繰り返しながらも、言葉にすることはできなかった。

 一方のティルは、目の前の少女を不思議に思っていた。魔獣が徘徊するこの森で、ここまで無事に来られたのは奇跡に近い。小鹿と出会うまで、どうやって無傷でいられたのか。瞳を持つ者特有の気配を感じながらも、今は問わず、静かに言った。

「出口まで案内するよ。ひとりだと危ないから」

 エリナは胸に手を当て、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 そして二人は、森を抜けるために歩き始めた。木漏れ日が揺れる中、鳥の鳴き声が一声、また一声と重なり、ようやく朝が近いことを告げていた。風に混じる湿った匂い、足元で跳ねる小石の感触、そうしたすべてが現実に引き戻してくれる。

 彼らの頭上を覆う枝葉は次第に薄くなり、空の色がわずかに見え始める。背後には黒い靄の残滓が漂っている。けれど彼女の視線は、もう前だけを見ていた。ティルの小さな背中が道を拓き、エリナの震える心を少しずつ落ち着けていくのだった。


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